I wanna be Leland Stottlemeyer

この頃見過ぎているドラマなので必然的にこの話題にはなるのだが、Mr.monkに出てくるリーランドという警部が出てくるんだけどその人をシリーズ通して見てて、ああ自由に生きてるなあと

ドラマだからそりゃ自由も何もそういう台本でしょと思うかも知れないけれどはっきり言ってドラマ以外でも人は自分たちの台本通り動いているんだから原理は一緒でしょ。

彼の生き様の何処が憧れるものかって自分のしたい仕事、命をかけれる友人、刺激的な毎日…なんてあげていくとキリがないけれど。
どれも僕らの多くには無いもので、欲しいけれどドラマだから、映画だからと言ってなんというか空白の部分なわけだ。

それを妥協と言わずに何を偉そうに妥協するなと言っているんだという感じがしてきたらそれはかなりハングリーな印かもしれない。

ともかく何もかも置いておいて行動するとすると、なんていう例えは意味がある場合もあるけれど今回は無い。

何もかも置いて人は実際に行動できないわけだから自分の理想のプランを立てるときは今の自分から繋げていく必要がある。
性格だってもう僕は持っているし人種だってあるし生まれた境遇だって変えられない。
明日からレゲエをかけながらベーコンエッグと食パンで朝食を一生とっていくなんて不可能なわけで(笑)

そうやって自分の理想のプランを立てるときに自分の現状を考慮した時、理想のプランが本当の理想ではなくなってしまう僕のような人にはなにか刺激薬が必要だ。刺激役かもしれはいが

自由な時間

学校の授業で珍しく面白いことをやっているので少しそこから。

内山節という哲学者の書いた本が現代文の教科書に載っていてそれを授業で扱っているのだが、彼の言っていることがとても面白いということ。

現代はコンピューターとか交通手段も含めて昔よりも効率化され、私たちの自由になる時間は増えたはずである。それなのに私たちが自由だと感じることのできる時間は(自由になる時間のこと)過去よりもずっと減っている。何故だろう。

というような感じ。
これはちょっと面白い。何が面白いかって僕ら現代人は自由な時間が無い!無い!と叫びつつそれについて考える時間を取りこういったことを考えないのだから。それなのに同じ現代人の中からこういった問いに向き合い、世間から評価されている。そのことに僕はこの世の安定感というかこの世への安心感というか、を感じずにはいられないのだ。


実はこの問い、答えを得るのはとても難しい。というか答えがあるかどうか知ることが既に難しい気もするが。簡単そうに聞こえながら手間を要する作業がこの世界にはいっぱいあるけれどこれはそれなんじゃないだろうか。



it's a gift,and a curse

この頃。多分このサイトに書き込み始めたくらいから、僕は自分の生活に前進というものがないと感じている。6日間学校に行って面白いとは言えない学問を学んでは日曜日ぼーっとして、なんだかもったいないとしか思えない。何がもったいないのかって、時間もそうだけれどこの時期(年、月、日)にしか考えられないことを考えていない若しくはこの時期にしか行動できないことを行動していない。それがもったいないと感じるのであるわけだ。
しかし学校が面倒臭いから自分にプラスになる道を進むために休むという極論には疑問を抱かざるを得ない。学校に行きながら残った時間で何かをしていた人がそう言うのであれば納得する面はある。だけれど今現在何にもしていなくて学校を辞めて何かを始めるというのは、さあうまくいくかな。と思ってしまう。身を置くところが変われば行動も変わるだろうがそれが身を置くべきところでなくてはいけない。そうでなければ意味がない。
身を置くべきところというのはあくまで自分だけの考えによるものではないと私は考えるのだが、自分の身を置く場所を変えるような行動家が人の意見をあっさり聞き入れるとは思えないしそうやって流されても良くない。やはり心をガシッと掴んでインスピレーションを与える、そんな自分に影響を与える何かがここでも必要になってくるのである。

総じて
自分の今何かに不満を持っていてそれをいい方向、望む方向に変えたいというのであれば自分に働きかける大きな影響が必要だがそれは自分から見つけにいくべきものでもあり、自分の行動による反作用としてインスピレーションを与えられればそれが良質な影響でもあるのではないかと思う。

