高校受験生諸君へ
僕が日本を離れて知ったこと #2
#1 from US
メモを取るにもメモを取ってる間に他の事が起きてしまっていてさっき目もしかけたことを忘れるみたいな。そんな忙しい気分です。
国が違えば雰囲気が違うのも当たり前かもしれませんがこれは良い経験になっています。
よく海外の掲示板を見ると日本人はロボットだみたいな風刺があるらしいですけどいざ日本から出てみて外からみて見ると僕らはロボットでした。
どこで聞いた言葉か忘れてしまったのですが「日本の人は仕事をするために生きてる。アメリカの人は生きるために仕事をする」とか言われてました。いろんな捉え方があるでしょうが単純に思ったのはそりゃそうだろうなということ。
社会がstrangeなことを認める(もしくは許す)事が出来ているのは本当に大きいことです。
てんとう虫Aとてんとう虫Bの違い
アブノーマルになりたいですか?
人につく愚かさ
死を想うと自分に必要なものだけがみえてくるとみえてくる見えてくると言った人は知らないが(w) もし癌などで余命宣告をされるなどして死を確実に意識した時には大切なものが見えてくると思う。
そういったことを意識してみる。それだって昨日より自分が進歩したことでもあるのです。
認知バイアスについて
いい例として今まで人を愚か愚かと騒ぎ立ててきたわけだがこのバイアスとやらの定義でいくと他の人もまた同じようなことを考えていたということだ。ここでそんなことは無い筈だ。僕は高宗なことをな事を言っていたといってしまう。これもまた一つの認知的失敗であろう。
ただ他の人からみて、こいつはバイアスに支配されているなと勘付かれる奴と上手く付き合ってるなって思われる人ってのはいる。実際僕がどちらかと言うことはお察しの通りなのだが。
こういうことを言ってると自分を過大評価することはまるでいけないことのように聞こえて来るがそうではないと考える。
僕は自分のことを過大評価することはいいことだと思ってる。過大評価の評価と言うのは他人からされるものだが自分で信じてるレベルの自分を紹介して他人に過大だと言われてもなんの…というか関係ない。
こんな言葉があるくらいだからやはり人に流されてはいけないと改めて感じる。
人のせいで自分のレベルを下げてはいけない。
基準は不変だ。そしてそうあるべきだ。
それもまた僕にとって真実
久々の更新です。
こうチカチカと点滅する棒(入力するとこに出るやつ)を見ると、やっぱり自分が描きたい時に描くことが好ましいものがブログであり本であり作文だと思ったりします。
この頃日を重ねる毎にスティーブジョブズが凄く(偉大に/高い/的なニュアンス)に思えてきています。僕がその状態に苛立ちと空虚な気持ちを抱いていることが確かです。
何故なら日を重ねる毎にたいしたこと無いと思えるのが普通でありそうあるべきであるからです。
視点の変換を意識して見ると。
もし僕がスティーブだとして
自分になれないと言っている奴がいるとする。
そうしたらその人はなれないと思うだろうか。僕に。僕は。
答えはNOだ。僕は僕になれる奴がいると思うだろう。
少し話が宙に舞ったけど何故スティーブが偉大に見えてくるのかということに話を戻すと。
僕は自分が使っているものの原理を知らないとうずうずする。自分が作ってもいないものを偉そうに紹介できないししたくもない。iPhoneの裏技を披露されるのも頭に来るし披露する自分にも頭に来る。Appleを偉そうに語る奴にも頭が来るしSONYはすごい技術を持っている…とかぬかす奴にも頭が来る。
すごい冷静に見た末、考えると人はこう言うだろう。嫉妬とか妬みだろう。と。
でもそうじゃない。僕は仕組みも知らないAndroidを馬鹿にしたりiOSは神だとかいうのは愚かだと思う。CPUの中身を知らないのにパソコンに触る奴は愚かだと思う。本当にそうだ。キーボードがどうやって情報を本体に送っているか。Wiiのリモコンはなんでワイヤレスで飛ぶのか。携帯はなんで電話出来るの。本当に何も何も知らない。耐えられない位、愚かだ。
