失うとは、あったということ

 読書会をした。みんなは本を読むのが上手いなァ。僕は今年22歳で(僕がもう22歳?信じられる?)、当然に本の一冊や二冊読むことは容易いことなのかもしれない。だけど、僕は本を読むことが得意じゃ無い。数を読んでマシになるような、漢字を覚えて、あるいは語彙を増やして何とかなるようなものじゃなくって、なにか根本的に言葉に対する才能が欠けている気が最近になってするんだよね。本を読むことについて、はたまた文章にかけて僕はよく、小学校の中学年だった頃、同じクラスだったにきび顔の茶髪の男の子を思い出す。彼は運動とか、音楽だとか、そういった類のことには長けていてとても人気があった。チャーミングでクラスの人気者。一度彼の自由研究の作品が僕の作った工作の隣に展示されたことがあるが、見比べれば見比べるほど、彼の自然体で作られた作品は僕の作ったものより優れていた。それは巨大な作品や、誰もがぱっと見て心惹かれるような作品じゃなかったけれど、自然体で、作りが良い。センスが良く、やり過ぎてなく見る者が心地よいと感じる完成度だった。そういった作り込みは、なかなか真似できるものじゃない。

 しかし、国語の時間だけ彼は冴えていなかった。僕のクラスでは、教科書の音読をする時、順番に前の人から句読点で区切って読んでいくことになっていた。大体の人はうまくすらすらと読んで行く。たまに、漢字でつっかえる奴やあがり症は勿論いたが、彼は違った。一切言葉が出てこないのだ。前の人が読み終わっても、彼は何も言わない、いや、言えなかったのだ。後になって、どこを読んでいるのか、どこを次に読むのかがわからないと彼は僕に言った。言葉に対する才能の欠如。あるいはそれに病名をつけることもあるかもしれない。多分当時の僕はそれをおかしいと思っただろう。”彼はちょっと、オカシイね“

 でも、今になってよくわかる。そんなことは誰にでも起こり得るものなのだ。今度は僕に。そして僕は思う。自分の才能についての少なくともいくつかのことは、ある日、ふとした瞬間にー彼のように音読をさせられない限り、自分だけが気づく。僕なら字だって読めるし、ちょっとしたユーモアも言える。だけど、根本的に本を読んでいても噛み合わないのだ。言葉一つ一つに添削をしているようで、一行ごとにパズルが完成するか確認し続けているうちに、まともな気がしなくなってくる。はて、僕はこれまで何冊の本をまともに読んだのだろう。全く自信がない。にきび顔の彼は僕よりもたくさんの本をまともに読んだのだろうか。人気者の小学生の男の子。昔の彼のことを思い、また昔の自分のことを考えた。

 僕は時々、昔の僕が羨ましくなる。昔の僕が16歳、17歳であることが(何を言っているんだろう?)。きっと彼の目にはいろんな物事が何もかも新鮮に映るのだろう。匂いがきちんと匂い、週末を楽しみ、しっかり本が読める。そうやって毎日が過ぎていく。チクタクチクタク…そして、そうやって触れてきたたくさんのものをうまく消化していかないと、消化不良となって、癌になってしまう。その癌はしっかりと進行性で、どんどん自分を蝕んで影を落とす。できないことが増えていくこと、話をうまく思い描くことができなくなること、女の子は夢のように美しくないこと、音感や絵を描くセンスに言葉に対する才能。才能と言ったって、特別なものじゃない。いろいろな形があるのだ。それは地味なものかもしれないし、あるいは地味な方がより価値のあることなのかもしれないが。とにかくまるである事柄についての才能は一種の恵みのようなもので、青々と生い茂る草むらの中で陽の光に十分に当たることのできる葉と、日陰で枯れていく葉があるように、不思議なカラクリで与えられるようだ。

 不可逆的に枯れていくものは確かにあるが、そんな中にあっても喪失を感じることはとても難しいと感じる。いつも喪失感はどこかつかみどころが無く、“アァ、無くなってしまったな”と思うものだ。結局のところ、何を失ったのか、何を失っていないのかわからずにいる。でもそれは多くの場合、喪失感とは単に既に保持していたものを失って、心に穴が空いた状態で自分の失くしたものそのものを憂うというよりも、実際はそのものを担保してきた他のものの喪失を感じているからだろう。

 僕は煙草を辞めてから訪れる精神的な心の痛みは喪失感のようだと思った。しかし”煙草を失った“と先ずは感じるのだが、そんなことは大したことではなかった。第一に煙草は死んでなど無く、家から数分のコンビニにたくさんあるのだから。一番の問題は”煙草を吸うこと“を担保してきた僕の考え方がポキッと折れたことなのだ。それでいて、煙草を愛する人々が彼ら独自の理論で動いていることは理解ができるし、一方で煙草を止める決心をした自分の決断を正しいと感じている。一体僕は何を失ったと感じているのだろう。それは、社会学をやっている人間は、ブリコラ的な客体的自己を生きる主観的自己に喪失の感覚が生じるのだと言うかもしれない。法哲学家は自己決定の脆さについてひとしきり考えた後に愚行権について、あるいは安楽死がどうだとか、言うかもしれない。あるいは僕の父親だったら、若いうちはそういうのが、いいんじゃないか。と疲れた顔で言うことだろう。彼らの言うことは、全てーほとんど全て正しいと思う。だけどそんなことはもう僕はどうでもよかった。それ程に過去に焦がれるのだ。

 デイヴィッド・ベネターを半ば盲目的に崇拝している先輩がいた。彼は去年卒業したが(一年遅れだった。僕の統計では、ややこしい学者を崇める学生は大体4年以上大学にいることとなる)、彼の口癖をよく覚えている。“半出生主義は理論として破綻している。だけど、僕はこれに救われている“

当時彼の口からその言葉を聞いた時、僕はこれは、ダメだ。と思った。彼の卒業の為の論文は内容は筋が通っていなくて、半出生主義をいっぺんに論じたのちに最後の節でその前のほとんど全てを否定して、でもそれで良いのだと書かれていた。まるで出来損ないの芸術学部生かなにかの論文のようだった。“フィフス・エレメントミラ・ジョヴォヴィッチは演劇理論に反しているが、それがまた良い…かくかくしかじか”

 でも今の僕には、その時の彼の言葉がよく理解できた。時には、非論理的なことだって信じて良いのだ。物事の方が理不尽に起こり、日の陰りばかりは葉っぱにだってどうしようもないのだから、きっと少しくらいそれに抗っても良いのだ。それで自分が救われるのであれば。