でも正直世界は広いわけでその中で僕が悩んでいるなんてと考えるととても面白い。それを面白いと思える自分の頭の中も面白い。と思う自分の何かも面白い。

天賦の才です 難儀なね。

Appleを敬愛せざるを得ない理由の一つ

いきなりどうでもいい人にとってはどうでもいいこと書いちゃいますけど

さっき見てたApple.incのiMacのページ、あれすごすぎません?iMac retina 5Kディスプレイってやつなんですけど。

画面をスクロールすると下にページがずれていくんじゃなくて、なんとピンチアウトされたようなデザインになってるんです。思わず唸っちゃいましたよ。ああこれは…って。

 

5Kの繊細さをも表現しているのでしょうが、この演出というかデザイン?はね、ここ1年位の僕のネットサーフィンで見つけたページで一番なんというかグッと来たね。

前から皆さん承知の通りアップルはミニマルミニマルな感じを全面にだしていてホームページも本当に魅力的だったんだけれど。

じゃあなんで僕を始め(僕には知識が少ないこともあるが)みんなはビームスとかおしゃれなサイトを置いといてアップルのホームページを評価するもしくはああすごいいいねって思うのかというと

私見(いつも)ですがこうです。すごく仰々しいよく使われる言葉でキレイ事のようになって重みのない表現になりますがこれです。

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている。

とでもいうところにつきます。私見+私の偏見になると

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている(と思わせる)。

になるんですけどそれはおいておいて。

 

 

やっぱり中国の通関するのかどうかっていう商品を売っているようなサイトもそうですけども、この2014の時代に必要な技術としてホームページのデザインっていうのがありますよね。しかもそこで大事なのが(今日の日本のを始め世界の多くの企業では無理だろうけど)製品の宣伝(ホームページデザインであったり)をする人はやっぱり製品化に何らかの形で関わった人がいいということ。最高のキャッチフレーズとかHTMLの技術的な面もあるから一概には言えないところだけれど

実際のことなんて知らないけれどそれが消費者僕達にしらしめるようにしてくれているのがアップル。実際のことなんて知らないわけだから本当はそうではないかもしれないけれどそうしたらまたそこに(だますことに)見習うべきものがあるわけである。

吾輩は猫ではない。

 

 

噂のiMacのページは↓

Apple - iMac Retina 5Kディスプレイモデル

まあこういう新商品の紹介ページはすぐURL死んでしまうけどアップルの場合いちいちクリップしている外人さんがいるので調べてみると初代iMacのページとか見れます。helloのやつ。

 

 

 

ここ200日の記事の整理

 

自由に生きる - Think different

上野公園に行ってきたのでなぜか写真を何枚か貼る - Think different

犬の日課 - Think different

人に会うことの意味 - Think different

透明なコンクリートができたみたいです、すごすぎる - Think different

気がつきゃ勇み足そんな日には深呼吸をしてみるんだ - Think different

いつだって僕らは自由だ - Think different

個性って 【『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用】 - Think different

個性って no.2 - Think different

これから鉄塔を撮り続けてみたい - Think different

それもまた僕にとって真実 - Think different

認知バイアスについて - Think different

人につく愚かさ - Think different

アブノーマルになりたいですか? - Think different

てんとう虫Aとてんとう虫Bの違い - Think different

#1 from US - Think different

僕が日本を離れて知ったこと #2 - Think different

高校受験生諸君へ - Think different

もしも昨日が選べたら - Think different

ミニマリズム的な発想 - Think different

明日があるーさー - Think different

今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ - Think different

 

今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

http://instagram.com/p/tpDB7fHGw6/

一言で言うと今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

 

例えば君が明日死ぬとする。それがわかった時、何をするだろうか。

僕は自分が明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、なにもしないだろう。

もっと正確に言えば

「今の僕は明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、何もできないだろう」

だろう。

これを今見ている人は、それがどうしたと言いたいところだとは思うけどちょっと言いたいことを抑えて抑えて。

 

ここまで考えて僕が自分に問いかけざるを得なかったこととは、果たして今の僕といわゆる未来の(the who in several years later)自分とは考え方が変わっているのだろうかということである。