そんなのは専門家が知っておけばいいとか好きな人が見ればいい…とかは違う。威張ってる奴が愚かなんじゃない。触ってるやつ全てが愚かだ。
電車の中でスマホをいじってる人はほぼ全員だ。なんか虚しくなる。僕もその一員なんだって。何も知らない愚かな人間なんだって。提供する側ではなくて何億人もいる中の一人なんだって。
ここで皆が言いたくなることは、多分、じゃあスマホを自分で作れっていうのか。ということ。
でもそうじゃない。どうしたらいいのかわからないけどそうじゃない。ただ言えるのは他の人と差別化をすることが大事なのではなく、自分を確立させることだ。(お気に入りの言葉で言えば、自我の確立)
これは他の人と違う、要するにアブノーマルになるということじゃない。結果的にそうなるだろうが目的が違う。目的はそうじゃない。
そもそも自我って人から見えない。見える(見える人には)のは意思と志だ。でもそれらは自我っていうOSの上で動くソフトのようなものだ。ここで言いたいのは自我が土台になっているとかそういうことではなくて、OSとアプリがやりとりをするように自我と意思と志がお互いにキャッチボールをしているということだ。
意思は意図して持つものであって、無意識には持てない。そして持てないべきだ。
ここで思い出すのは
ほとんどの人々は馬鹿であり、ほとんどの権威は悪意に満ちており、神は存在せず、何もかもが間違っている。
というテッドネルソンの語録だ。
15歳と辞書を引いたら載ってそうな言葉だがあながち僕のいま言いたいことと似ている。
最後に。これからどうしようということ。
このままいくと僕はスティーブを崇拝する対象にしてしまう。そんなことは絶対に避けたい。たいしたことないと思えるように。
学校の宿題の作文位、綺麗事を書くとすると、明日からは〜していきます。だろうがあんなに阿呆な反省文はない。
僕は明日も変わらないだろう。変わりたい変わりたくない云々の話ではなく変われないだろう。ネガティブに思ってるのではなく自分は変われないんだ…と開き直ってるわけでもない。人は簡単に変われない…と開き直ってるわけでもまたない。
ただ人は変われないんだ。
スティーブが偉大に見えてくる。
それを嫌だと思う。
そんな僕がいること。
それもまた僕にとって真実。
個性って no.2
http://www.libe.nara-k.ac.jp/~takeda/japa/03-2-kosei.htmlより引用
とてもとても興味深い内容を書いているサイトが合ったので読んでみた。
個性とは?
2M
○やはり人というものは、仲間がいないと寂しいのだ。個性をもって多数派に対応すれば味方や仲間を探すのが困難になる。それゆえに人は一般を知り、多数派に入り、少数派をさげすむ。人は他人よりも優位に立ちたいからだ。
○多くの人々がもとから持っているはずの個性を見失い、その中の多くの人々が、そのまま「あるはずの個性」を「自分には個性がない」とい見解し、一生を終えているであろう。しかし、僕はそれでもいいと思う。なぜなら、もしも個性を見失っている人が、そう見解しているのであれば、その見解もまた個性の一部であると思うからだ。
○孤立を恐れないのは大事だと思う。
○例えば、ある映画で、この映画は感動まちがいなしと言われても、感動しない人もいるだろう。そして、そのような人は周りの人から感情の乏しい人だとか、言われるかもしれない。けど、それは感じるままに思ったのだから、誰にも感情を変えることはできない。このようなことが個性だと思う。
○自分の個性を考えるとき、もちろん顔形声から始まって性格とあるが、他にも考えてみると、自分の好きなことや趣味などがあることに気づく。他にも自分だけが知っていることや知識も個性だと思う。
○一人一人の個性は刻々と変わっていくものだと思う。
