シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

アブノーマルになりたいですか?

今日はまず朝から何となくついていない気がした。まあ確かにそれは当たったが僕はかなり大切なことに気づくことができた。

それはついていなかった今日だからであり今日で無いといけなかった。

それはかなりの人が反省文に書くことであり多くの人がなんとなく(なんとなくは意味が無い)わかっていることである。

それは勉強は大事であるということ、、


え?どうせ自分の夢を叶えるためには学力がどうこうよりも学歴が大事だから手段としてっていいたいんでしょ、って言われるかもしれないが違っていてね。

これも聞くことだと言えばそうなんだけど今日は何よりこれを実感した。

勉強が出来ない奴は何をやってもダメだということ。

何をやっても…なんて大袈裟じゃなんてことはない。

必ず勉強と言われるものができていない人はダメだ。もっと言えば何処かで妥協している。それが僕だし90%の人達だ。

また、その90%の人達はいつもアブノーマルになりたいと思ってる。そう。だけど決して普通じゃ無いものになんてなれない。
何故なら勉強をしないから。ゲームをして携帯をしてマスゴミに流され孤独を怖がり、時代に乗りたがりそれでいて最先端には置いていかれる。惨めすぎる。

勉強した先にいる人々がアブノーマルかどうか。アブノーマルだ。少なくとも割合的な意味では。

でもこの頃僕はアブノーマルの良し悪しに悩んでもいる。アブノーマルであることがいいこと(良いこと?good,nice,for me)なのだろうか。と。よく聞くのはその基準は人によるというもの。だけどそれはおかしい、というか違う。ここでは何度も言ってるが基準は不変だ。駅を歩いていて二度見されることがアブノーマルで有るならば犯罪者はアブノーマルで、みんながパズドラやってる時に64やってたらアブノーマルになる。
それは違うだろうと。

そんなことは誰にだってできる。アブノーマルって誰にでもできることを言うものじゃ無いはずだ。皆が出来ないことをやる、
だからアブノーマルはgoodだというのがひとつの僕の考えでもう一つはこうだ。アブノーマルになるためには大きな代償を払わなくてはいけない。それは自分の時間。と最も大きいのは精神(というか自分の欲)なんじゃないかと思う。その人間が払えるであろう最大の代償を(人によっては愛かも)払う意味があるのかといって行動しない自分を疑問に思う。これがbadなほうだ。自分に疑問を持つと解決するのが難しい。アドバイスを求めると自分が変われと言われるがそれは無理だ。外からのタッチによって人は変わる。


よく量産型だとか無個性などと言われるわけだけど、言われるほうはあまり良い気はしない。しかしそれも一理あるんだということにも気づいている。

じゃあこれからどうするべきなのってのを僕がかけないのは、そして全ての人が書くことが出来ないのは何故だろう。

なんて自分を疑問に思いながら明日をどう乗り切るか考えています。