ここでの考え方とは、何かに対する自分の考え方という漠然としたものというよりは、自分が死ぬという最大級にまずい(やばい)状態に陥った時に(ドラマ的な言葉で言えば、最悪の精神状態の時)自分が導き出す答えの考え方であるが、(最悪の精神状態であるかどうかはわからないが)これは少し考えてみると面白い。

 

だけれどもこんな難しくて面倒くさいことを考える前には何かしら自分の目標というか、その考えた末に得られる何か、プラスになるものを定義しておくことが思考途中で挫折しない秘訣だとも思うので書いておくと

僕は明日死ぬとわかった時に何もしない奴にはなりたくないということだ。なにもしないって揚げ足を取る捉え方をする人はあまりいないと思うが、もちろん身の上整理とかをするとかそういうわけじゃない。

 

さて、最初に僕が至った考えとは

(実は写真もこの論からインスピレーションを受けて撮ったものなのだが)

もし、僕が極限の状態になったときに考えが変わるということは自分が死ぬことに関係している。(数学の証明みたいなめんどくさい言い回しですいませんが)

ここで死ぬということを考える。(死生観はこれから僕は学んでいきたいもののひとつであるから見解は変わるかもしれないが・・・)

死ぬということは自分がいなくなるということである。自分がいなくなるって、なにから?というわけであるがこの世から自分がいなくなる。自分の意識が、自分の存在が失せる。それって、かなりまずいことだ。

それはさておき、今僕は、意識がなくなると書いたわけだが、それは恥を知らなくなるということだ。(死後の自分の名誉であったりはするかもしれないが)恥を知らないと、僕ら日本人、人間はとてもできることが広がると思う。僕らは社会の中で生きているわけで当然恥というものを意識している。僕に限ったことではないとは思う。日本人を始め多くの人は、何か行動を起こすときに倫理的な判断よりも恥がどうだかこうだかとふと無意識に考えている気がする。

 少し戻ってこのことから何が言いたいかって、もし死ぬ前に自分の考え方が変わるとしたら、それは恥により自我に規制されていた行動が目をさますということ、つまり、自分がこれから生きていく上で気にしていく、背負っていくものがなくなったとわかった状態での思考ができるということだ。

 

そんな今まで積み上げてきたバランスゲームの積み木を一番下から引き抜いてぶっ壊して新しい積み木を立てる。

そんな考え方はかなりかっこいい。

 

 

と、此処まで寝ぼけ頭ながらにつらつら書いてきたわけであるがこんなさえない頭の状態で自分の発表を終えるのは息苦しい。だからこれから先、この問い、もし明日死ぬとしたら。について考えていこう。

明日があるーさー

今日、ニューバランスのコマーシャルでテニス選手が球を打ちまくった後に10000球打った後に分かることは更に10000球打つべきだということだ

というフレーズが流れるものを見たんだけれどこれで
ああそうだと思い出したことがあるので書きたいと思います。

人間誰しも食べだしたら止まらないじゃないけれどやり始めたら終えられない。みたいな経験をしたことがあると思うんです。それは部屋の片付けだったり、定期テスト勉強だったり、小説だったりするわけですが(ゲームは違いますよ。始める前から面白いと分かりきっていますから)これらの面白いところは、自分がそれらを始める前はつまらない、やる気が出ないと思っていたことでもやりはじめたらそれこそ止まらないという状態になれるということです。

このパワーを自分が何かに努力するに向けて応用させたいと万人が思ったでしょうがいまいちそんな輩の自己啓発文を読んでも文章を読んでも、うーんと言わざるを得ない感覚になることが多々あり。。



このブログが書籍化できない理由として起承転結の結まで筆者の思考が届いていないことが理由だと思いますが、実際いつもそこまで自分の思考が届かないことにうずうずしているんです。



ミニマリズム的な発想

Be a simple(let's)

 
 
 
いきなりなんだと思うかもしれませんがこの世界で最も大事な意識すべきものの一つとしてシンプルに物事を捉えるっていうのがあるというお話。日本語にも深いという言葉があるように、結構なものにと呼ばれるものがあったりするわけです。
 
 
ただ、無駄なものを省いて意識を集中させた思考でふと客観視してみるとその事物というのはまた違った顔を見せるよという何気ないことではありますがちょっと面白いことです。常識かもしれないけれども本能的に感じてみるといい物と理性的(?冷静な思考に基づいた考え)にfeelingするべきものって別れていなくて、それは時によってどちらの捉え方を自分が選ぶべきか選ぶべきものだと思ってます。
 