○自分の個性ってものは自分が思っているものとは違っていると思う。
○個性、個性などと言って自分の好きな事ばかりやっているようでは個性とは言えないような気がする。
○ただ単に他の人と違った恰好をしたりするだけが個性的というのなら、また、それを見て、我も我もと他人と違うことをする人が出てくるだろう。そうなってしまうと結局、他人と違うことをするという流行に乗っているだけになる。
○勇気がない人が、ブランド品を身につけた所で、ただの金メッキでしかありません。いずれははがれ落ちて回りにバレるのです。だから人はそこを直す事ばかりにお金をつぎこむのです。
○自分の個性的と考えていた所はあるが、それはいつもだれかと重なっていて、とても自分だけが持っている独特の性質ではなかった。でも違った所を見つけようと必死になるようなことはせず、自分がこうした方がいいと思ったことを、善悪を考えながら行動していけばきっと自分の内面にみがきがかかるし、加賀乙彦さんが言っていたような本当の個性というものが出てくると思う。
○ある大学の青年の例では結果的にその人の希望する道につけて、成功だったのかもしれないが、その人は自分の好きなことしかできない人になってしまうのではないだろうか。自分の好きなこと以外にとりえがない人にである。作者のいう個性には何か大事なことが抜けていると思う。忍耐とか自制心が抜けていると思う。(…)確かにみんながみんな、同じことをするような世界では何も面白くないけど、今自分がしたいことを我慢して今一番しなければならないこととは何かということを考えることも大事なのではないだろうか。
○ぼくが思うに、個性的になろうと思ってなれるものではない。服を例にあげるならば、周りからバカにされるのが嫌でファッション雑誌を開いて流行の服を買う人も、周りとちがう事をしようとわざわざ珍しい服を身にまとう人も、同じくらい個性がないと思う。個性というものは自分の中から出てくるものなのだから、自分の好みの服を買えばいい。それがはやっているかどうかは後からついてくるものである。それが流行であろうとなかろうと、それが自分なのだと認めることができるなら、個性があるといえると思う。
○確かに、周りの人が持っていないブランド品等をただ買っているだけの人もいる。しかし、そもそも人と違う物を手に入れたい、と思う事自体が、自分自身のなかから生まれる個性ではないだろうか? 服装や髪型というのは、ひとりひとりの個性から表れるものだと思う。別に個性を得たいがためだけに人と違うものを身につけている人だけではないであろう。
○他人の個性を参考にしても、それは本当の個性を見つけたことにはならない。(…)けれども、他人の意見も大切である。自分が間違っていたりすると教えてくれるのは他人だから他人の意見を完全に拒否するのは駄目だと思う。
○個性とは、自分とはこういう人間だと自信を持てるものでなくてはならないから、良い方でも良くない方でも、自分にコンプレックスを感じるなら個性とは呼べないと思う。他の人とはちがうということは、他の人よりも秀でているところが何かしらあるということなのでそれを個性にすべきだと思う。
○もっと人と違うものをもとめて、個性をのばしても、周囲の人間から浮いてでも個性をもとめる力をつけていきたいと思う。
○自分はしっかりとした考えを持っているという自信があるので、それをこれからどんどん強調することで、今まで自分でわからなかった自分の個性を見つけていけばいいと思います。
○自分を見つけるために「外」へ求めるということで、自分の今、気になっていることを考え、そのことについて書かれている雑誌や本を読んだりすることは、自分の個性を見つける手段として使ってよいと思った。
○自分だけの考えや思いというつみきを、自分の中だけではなくて表面で、みんなにもわかるところで組み立てられたとき、自分の個性というものが分かるんじゃないかと思う。
