個性って 【『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用】

   「個性」が尊重されることのおかしさについて、養老孟司氏と内田樹氏が対談の中で興味深いやりとりをしていた。

 

電車の中のようなできるだけ一人ではないところで読まれることをお勧めします。



『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用
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「個性」とは「人を見る目」

養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。

内田:「人を見る目」が個性とは……。どういうことですか?

養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。
(中略)

個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。ぼくが今まで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。
(中略)

内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
(後略)
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両氏は、「個性」(≒自分の自分に対する評価)自体には何の意味もなく、生きていく上で指針とすべきなのは、周囲の人々が何を期待しているかであり、周りからの評価であると言いたいのではないだろうか。

現代においては、この「人を見る目」(≒他人に対する期待・評価)こそが一番の圧力源=活力源になる。自分の中をどれだけ探しても答えは見つからない。より能動的に周りの人からの期待や評価、あるいは社会状況を指針にしていくことが必要だと感じる。   

いつだって僕らは自由だ

去年、中学の先生にこんな話を聞いてもらった。
僕らの周りにあるものって殆どが糞ですよねって。殆どが雑魚で平凡でなんの価値もないクズだって。
こういう派をなんていうのかわからないけど僕はそう考える方です。

格好つけた言い方で言うとコインには必ず表と裏がある。みたいな感じ。

必ず黒と白があって。

その糞なものの一つに(これは毎年変わるくらい変動的なものだが)親子の絆とかいうのがある。

僕は、はっきり言わせてもらうと親子の絆なんて1ミリたりともないと思ってる。

人間は自分の利益を最優先に行動する。絶対にそうだ。


だから僕は自分の子供が欲しくない。こういう絆がどうたらっていう屁理屈はさておき自分の言うとおりにならないものと生活するのは大嫌いだからだ。殺してしまいそうだし。


それならば絆なんてない。証明とかなんとかって以前に無い物は無い。その他愚問である。


でも誰かのため自分が利益を損なうことをする場合があるよね。僕はあれは自分の満足感を満たすためにやってるのだから結局自分の利益になってると思ってる。例えば怖い人に絡まれてる子供を体を張って助けた。これは本当に自分のために行動していないのだろうか。



よく愛とか絆を美化した映画とかドラマをT○Sとかでやってるけど糞食らえって思う。

グレーな関係のものを美化して描いた映像は僕は大嫌いだ。本当に嫌いだ。そんなものを作っている監督に話を聞きたい。何を伝えたいんですかって。 




じゃあここまで読んでなんかこの人こんな話して何になるのって思うと思う。

でも実はこの、平凡と非凡について考えることにはとても深い意味があると思っている。

僕だったらまず平凡、非凡って言葉を聞いた時に自分を想像する。僕は紛れもなく平凡でなんの価値も無いクズだ。概念的にこういうのは無いらしいんだけど僕をお金に換算したらざっと5万円くらいなんじゃないかなって思う。

そしたらなんか悲しくなって、どうにかして自分の値段をあげたいと思う。

人間をお金に例えるなんて難しい話だけど例えてみて悲しくなるとなんか楽しい。自分のいけないところがみつかるとほっとする。何故なら周りからの干渉、というか影響が皆無であれば自分とは完璧であるからだ。完璧であることはすごい怖い。そしてものすごく体力を使う。そして精神的にもものすごく疲れる。そういった人とつきあうとものすごくこっちまで疲れてくる。多分、それはこちらが完璧じゃ無いと自負しているからだ。だから相手の水準に合わせようと必死になってしまう。

でも、ものすごく、ものすごく楽しい。自分を完璧だと思ってる人と話すのはとてもわくわくする。心臓がすごいなってて、涙が出てくる。それからすごく美味しいものを飲みたくなって、Mr.ChildrenのI'll beっていう曲が聴きたくなる。

だから自分で完璧だと思ってる人間に僕はなりたいと常に思っているし、もう既になっている。

そんな思想を制限することは誰にもできないし…と普通は続くところだろうが僕は先述した通り仰々しいことが大嫌いだ。しかもそんな思想を制限することは誰にもできないとか思っていない。会社で自分の部下が自身のことを完璧だと思って間違えてたらお前アホだろって言われると思うし。その他色々あるでしょ。

それよりここでいう完璧っていうものには誰もがなりたいと思っているわけではない。ということが大事になってくる。完璧でありたいと気づくのはものすごく大変だ。先述した通り完璧でいるとなにかと消費する。完璧で存在する意義を見出さないとなかなかめんどくさい仕事である。だから自分を完璧だと思っていない人にとっては完璧という概念そのものが無いというわけである。