この頃〜べきという表現を文語で使うようにしているのですがこれは英語のshouldのニュアンス的な意味をもたせたいからです。toではないです、、。
 
 
さてさて、
今日は何を書きたいかというと題名にした通りBe a simpleのススメです。
 
余計なものを削ぎ落として、できるだけではなく限界までシンプルにしていく考え方にミニマリズムという主義のようなものがありますが、これを最初に知った時(中学のとき読んだスティーブジョブズの伝記)少し興味を持っていたことを覚えています。
 このブログでは前に書きましたが、自分が意識をしだすと自然と周りで今までは気がついていなかったことが見えてくるようになるんですけどミニマリズムに関しても僕はそれを深く思い知った(笑)のでした。
 
ミニマリズムと聞くとアップルの哲学!みたいなイメージを受けるわけですが僕はあまりミニマリズム的に、ミニマル的に考えが進まない派の人間です。実は。
 
よく広告に
 
  • Less is more – より少ないことは、より豊かなこと
  • Everything you need, nothing you don’t – 必要なものだけ
  • Perfection is achieved when there is nothing to take away – 完璧とはこれ以上削れない状態の事である
なんていうフレーズが使われたりもするけれど確かにそうだとは思いますが自分にはそういう発想ができそうにない。これをなんというのか自由ですが、売れる発想がないというのを自分に認めるのはとても気持ちのいいことではありません。 人に職業の向き不向きは無いんじゃないかと疑い始めてる私ですがこれは議論の余地が、余地というか、議論すべき点です。

もしも昨日が選べたら

もしも昨日が選べたら 

という映画を見た。今日はなにを書きたいのかというとその映画についてというよりはこの題名についてだ。

実際この映画は結構なコメディータッチで何かの考えの因となるには難しいような気もする。じゃあなにかって、もしも昨日が選べたらなんていう発想は無かったということです。

映画の題名ってなかなかセンスがある言葉が使われててそれでいて安っぽくないから何気に好きなんですが今回もなかなか味のある話を僕に考えさせてくれました。


明日を選ぶ云々の話はよく自己啓発書で出てくるジャンルなんじゃないかと思うけども、もう終わったこと、昨日を選ぶ。なんて考え方はちょっと新鮮だ。

これから先、つまり目の前にあることで精一杯の僕らはとてもじゃないがどうでもいい(と感じる)昨日のことなんて考えない。

そして、昨日を振り返ることによって最善策が導き出せるかもしれないのにその労力を惜しんでしまう。「対価は努力で」なんて言葉があるがそれだけ努力は面倒くさい。そして、もしも中途半端にやりたいことがあってもそれを目指すために努力し続けるのは辛い。

ここで、まあそりゃぁね。となると思うので、出てくるのがもしも昨日が選べたらという考え方だ。


昨日が選べたら今日は変わるんでしょうか。普通に考えて昨日の続きを生きているわけですから昨日行った全ては今日へ持ち越される気がします。

それならばこの問いかけの答えはほぼ全員が権力と金と才能をもった人が自分の昨日を生きていることを願うかと思いきや、そうではないところがあるからちょっと面白かったりする。昨日が選べたらといってもそれは昨日なのだからいきなり才能云々…ではなくない?とも思うんですが(笑)

どうしてもこれを選ぶ時には自分の昨日を生きてから考えるわけです。つまりこの問いに遭遇するみなさん全員は自分の昨日を顧慮して考えることしか出来ません。

それならば自分の昨日がこの問いに対する自分の答えに影響してくるのは自明の理ということです。

だからこそこの問いに応えることで自分の欲している、若しくは抱いているなんらかの感情を認識することができるのです。

高校受験生諸君へ

みなさんこんにちは。

残り少ない夏休みをいかがお過ごしでしょうか。もしくはそうでない方はお疲れ様というとこですが。

今日は中学3年生。所謂、高校受験生に今伝えたいことを自分の経験を含めて書きたいと思います。是非お付き合いください。

私は高い目標を持つ方に向けて書きます。低い目標の方とはするべきことが違うからです。

きついことに、高い目標というのは世間から高いとされる偏差値です。自分から見て高い目標ではありません。

 まず最初に言っておきたいのは高校受験って、都内私立トップ校であれ、地方県立トップ校であれ、努力をすればその結果が単純に出るということです。
 つまり誰でも勉強すればどの学校にも行けるということです。もう少し正確に言うと自分がどれだけ悩んでもわからない、っていう分野が高校受験には出てこないということです。(後に触れますが当日の運というのはあると思いますから)