○外側にみかけの個性を求めることも、その人の個性だと思うし、抑圧に耐えて孤立を恐れないで個性というものを主張しなくても、生きている事それ自体が個性のかたまりのようなものなのだから、そんなに辛いことをしなくても良いと思う。
○自分は特に個性を持った人間ではありません。他人とは明らかに違った趣味を持っている訳ではなく、服装だってファッション雑誌を読み、気に入った服装があればそれを真似して服を買います。もちろん、自分がどのような人間であるかを見定めよう、などという気は一切ありません。一つほしいとすれば何か一つ「これだけは他人には負けん!」というような何か一つのことを極めた技術です。しかし、別に個性がほしい訳ではなく、自慢できる技術がほしいだけなのです。
○自分の個性に気がつくためには、人と話をするのが一番ではないでしょうか。ちがった個性と話をして、話が合わなかった所が自分の個性の一部なのではないでしょうか。
○私たちは常日ごろ個性を持ちたいと思い個性を外へ求めるのは、自分の内側の個性を探し求めるための一つの手段であるからである。自分を知るのは、とても難しいことである。自分というものは、形がなく、空気のようなものでとても分かりにくい。それゆえに形がある外のものに自分を求め、そうすることで自分を見極めようとしている。自分を知ろうと、試行錯誤しているそれ自体も個性である。
○外からの個性によって本当の個性が目覚めるということもあると思う。(…)ある本に感銘を受けたことがあり、なぜそうなったのかを自分に問いかけているうちに自分だけにしかない独特の作品鑑賞たるものをみいだせるようになった。
○自分自身を「人間」としてではなく、「もの」としてとらえているからではないか。「もの」としてとらえているからこそ、自分自身の存在価値を見出せないということになる。そして、自分から見る他人は「人間」として認識しているので「個性」というものが見える。
○人間は個性のかたまりであって、自分が素直に生活するだけでそれは光るものだと思う。僕も、自分自身の個性をよく考え直して、無理に人と合わせずに、生きていこうと思います。
2E
○個性とは個人の性格、体格、風格からできていてそれらを総称したものだと思う。
○個性というものは生まれた時から決まっているわけではなく、その人の生まれた時の環境や親の教育などさまざまな要素によって確立され、また環境の変化などによりその人と共に成長し、変わっていくものだと思う。
○「オンリーワン」ではあるが、「ナンバーワン」と必ずしも一致しなければならない、他の人達より劣っていてはいけない、と言うわけではない。
○問題は自分自身の個性を自ら認識できていないという点である。己を知ることが自分を誇れる行為だと聞いたことがあるが、まさしくそう感じる。
○例えば、うわさになるような個性を持っている人がいたならば、その人自身は、あたりまえのことだと思っていることが多い。
○個性とは他人から見たイメージのひとつであり、たいていの場合いいイメージではないものだ。「変だ」とは思えない違いは個性ではない。他人から見て個性的なものも本人にとってそうではないのも、あくまで個性は人が他人を見て感じるものだからだ。
○自分の個性をもっとも理解しているのは他人ではなく自分なのです。
○個性は手に入れようとしても手に入らない。無意識のうちに手に入っている、そんなものだ。そして手に入れた本人は個性とは思わない。持つべき人が知らないうちに持っているのが個性なのだ。
○僕には「個性」とは自分の本質のようなものだと思う。
○個性とは人それぞれが持っているもので、同じものはなく見つけるのは難しいことだと思う。自分の個性を見つけようとしてみても、比べる相手がいないので自分では見つけられないと思う。
○個性的だからってなにか得することがあるんだろうか? べつに個性をもたないほうがいいとは言わないけど、でも個性をもってもなにかいいことがあるのかな?
