シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

人につく愚かさ

今日はふと思った、人に着くことの必要性と、もしくは愚かさについて論じたいと思う。

人と一緒に行動し、戯れるというのは一見、頼もしいと感じてしまうということから話します。

人は誰しも大人数で行動を共にすると、心強く、大きくなったような気分になる。だけども人にその分影響されやすくなる。人といれば居るだけ影響力が大きなものになってくるでしょう。

果たして良い影響なのかそれとも…というのはある訳ですがもっとも、ここで言いたいのは悪い影響のこと。

これは基準がとても大事になってくる。自分が良い影響を受けていると思っても他の人から見れば良い影響を受けてないと思われるものもあればその反対もある。

集団のなかにいると自分の意見をどうしても曲げなくてはいけない。曲げるというのは妥協するとかそういう意味である。
それは一方で素晴らしい協調性だと称えられることがあるが、とても恐ろしいものである。

自分の意見がなくなってしまうというと仰々しく聞こえてしまうかもしれないがいつの間にかそうなってることなんてそうそう珍しいことじゃない。というかだいたいそうなる。
何故なら集団のなかで自分の考えを曲げず生活して行くことは不可能であり、(これが大事→)表面上は口を合わせてるけど自分には考えがあるよ。って言う人が良くいるけどそんなことはあり得ない。元々考えなんて第三者から評価されるものでしか認識をする・させることができない(自分で既にしているではないかと言う話については後日書くことにして)。

それならば口を合わせて言ったことが自分の考えとして他人に伝わるからだ。

僕はこのことをかなり強く意識して行動するようにしている。この頃は。

言わなくても考えが伝わるのが人間だと言う人がいるかもしれないがそれはそうだと思う。しかし皆は人の考えをわざわざ感じ取ろうなんてことはしない。だから伝えるためには口で言わなくてはいけない。

それだから口だけ合わせてryはどうなのかと思ってしまう。何故どうなのかという低腰なのかというと口を合わせることは必要であり、それ無しでは生活が難しいからである。

だから考えなくてはいけないのは如何にしてその行動をこなしていくかということであると考える。

それは自分の信念を持つことなんじゃないかって思う。でも信念を持つことは僕を始め多くの人には難しい。もっと言えば無理。信念は何か外からの刺激とかによって気づいたものを自分が持ち続けて行くってイメージであるが、僕らの生活のなかにはそもそも刺激がない。

刺激を求めるためには?って昔考えた時は他の人と違うことをすれば刺激というものが得られるんじゃないかと思って色々試した。けれどもそんな簡単に自分の目を覚ましてくれるインスピレーションなんてものはやって来ない。

もっと心から嫌だと思うことをやって心から面白いことをやらないと刺激は訪れない。



さて、つまりは信念を持つことが難しいことを言ったつもりだがこの頃気づいた自分の核となるものを持つ方法として死を意識するということがある。死を想うのである。Memento-moriである。

死を想うと自分に必要なものだけがみえてくるとみえてくる見えてくると言った人は知らないが(w) もし癌などで余命宣告をされるなどして死を確実に意識した時には大切なものが見えてくると思う。

そういったことを意識してみる。それだって昨日より自分が進歩したことでもあるのです。