そんなこと言ったら皆自分の行きたいところに行ってるはずじゃないかとなるわけですが、それはもちろん違いますよね。何故かって、誰でもって先ほど書きましたがこれは勉強をしたらの話だからなんです。
 つまり高校受験っていうのは筆を持つのが勝負なんです。筆を持ったら誰でも志望校を目指せますが筆を持たなければ(受験直前までやってなかったら)目指せるところも目指せないということです。

 じゃあ何故皆筆を上げないのかということだけどそれは決定的な情報がないというのがあるんじゃないかと思うんです。

それって何かって言うと「今日から一日3時間毎日受験前日まで勉強したら、○○高校入れるよ」っていう言葉。都合がいいかもしれないけれど、そういう言葉ってやっぱり大事だ。それがないと自分はなんのために頑張ってるのかを答えられない。ということは頑張れない。

だから私は出来るだけ早く信頼できる言葉を話す年上の人にそういう言葉を求めるべきだと思っています。




もう一つは勉強する意味を考えてしまうということです。これによって勉強する気が起きなくなります。なんでみんなやってる同じ年号をひたすら覚えなきゃいけないんだ…なんの意味があるんだ…何になるんだ…と。

そう考えて行くと僕自身もそうでしたが勉強する意味を夏休みとか、まだ受験ムードでないときには勉強をしなくなります。


 受験勉強をする意味は行きたい(良い)高校に行くためです。何故良い高校に行くのかというと学歴コンプレックスにならないためです。学歴が自分のしたいこと、自分がこうありたいというステータスの邪魔をしないようにするためです。


自分の知能の限界を知ることは誰にと高校受験では出来ないでしょう。しかし、自分の忍耐力の強さは正確に結果に反映されます。




因みにここまでこんなことを言ってきたのでそれについて言っておきます。

今日(8月25日)現在偏差値40の人でも親にお願いして(必要となれば頭を下げても)進学塾に入れてもらって1月まで死力を尽くせば偏差値70程度の学校にはひっかかるようになるでしょう。色んな考えがあるでしょうが僕はこう思ったりします。

本人にやる気があれば。というのは前提ですが。


今まで勉強してなかったからいきなり出来るようにならないという考えははっきり言って高校受験においては間違っています。

また、付け加えておきますが本気を出すってことはとても難しいです。どうしても面倒臭いという感覚が押し起こってきます。それに耐えられる人間がいることは身を持って知っていますが実際僕には耐えることが出来ませんでした。それも踏まえて死力を出すことに死力を尽くしてください。



 ここまで勉強するための考えについて言ってきました。重要なのはそこなのですから良く抑えて後悔をするとしても自分が目指せると思った学校を最後まで目指してください。
本当に行きたい志望校がある人が志望校に合格することを心の底から願っています。

僕が日本を離れて知ったこと #2

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今日は僕が日本を離れて知ったことをつらつら書いて行きます。

何個あるかわかりませんけど一つ目は、日本語は素晴らしかったということです。日本語は日本人の感じる情景や心情を他のどの言語よりも明確に言葉にできます。
これは他の国で生まれた人に日本語は素晴らしいとほざいてもそれに変わる言葉がない(概念)がないのですからきっと理解できないと思います。
ただ僕は英語ができるわけではありませんが、これから英語を勉強していったとしても母国語と同じレベルでの物事の理解というのは難しい気がしました。

このことにも共通するところですが今回今までと違うところに来てみて何を思ったかって、自分の思考の上限、といいますか概念の量といいますか、自分が考えられるものの幅を伸ばすべきだということです。