○個性の強い人は、人から非難されることが多いように思われる。
○個性とは、心の持ち方の違いだと思う。他の人より伸びている部分が個性だと思っている人も多いですが、僕はそんな風に思いません。ありのままの自分が個性だという風にも思いません。ひっこみじあんでなかなか表に出られない子とかも、そういう個性をもった人だと思っています。そういう風にできないしやろうともしないからそんな風になるのです。個性とは、心の持ち方の違いだと思います。
○個性というものは人が生活していく上でなくてはならないものだと思います。
○個性とは変えられない物とも思っていますが、自分を取りまく環境によっては変化できる物とも考えています。
○それぞれが素晴らしい Only one なのだから、その自分しか持っていないものを引き出すべきだと思います。それを引き出すと本当の自分が見えて、自分が好きになると思います。
○本当に個性的な物に世間は初めは冷たい態度をとるものだ。という事は今現在低い評価を受けている変な物は、本当に個性的でまだ世間が認めていない物かもしれない。という事は、もしかしたら今現在「変わった奴だ」と言われいじられている奴が、将来受け入れられ絶賛されたり憧れの的になったりするかもしれない。僕は個性的だ。
○自分は個性的ではない、そう僕は思う。
○僕の個性といえばとにかくマヌケでヘタレな弱い男だと思う。でもいつからか影で目立とうとするようになったと思う。はじめはただドジってた。そのときみんなが笑った。バカにされたのかもしれないけど、みんなにすこし好かれたかった、笑ってほしかった。それから影でウケを狙おうとした、度胸をはって。
○例えば授業で質問に答えたとする。次に先生が「他の人はどうですか」と聞くと誰も何も言わなくなるし、あてられても「一緒です」とか、「同じです」と大半の人が答えると思う。多分、あてられた人の中には、とっさに前の人の意見に切り換えたりする人もいるだろう。その人は「うわ、あの人と答えがちがう。どうしよう」と思っているだろう。どうしてもみんなに合わしてしまうという現象が生じる。多分、別の意見を答えるには勇気がいる。なぜなら、みんなが合わしているところに反論しているようなものだから。
○僕は周囲のことを気にしていることに気がつきました。例えば、授業の時も、答えが自分なりに分かっているのに、間違えたくないという気持ちから、それを答えない時があったのもそれだと思いました。
○「個性」イコール長所であると、僕は考える。
○小学生の頃なら、作文はきびしく訂正されたが(これは個性を否定しているのか?)今はされないのでいいかと思う。
○自分を卑下するのではなく、自身をよく理解し、個性を尊重すべきだと考えます。そしてどこでどうすれば一番役に立つかを考えるべきだと思います。
○友達にマニアックなどといわれるけど、それはあくまで個性であり、長所である。僕は自分の個性をあくまで貫き通します。
○よく色々な人が「自分の個性をのばしなさい」と言うのを耳にする。しかし、勉強しなければ成績が悪くなる。個性をのばせと言いながらも実は違う事が強制されているのではないかと思う。
○本物の個性とは自分が何がしたいのかをはっきり自分で決断していく事だと思う。それが無い人は変わった個性を持っている人にあーだこーだ言うのではないか。個性を持っている人こそ人の個性をすなおに受け入れる事ができるとも思う。
○でも、これだけは自分の個性だと思えることがある。それは「他の人とは違ったことをしてみたい」ということである。
○個性をもっていながらも、あまり人に見せようとしないのが日本人の傾向です。これはまわりの人に認めてもらうチャンスをもちながら自らそのチャンスをつぶしているのです。ので、自分は個性を見せ、つくられた自分ではなく本当の自分を認めてもらえるようになりたいと思っています。
○自分の個性についてだが、先のことを考えて行動したり、いろんなものに興味をもっていることである。
○なぜ、他人の個性を見付けることは簡単にできるのに自分の個性を見付けることができないのだろうか? 私は、その理由は自分自身とちゃんと向き合おうとしないからだと思う。はたから「自分には個性なんて存在しない!」と決めつけてしまっているのだと、私は思う。心の底に「もし、自分とちゃんと向き合った時に、本当に自分には個性のない、しょうもない人間だということを悟り、傷つくのが恐い」という気持ちがあるから、向き合う前に決めつけてしまうのだ。それとは逆に、他人を見つめるのは案外、簡単な事で、それゆえに、その人の個性やよい所を見付けやすい。
