シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

いつだって僕らは自由だ

去年、中学の先生にこんな話を聞いてもらった。
僕らの周りにあるものって殆どが糞ですよねって。殆どが雑魚で平凡でなんの価値もないクズだって。
こういう派をなんていうのかわからないけど僕はそう考える方です。

格好つけた言い方で言うとコインには必ず表と裏がある。みたいな感じ。

必ず黒と白があって。

その糞なものの一つに(これは毎年変わるくらい変動的なものだが)親子の絆とかいうのがある。

僕は、はっきり言わせてもらうと親子の絆なんて1ミリたりともないと思ってる。

人間は自分の利益を最優先に行動する。絶対にそうだ。


だから僕は自分の子供が欲しくない。こういう絆がどうたらっていう屁理屈はさておき自分の言うとおりにならないものと生活するのは大嫌いだからだ。殺してしまいそうだし。


それならば絆なんてない。証明とかなんとかって以前に無い物は無い。その他愚問である。


でも誰かのため自分が利益を損なうことをする場合があるよね。僕はあれは自分の満足感を満たすためにやってるのだから結局自分の利益になってると思ってる。例えば怖い人に絡まれてる子供を体を張って助けた。これは本当に自分のために行動していないのだろうか。



よく愛とか絆を美化した映画とかドラマをT○Sとかでやってるけど糞食らえって思う。

グレーな関係のものを美化して描いた映像は僕は大嫌いだ。本当に嫌いだ。そんなものを作っている監督に話を聞きたい。何を伝えたいんですかって。 




じゃあここまで読んでなんかこの人こんな話して何になるのって思うと思う。

でも実はこの、平凡と非凡について考えることにはとても深い意味があると思っている。

僕だったらまず平凡、非凡って言葉を聞いた時に自分を想像する。僕は紛れもなく平凡でなんの価値も無いクズだ。概念的にこういうのは無いらしいんだけど僕をお金に換算したらざっと5万円くらいなんじゃないかなって思う。

そしたらなんか悲しくなって、どうにかして自分の値段をあげたいと思う。

人間をお金に例えるなんて難しい話だけど例えてみて悲しくなるとなんか楽しい。自分のいけないところがみつかるとほっとする。何故なら周りからの干渉、というか影響が皆無であれば自分とは完璧であるからだ。完璧であることはすごい怖い。そしてものすごく体力を使う。そして精神的にもものすごく疲れる。そういった人とつきあうとものすごくこっちまで疲れてくる。多分、それはこちらが完璧じゃ無いと自負しているからだ。だから相手の水準に合わせようと必死になってしまう。

でも、ものすごく、ものすごく楽しい。自分を完璧だと思ってる人と話すのはとてもわくわくする。心臓がすごいなってて、涙が出てくる。それからすごく美味しいものを飲みたくなって、Mr.ChildrenのI'll beっていう曲が聴きたくなる。

だから自分で完璧だと思ってる人間に僕はなりたいと常に思っているし、もう既になっている。

そんな思想を制限することは誰にもできないし…と普通は続くところだろうが僕は先述した通り仰々しいことが大嫌いだ。しかもそんな思想を制限することは誰にもできないとか思っていない。会社で自分の部下が自身のことを完璧だと思って間違えてたらお前アホだろって言われると思うし。その他色々あるでしょ。

それよりここでいう完璧っていうものには誰もがなりたいと思っているわけではない。ということが大事になってくる。完璧でありたいと気づくのはものすごく大変だ。先述した通り完璧でいるとなにかと消費する。完璧で存在する意義を見出さないとなかなかめんどくさい仕事である。だから自分を完璧だと思っていない人にとっては完璧という概念そのものが無いというわけである。


これは自分がMacを使い始めたら周りにMacユーザーが増え出したとか、beatsのヘッドホンを買って電車でつけた途端周りの人がbeatsを使い始めた。とかいう現象とよく似ている。これは自分が意識したものだけを選んで見ているということを表してる。


だからこそ自分の空間が欲しい欲しいっていってそんなものを見つけようとすると皆がみてるような気がして…ってことになっても実は他人にはその概念すら認識していないのである。

いつだって僕らは自由だ。素晴らしい人権と憲法と、まあほかもわからないけどとにかく先人たちが作ってきた権利を持っている。

そんなことを考えながら一人でコンビニ弁当を食べてみるのも面白い。