よく聞くことですけど、つまりは僕らは言葉で思考をしているので自分の糧となっている言葉をより多く知るということに尽きています。これってどうやって知っていくのかってやっぱり本を読むのもいいとは思うんですが、人と難しい話をしてみるというのが僕は好きです。難しい話っていうのは答えがない話のことです。相手も自分も答えを知らないという命題について話すということです。

そういうことについて話すとなんだか自分の知らない言葉をふと相手が使ってきて僕も使ってやろうとなります。(笑)


ふたつめは人種の違いについてです。これは本当にこの3週間毎日考えなかった日はないくらい僕にとっては考えさせられたものです。そして考え方を知りたいと思っているものです。

僕は全てを置いておいて、人種が違うという件についてはしょうがないとしか結論が出ません。ほんとうにしょうがないです。今更わめいてもというより今更というかもうこれは考え方ですよね。

そもそもこの世において全てのもの、虫と人間とか石とかのように異なっているのにそれらと自分の間には差を考えず人種の違うことに関して差を感じるのか。それってどちらかが優位だからというのと、つまりはそれは今まで生まれてきてからの外からの影響によってそう感じるのだと思うんです。

それは置いておいて人種が云々の話は死というものを自分に思い出させてくれるきっかけにもなります。死を意識するのは日常生活を無駄にしないため大事なことだと思っていますからそこから考えても様々な人種がいるアメリカは考えさせられるお国です。




あえてこの話をした後にこんなことを言ってみます。


皆さんはThink different してますか。 と。


#1 from US

f:id:Koudai2141:20140805073959j:plain先月の27日から渡米してサンフランシスコというところにいる私ですが色々考えさせられることがあります。ここでさっそく言うなれば考えさせられるというよりは考えるべきことでしょうか。(アメリカかぶれっぽく)

そうそう
アメリカに来てみると意識をせずに(意識をしていないことを言われると気づくのですが)アメリカかぶれ的な発言が出てきます。travelerは、

そんでもって僕が色々思ったことを今日はつらつら書きます。
日本語っていいですよねつらつらとかいう表現とか。つらつらなんて英訳できないでしょう。
最初に触れるのはこの話。日本語って…って話です。

どうしても他の国に来ると自国若しくは長く自分が滞在していた国と国をくらべてしまうものですがここで最初に思ったのは何もかもが汚いということです。ぼくは特別潔癖性ではないし強迫性障害でもないですが、それでもすごい汚いと感じ、どこでもドアで夜だけ日本で寝たいくらいです。

僕は一ヶ月程度しか滞在しないのでまだ踏ん切りが付きますけどこれから一生ここで暮らすのはなかなかきついものがあります。(汚れより)

汚れは置いておいて、まず特筆すべき国柄というか国民性というのかわかんないですけど雰囲気ですね、社会の雰囲気。一言で言えばこれ、とても良いです。

アメリカといえば自由とか平等とかいう言葉が僕らの頭には浮かぶよう洗脳されていますが結構そうです。(そうです…)平等というのはどうかわかりませんが。(もっと言うなれば個人の考え方による。平等だというのも違うし平等ではないというのも違う)

自由って定義が…云々の話はこのブログのpurpose目的なわけですが
日本よりもこれも一言で言うならば自己中心的な風潮です。悪い意味の自己中心でもあるしいい意味でもです。
僕らが普段使ってる意味での自己中心的という意味です。
変な人がいっぱいいます。だけどみんなジロジロ見たりしない。自分には関係ないよって感じで。バスの中で自分の出した汚いゴミを置いてく。
公園で大声で歌っててもおかしい雰囲気にならない。

メモを取るにもメモを取ってる間に他の事が起きてしまっていてさっき目もしかけたことを忘れるみたいな。そんな忙しい気分です。

国が違えば雰囲気が違うのも当たり前かもしれませんがこれは良い経験になっています。


よく海外の掲示板を見ると日本人はロボットだみたいな風刺があるらしいですけどいざ日本から出てみて外からみて見ると僕らはロボットでした。

どこで聞いた言葉か忘れてしまったのですが「日本の人は仕事をするために生きてる。アメリカの人は生きるために仕事をする」とか言われてました。いろんな捉え方があるでしょうが単純に思ったのはそりゃそうだろうなということ。