○だが、個性とは自分自身の中に存在するものであるから、すべて合わせようとしても、それは大変無理なことだ。もしも、すべてを周りの人に合わせれるのなら、それは個性をもたない、人の形をした機械だ。
○みんながみんな同じだったら僕は、生きている意味がないと思います。
○いずれにしろ、自分と上手に付き合ってゆくことが自分の個性を周りに表現する一番の方法なのだと思う。
2S
○自分は、普通と比較して明らかに変な奴である。だが、この「普通」がくせ者である。領域があやふやな上に、人によって判断基準が全然違う。「一般」等という言葉も同じである。ある一定のラインがバラバラなのだ。
○人間はやっぱり人に見てもらいたい。気付いてもらいたい。一目をおかれたい。目立ちたいということがあるのだと思う。(…)結局わすれられたくないというので個性をもちたいのだと思う。
○その頃の自分は、自分よりデキる人についていっていた。他人のよい部分をコピーしようとしていた。
○たいがいの人には劣等感があると思う。自分を不幸だと思っている人もいるだろう。けれど人とのちがいがあるだけで十分幸せだと思う。
○「個性とは?」という質問について僕は、一般的にいわれている「唯一」とか「独創的」とかいうことではなく、「自分らしく」とか「あるがままに」ということが個性だと思う。ちなみに「自分らしく」ということは、流されるままに行動することではなく、社会での基本的な規則を守りつつ、自分の気持ちに正直に生きることをいいたいのである。
○強い個性を持っている人がこの人間社会の中で孤立している可能性が高いのはこの個性の社会の中での性質から来ているのだと思う。そして、この性質は今日の日本社会制度に密接に関係していると思う。日本の教育制度では集団行動意識が強く、子供の興味がふさがれてしまい、弱い個性しか育たない。
○イスに座って半日近く勉強ばかりやったり、立派な大学に入らなければ就職できないなどの環境で、本当に個性ある人間が育つのかと思う。好きでもない事をやって何になるのか。好きな事だからこそ夢中にもなれるし、技術的にも上達していく。国や社会のために人がいるのでなく、人のために、国や社会があるのだから、自分達がもっと社会を変えていこうとする気持ちが必要だと思う。
○加賀乙彦さんは、文章の中で人々はもともと個性を持っているにもかかわらず、個性を持ちたいと考えていると言うが、それは自身の個性というものを認識した上で、さらに違う個性を補いたいというものだと思う。また、個性の強い人間になるのを恐れているというのは、自分の考えとは合わない人に対しての感情ともとれる。
○僕の考えは(加賀さんとは)違う。個性を持ちたいと思い、個性ある人をうらやむのではなく、人に評価してもらえる個性を持ちたいと思い、人に評価してもらえる個性を持っている人をうらやむのだと思う。なぜなら、ほとんどの人が自分は個性を持っていると知っているはずだ。しかしそれは陰の部分にあり、人に評価されにくい個性なのだ。だから人は評価してもらえる個性がほしいのだと僕は思う。
○僕は、外から与えられる物で個性をえようとする人をこっけいとは思わないし、それでいいと思う。なぜなら個性を外へ求める事がその人の個性だと思うからだ。
○顔とか体型とかのような自分の外見は、後々大きくなっていくうちに、少しずつ変わってはいくけども、生まれつき得ているものなので、個性だと思います。しかし、服装のような、簡単に変えられるものは、あくまでも自分らしさの演出で、個性とは思いません。
○近鉄百貨店で高い買い物をすることで外面的な個性は得られるとは思うが内面的なものはそれによってあまりめだたなくなってしまうと思った。そしてそれは言いかえれば、ユニクロのような大衆的なものをみにつけていたほうが外面的に人と変わらなくなった分、自然と内面の個性が顔を出してくると思う。
○私は服飾品などが個性に関係ないとは思えない。たとえば、全然自分の個性がわからなくて悩んでいた人がいたとすると、服装や髪型を変える事によってその時の気分を変化させて自分の個性を見つけ出す事があるかもしれない。また、そのように服装や髪型を変えて自分の本来持っていた個性を見失うことも少なくないと思う。