これは自分がMacを使い始めたら周りにMacユーザーが増え出したとか、beatsのヘッドホンを買って電車でつけた途端周りの人がbeatsを使い始めた。とかいう現象とよく似ている。これは自分が意識したものだけを選んで見ているということを表してる。


だからこそ自分の空間が欲しい欲しいっていってそんなものを見つけようとすると皆がみてるような気がして…ってことになっても実は他人にはその概念すら認識していないのである。

いつだって僕らは自由だ。素晴らしい人権と憲法と、まあほかもわからないけどとにかく先人たちが作ってきた権利を持っている。

そんなことを考えながら一人でコンビニ弁当を食べてみるのも面白い。


気がつきゃ勇み足そんな日には深呼吸をしてみるんだ

高校の入学式を終えて色々考えさせられました。

校長先生の話もなかなか的を射ていてなかなか面白かったし。
まずはその校長の話から。僕は環境論者なので全てのことは環境によって左右されると考えています。生まれた場所や親の社会的階級その他諸々によって全ては決まってるってことです。
だから自分が行く高校によって自分の人生は言ってしまえば360°変わるということ。だけれども校長は何処でするかではなく何をするかだ。みたいなことを言いました。式中はすごい浅い綺麗事みたいだなぁと思ってたのですがなかなか考えてみると面白い言葉です。
もともと校長がそう言った意味を含んでいたかどうかは定かではないですが。

同じような言葉に「何がしたいの?君がしたいことはその高校ではできなくて行きたい高校だったらできたの?」って。
いやいや。そんなことはほぼないんです。
でもこれは人間の心理なのかそれとも僕のくせかわからないですけどそもそも整った(?)環境で何かと行動をしたいっていう理由があって。
わかりやすい例えでは、僕は昔WindowsPCにMacOSをブートさせたんですけどこれじゃあ何かが違うと。Macはハードとソフトが融合してるんだろ?と。つまりそういうことです。もし秋葉原で中華のAndroidタブレットみたいなやつに、iOS搭載してます、とあっても買わないでしょう。それほどブランドっていうのは言ってみれば、重要、であるし意味があるものなんだともわかります。

話を戻すとつまり、自分がそこでできないものっていうのは何処でやってもできないしその逆もということです。いつもできないのに、ここだけは出来るとかいうことは無いと。

明日は潔く生きよう。

透明なコンクリートができたみたいです、すごすぎる

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ふとスマートニュースを見ていたら面白い記事があったので。

なんとコンクリートが光を通すらしい。


Litraconっていう名前で面白いなぁと思ったんだけどすごい高くて…

長さ1mの角ブロックで8万円以上するらしい。これはなかなか高い…

ちなみに中に光ファイバーが端から端まで満たされていて、一方の光をそのまま反対側まで通してくれるのでどれだけ分厚いコンクリートでも、しっかりと光を通せるということなんです。

でも建物の柱とかも透明になっちゃったらすごいクールだと思う。




人に会うことの意味

人に会うってとても大事だ。
すごいよく言われることだけど会うって電話するとか手紙を書くことでは達成出来ないものを持っている。
それとは何か。
それは感情(僕はこういう仰々しいことを言うのが嫌いだが)だ。

メールの絵文字で人を騙すのは僕は超一流だと思ってる。
でも実際あってその人を騙すことは出来ない。
メールの絡みよりも会うことのほうがハードルが高い。
それってすこしだけ不思議なことでもある。人間は本来会ってコミニュケーションをとってきたと思っているからだ。新しくもっとコミニュケーションをとりやすい手段を見つけたと言うのか?
前のブログでも書いて二回目になってしまうが僕は本能よりもパワフルなものって無いと思ってる。つまり僕らが猿の頃からやってた頃ってとても力がつまってる。
その一つに人と会うってこともある…よね

なのに人と会うことが難しいって絶対にぼくらの生活に原因がある。
何かが僕らをそう変えた。良くも悪くも
それは情報化が一番大きいんじゃないかな。でも情報化が僕らにもたらしてくれたものも大きいからどっちもどっち…なんて議論は僕は絶対にしない。そんな話は愚かだ。だって全て(殆ど?)のことって
メリットとデメリットがある。僕にはそのデメリットを潰す方法がわからないのも一つの理由だが全くデメリットを潰そうなんて思わないからだ。
綺麗な言葉で逃げると自然の摂理とか決まりとか。もうこれはこうなってる。最初の最後から決まってるってこと。
そんなのロックじゃない?
確かに。。。