社会がstrangeなことを認める(もしくは許す)事が出来ているのは本当に大きいことです。

てんとう虫Aとてんとう虫Bの違い

僕は黒人に好感を持つ方です。重度ではないですが、潔癖性なので同じ空間で過ごすのは努力が入りますが。(文化の差という意味で)

黒人は本能的に生きているような気がする。そんな生き方はかっこいい。

から。


故スティーブジョブズの伝記にもこんなことが書いてありました。彼は若い頃インドに行って本能的な生き方は何よりも優れているなどと言ってます。


僕はこれは、逆カルチャーショックとかゲシュタルト崩壊などの現象とイメージは似ているんじゃないかと思います。

どちらも普段(each day)の自分の生活であったり文字に疑問を抱くことですが本能的な生き方になにか惹かれるのであればそれは自分の生き方に疑問(もしくは本能的に生きることに劣る)を持っているはずです。

眠い時に言われると?っていう感じの話だけれども、実はかなり面白いんです。

物欲であれば金を貯めて買えばいいし諸々の欲はどうにかなりますしどうにかしようと思うわけです。

しかしこの、彼らみたいな生活をしてみたいっていうのはまず、僕らの中で欲という概念であるのでしょうか。

妥協、とはちょっと違う気もするし、ただ意識をしていないだけのような気もします。

確かに妥協は日本人の特技ですけどこれはまずみんな考えていないというのが僕の意見です。まあもちろん僕が言う妥協もみんな無意識のうちにしていることかもしれないけどその無意識にするようになった(させられた)のは歳を重ねるという行為があってであり、幼稚園の段階で決断をできるとしたら妥協した答えは出さないはずです。でも今回のはその幼稚園児に聞いてみても考えたことないって言われるんです。


そういった分野に乏しい僕の言葉で言うならば人種間への欲というのは無いはずです。

それはアメリカ人になりたいとか金色の髪がいいとかそういった事では無くて、また彼らの生活様式に憧れてとかでも無く、また、不可能だからでも無く、あの人種になりたいっていうのがないってことです。

人間で考えるから難しいんだけれどてんとう虫で考えるとわかります。個体差が無いからです。
Aというてんとう虫がいたとします、Bというてんとう虫になりたいでしょうか?もしくは欲を覚えるでしょうか。AとBは見分けがつきません。

と、ここまできて話題が思いっきりずれていることに気づかされるわけなんですが何度もいいますがそれが目的のブログなのでご愛嬌を。

今度最後の10行くらいの考え方で、詩がかけそうです(笑)。

アブノーマルになりたいですか?

今日はまず朝から何となくついていない気がした。まあ確かにそれは当たったが僕はかなり大切なことに気づくことができた。

それはついていなかった今日だからであり今日で無いといけなかった。

それはかなりの人が反省文に書くことであり多くの人がなんとなく(なんとなくは意味が無い)わかっていることである。

それは勉強は大事であるということ、、


え?どうせ自分の夢を叶えるためには学力がどうこうよりも学歴が大事だから手段としてっていいたいんでしょ、って言われるかもしれないが違っていてね。

これも聞くことだと言えばそうなんだけど今日は何よりこれを実感した。

勉強が出来ない奴は何をやってもダメだということ。

何をやっても…なんて大袈裟じゃなんてことはない。

必ず勉強と言われるものができていない人はダメだ。もっと言えば何処かで妥協している。それが僕だし90%の人達だ。

また、その90%の人達はいつもアブノーマルになりたいと思ってる。そう。だけど決して普通じゃ無いものになんてなれない。
何故なら勉強をしないから。ゲームをして携帯をしてマスゴミに流され孤独を怖がり、時代に乗りたがりそれでいて最先端には置いていかれる。惨めすぎる。

勉強した先にいる人々がアブノーマルかどうか。アブノーマルだ。少なくとも割合的な意味では。

でもこの頃僕はアブノーマルの良し悪しに悩んでもいる。アブノーマルであることがいいこと(良いこと?good,nice,for me)なのだろうか。と。よく聞くのはその基準は人によるというもの。だけどそれはおかしい、というか違う。ここでは何度も言ってるが基準は不変だ。駅を歩いていて二度見されることがアブノーマルで有るならば犯罪者はアブノーマルで、みんながパズドラやってる時に64やってたらアブノーマルになる。
それは違うだろうと。

