もしも昨日が選べたら

もしも昨日が選べたら 

という映画を見た。今日はなにを書きたいのかというとその映画についてというよりはこの題名についてだ。

実際この映画は結構なコメディータッチで何かの考えの因となるには難しいような気もする。じゃあなにかって、もしも昨日が選べたらなんていう発想は無かったということです。

映画の題名ってなかなかセンスがある言葉が使われててそれでいて安っぽくないから何気に好きなんですが今回もなかなか味のある話を僕に考えさせてくれました。


明日を選ぶ云々の話はよく自己啓発書で出てくるジャンルなんじゃないかと思うけども、もう終わったこと、昨日を選ぶ。なんて考え方はちょっと新鮮だ。

これから先、つまり目の前にあることで精一杯の僕らはとてもじゃないがどうでもいい(と感じる)昨日のことなんて考えない。

そして、昨日を振り返ることによって最善策が導き出せるかもしれないのにその労力を惜しんでしまう。「対価は努力で」なんて言葉があるがそれだけ努力は面倒くさい。そして、もしも中途半端にやりたいことがあってもそれを目指すために努力し続けるのは辛い。

ここで、まあそりゃぁね。となると思うので、出てくるのがもしも昨日が選べたらという考え方だ。


昨日が選べたら今日は変わるんでしょうか。普通に考えて昨日の続きを生きているわけですから昨日行った全ては今日へ持ち越される気がします。

それならばこの問いかけの答えはほぼ全員が権力と金と才能をもった人が自分の昨日を生きていることを願うかと思いきや、そうではないところがあるからちょっと面白かったりする。昨日が選べたらといってもそれは昨日なのだからいきなり才能云々…ではなくない?とも思うんですが(笑)

どうしてもこれを選ぶ時には自分の昨日を生きてから考えるわけです。つまりこの問いに遭遇するみなさん全員は自分の昨日を顧慮して考えることしか出来ません。

それならば自分の昨日がこの問いに対する自分の答えに影響してくるのは自明の理ということです。

だからこそこの問いに応えることで自分の欲している、若しくは抱いているなんらかの感情を認識することができるのです。