こう話が飛んで行くと病気なんじゃ無いかってなるけどこのブログはそれを目的としているため安心して読んでもらって構わない。

宿題がやばいので今日はここまでと。
話の続きはまた今度。

犬の日課

僕の犬は散歩が大好きだ。厳密に言うと好きかどうかは分からないけどよく行きたがる。考えてみれば彼の日課を見ると朝、起きてご飯を食べて昼寝して夜ご飯を食べて散歩に行って寝て。
とすごいやることは少ない。
でも僕は彼のやってることが足りないとは思わない。
小さい物事って見て見るとその中にまた小さいことがあって。と決して大きい物事と比べて物足りないなんてことはない。自分が物事を見る際に使う大きさってそんなもんだ。
数字で言うと10の下には1があってそのしたには0.1、0.01とあるけどそれらってちゃんとあるよね?しっかりと中身が詰まってる。それって結構クールだなぁって思ったりするのです。

僕の犬の日課に関連してもうひとつお話を。
つい最近、自分がなににも縛られていなくて辛いって言ってる人がいた。僕はこれまで何かと縛られてきたから辛いのだと思っていた。だからちょっと驚きを受けた。えっ?って。

犬はそこまで考えてるかどうか分からないけどこれが人間だったらどうだろう。
するべきことに囲まれた生活とするべきことが少ない生活。
どうしてもするべきことが少ないと一つ一つの物事に対する比重が高くなる。でもそれってぬるゲーだなぁって僕は思ってます。理由は簡単でどれだけ少量を深くかじったってたくさんのものに触れる方が難しいからです。(偏った考)
人生をぬるゲーで生きるとかどうとかっていつか考えてみたいけど今は出来そうにもないのでここはスルー。

〜になりたいなーって何かしらの理由があって言ってみたい。
鳥になりたいって今の状況から飛んでいって逃げたいとかじゃなくって。
とか思ってる今日は春休み最後の夜でした。

自由に生きる

プロローグ

自由に生きるって結構難しいことなんだなぁって近頃は思うのです。

いつしか深く息を吸わなくなり、何も考えない時間が増えました。

自我とか個性などといった言葉を聞くたびにため息がでます。

でもそんな自分をどうかしたいとは思わない。

そんな人ってたくさんいるんじゃないかな。

自由に生きるためには?って考えるとするべきではないところまで深読みをしてしまう。

もしかしたら自由に生きるためには何も考える必要がないのかも。

もしかしたら自由に生きようなんて意識しなくてもいいのかも。

もしかしたら自由に生きる必要なんてないのかも。

第一章

いつから僕は普通になったのだろう。

でも普通って何だ?

普通の何が悪い?

何か不都合なことが起こったのか?

 

でも今僕は例外無く普通の人だ。

ならば自由に生きると自分で認識をするためには普通ではいけない。

僕がいま、自由を感じていないからだ。

 

ここで一旦普通について再定義しておく。

ぼくは普通とは何の属性も持たない平凡なことではないと思っている。つまり特別とかと対比されるものではないということだ。

「フツーにいいよ」って言うように普通というのは既に一定の基準を満たした段階だと考える。

これはジェネレーションギャップが少なからず入っているのは承知しているが新鮮味のないものだというのは間違っている。普通というのは素晴らしい。まあこれはなにからなににとって普通なのかという話になるがそれはまた書くことにして僕はこの普通を維持するだけでもかなりの努力をしている。そして僕は普通でいたくないと思う。

 

ふと思ったのはこの話は受験に似ているということ。

受験期になると僕は偏差値を気にするようになった。もっともっと高いところをってかなり高い学校を志望した。だが実際その学校に落ちてみると志望した前の僕とは違う僕がそこにはいる。最初は眼中にも無かったのにもうこの学校でいいやって言っている。

普通にいるってすごく居心地がいいのかもしれない。

なにも失うものが無いように感じた。

自分の限界を知らなくてすむということだ。

 

 

なんで普通でいたくないと思うのだろう。

前述した通り何一つ普通でいればマイナスなことは起こらない。

 

僕はみんなの生活を変えたい。僕の生活を今までクレイジーに変えてきたような人の用に。笑えるけどこれはほんとうに言っている。

そのためには普通でいちゃいけない。というより普通ではいられない。

もっと刺激的なものが欲しい。

もっとリスクが欲しい。

 

 

今日はこの辺で。

第2章に続きます。