そんなことは誰にだってできる。アブノーマルって誰にでもできることを言うものじゃ無いはずだ。皆が出来ないことをやる、
だからアブノーマルはgoodだというのがひとつの僕の考えでもう一つはこうだ。アブノーマルになるためには大きな代償を払わなくてはいけない。それは自分の時間。と最も大きいのは精神(というか自分の欲)なんじゃないかと思う。その人間が払えるであろう最大の代償を(人によっては愛かも)払う意味があるのかといって行動しない自分を疑問に思う。これがbadなほうだ。自分に疑問を持つと解決するのが難しい。アドバイスを求めると自分が変われと言われるがそれは無理だ。外からのタッチによって人は変わる。


よく量産型だとか無個性などと言われるわけだけど、言われるほうはあまり良い気はしない。しかしそれも一理あるんだということにも気づいている。

じゃあこれからどうするべきなのってのを僕がかけないのは、そして全ての人が書くことが出来ないのは何故だろう。

なんて自分を疑問に思いながら明日をどう乗り切るか考えています。

人につく愚かさ

今日はふと思った、人に着くことの必要性と、もしくは愚かさについて論じたいと思う。

人と一緒に行動し、戯れるというのは一見、頼もしいと感じてしまうということから話します。

人は誰しも大人数で行動を共にすると、心強く、大きくなったような気分になる。だけども人にその分影響されやすくなる。人といれば居るだけ影響力が大きなものになってくるでしょう。

果たして良い影響なのかそれとも…というのはある訳ですがもっとも、ここで言いたいのは悪い影響のこと。

これは基準がとても大事になってくる。自分が良い影響を受けていると思っても他の人から見れば良い影響を受けてないと思われるものもあればその反対もある。

集団のなかにいると自分の意見をどうしても曲げなくてはいけない。曲げるというのは妥協するとかそういう意味である。
それは一方で素晴らしい協調性だと称えられることがあるが、とても恐ろしいものである。

自分の意見がなくなってしまうというと仰々しく聞こえてしまうかもしれないがいつの間にかそうなってることなんてそうそう珍しいことじゃない。というかだいたいそうなる。
何故なら集団のなかで自分の考えを曲げず生活して行くことは不可能であり、(これが大事→)表面上は口を合わせてるけど自分には考えがあるよ。って言う人が良くいるけどそんなことはあり得ない。元々考えなんて第三者から評価されるものでしか認識をする・させることができない(自分で既にしているではないかと言う話については後日書くことにして)。

それならば口を合わせて言ったことが自分の考えとして他人に伝わるからだ。

僕はこのことをかなり強く意識して行動するようにしている。この頃は。

言わなくても考えが伝わるのが人間だと言う人がいるかもしれないがそれはそうだと思う。しかし皆は人の考えをわざわざ感じ取ろうなんてことはしない。だから伝えるためには口で言わなくてはいけない。

それだから口だけ合わせてryはどうなのかと思ってしまう。何故どうなのかという低腰なのかというと口を合わせることは必要であり、それ無しでは生活が難しいからである。

だから考えなくてはいけないのは如何にしてその行動をこなしていくかということであると考える。

それは自分の信念を持つことなんじゃないかって思う。でも信念を持つことは僕を始め多くの人には難しい。もっと言えば無理。信念は何か外からの刺激とかによって気づいたものを自分が持ち続けて行くってイメージであるが、僕らの生活のなかにはそもそも刺激がない。

刺激を求めるためには?って昔考えた時は他の人と違うことをすれば刺激というものが得られるんじゃないかと思って色々試した。けれどもそんな簡単に自分の目を覚ましてくれるインスピレーションなんてものはやって来ない。

もっと心から嫌だと思うことをやって心から面白いことをやらないと刺激は訪れない。



さて、つまりは信念を持つことが難しいことを言ったつもりだがこの頃気づいた自分の核となるものを持つ方法として死を意識するということがある。死を想うのである。Memento-moriである。

死を想うと自分に必要なものだけがみえてくるとみえてくる見えてくると言った人は知らないが(w) もし癌などで余命宣告をされるなどして死を確実に意識した時には大切なものが見えてくると思う。

そういったことを意識してみる。それだって昨日より自分が進歩したことでもあるのです。