シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

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一言で言うと今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

 

例えば君が明日死ぬとする。それがわかった時、何をするだろうか。

僕は自分が明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、なにもしないだろう。

もっと正確に言えば

「今の僕は明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、何もできないだろう」

だろう。

これを今見ている人は、それがどうしたと言いたいところだとは思うけどちょっと言いたいことを抑えて抑えて。

 

ここまで考えて僕が自分に問いかけざるを得なかったこととは、果たして今の僕といわゆる未来の(the who in several years later)自分とは考え方が変わっているのだろうかということである。

ここでの考え方とは、何かに対する自分の考え方という漠然としたものというよりは、自分が死ぬという最大級にまずい(やばい)状態に陥った時に(ドラマ的な言葉で言えば、最悪の精神状態の時)自分が導き出す答えの考え方であるが、(最悪の精神状態であるかどうかはわからないが)これは少し考えてみると面白い。

 

だけれどもこんな難しくて面倒くさいことを考える前には何かしら自分の目標というか、その考えた末に得られる何か、プラスになるものを定義しておくことが思考途中で挫折しない秘訣だとも思うので書いておくと

僕は明日死ぬとわかった時に何もしない奴にはなりたくないということだ。なにもしないって揚げ足を取る捉え方をする人はあまりいないと思うが、もちろん身の上整理とかをするとかそういうわけじゃない。

 

さて、最初に僕が至った考えとは

(実は写真もこの論からインスピレーションを受けて撮ったものなのだが)

もし、僕が極限の状態になったときに考えが変わるということは自分が死ぬことに関係している。(数学の証明みたいなめんどくさい言い回しですいませんが)

ここで死ぬということを考える。(死生観はこれから僕は学んでいきたいもののひとつであるから見解は変わるかもしれないが・・・)

死ぬということは自分がいなくなるということである。自分がいなくなるって、なにから?というわけであるがこの世から自分がいなくなる。自分の意識が、自分の存在が失せる。それって、かなりまずいことだ。

それはさておき、今僕は、意識がなくなると書いたわけだが、それは恥を知らなくなるということだ。(死後の自分の名誉であったりはするかもしれないが)恥を知らないと、僕ら日本人、人間はとてもできることが広がると思う。僕らは社会の中で生きているわけで当然恥というものを意識している。僕に限ったことではないとは思う。日本人を始め多くの人は、何か行動を起こすときに倫理的な判断よりも恥がどうだかこうだかとふと無意識に考えている気がする。

 少し戻ってこのことから何が言いたいかって、もし死ぬ前に自分の考え方が変わるとしたら、それは恥により自我に規制されていた行動が目をさますということ、つまり、自分がこれから生きていく上で気にしていく、背負っていくものがなくなったとわかった状態での思考ができるということだ。

 

そんな今まで積み上げてきたバランスゲームの積み木を一番下から引き抜いてぶっ壊して新しい積み木を立てる。

そんな考え方はかなりかっこいい。

 

 

と、此処まで寝ぼけ頭ながらにつらつら書いてきたわけであるがこんなさえない頭の状態で自分の発表を終えるのは息苦しい。だからこれから先、この問い、もし明日死ぬとしたら。について考えていこう。