○自分の考えでは、個性を持っている人とは、「自分が見えている人」だと思う。自分が見えていると、自分の在り方、自分の意見が見えてくる。そうすると、「自分」というものが確立する。そういった人を見ると、やはり個性がある人だと感じてしまう。
○個性を知るためにはまず自分を知りまわりからもどう自分が見えているかを知ることが大切だと思う。そうすると、自分だけでなく他人の個性も理解できるようになると思う。
○僕は自分の個性というものは、二通りの見つけ方があると思う。一つ目は、本や新聞を読んだりして、他の人の思想や生活などを自分と比べて見つける方法。二つ目は、他人と話す中で見つける方法。
○友達や家族に教えてもらうのも良いと思う。それよりも、一人で旅へ出かけるのはどうだろうか。(…)自分との対話の時間が増えて、新しい自分と出会うことができると思う。
○「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、彼を知らず、己を知りせば一勝一負なり、彼を知らず、己を知らざれば戦うこと必ず危うい。」(…)自分を知る、つまり個性を知るということは戦いにおいては自分の身を守り、社会においては自分の身を立たせることだと思う。
○個性的でありたい。と思うのは、それは同時に、自分は平凡なやつだ。と思ってるんだと思う。平凡なやつなんてそうそういない。いままで逢ってきた人みんな個性があって、おもしろい。(…)個性を持ちたいのは、やっぱり楽しく生きたいからなのかもしれない。自分の個性がどう言う風なのか自覚している人は、その人に接して周りも楽しいだろう。自分の個性なんてどんなのだろう。とわかりにくいと思うけど、だからそれを見つけられたらどんなにいいだろう。
○大学の青年の場合にしても、この人本人は特に「俺は個性をもっているぞ!」なんて、これっぽっちも思ってないと思う。ただ自分がしたい事をしていて、それを周りがとやかく、それが個性だ!とか言ってるけど、たいがいにしてほしい。(…)個性とはコレだ!なんて考えなくて、自分がしたいようにすればいいと思う。それが後に、その人の個性になればいいんぢゃないかと思う。
○人の考えは、いろいろ外から影響されがちですが、心の奥底の考えはそう簡単には変わらないと思います。それがその人の個性であり、生きる道だからだと思います。
○性格を変えたりするのではなく、自分の性格を生かさなければいけない。自分の性格を殺しても個性的にはなれないと思う。
○「一人一人には個性があります。しかしその個性は良いものばかりではなく悪いものもあります。悪い個性を互いに認めて尊重し、でも時には悪い個性を良いほうに持っていく。これがみんなの一年の目標です」
○最終的に個性をつくり出すのは自分だと思う。なぜなら僕は個性とは自分が経験したたくさんのことの積み重ねによって少しずつ出来上がっていくものだと考えたからだ。例えばたくさんの本や文章を読むことで自分の考え方や言葉遣いが決まっていくように、他の経験でも自分の個性がだんだん決まっていくんだと思う。
○自分自身が個性なのだから、無理に自分の個性を考える必要はないと思います。自分のこういったところが悪いと思ったら、それを見つけて直していくこともまた個性だと思います。よく、自分は個性がないという人がいますが、それは個性がないわけではない。周りの人と比べて、特に目立つところがない、つまり個性的ではないということです。もし、自分の個性を変えるのならば、自分を変えていけばいいのです。自分を変えると言っても、内面的な自分に対してであり、決してすぐに変われるものではない。一日一日をふり返って、少しずつ自分のなりたい自分へ近づいていけばよいと思います。自分のなりたい自分になった時に、はじめて自分の個性を生かせるのだと思います。
2I
○現代の社会では個性的な人間が求められているような気がする。就職するにしても皆と同じことしかできない人は何も役に立たない。個性的な人はそこにたどりつくまでたくさんの苦労をしていると思う。
○人と違うことをする必要はない。何かに一生懸命になれる自分を作ってやればいいのだから。
○同じブランドの品物をつけていようとも、それをどう身に付けるか、それをどう生かすかによって違ってくると思う。例えば同じシャツでもボタンを外したり、うでまでまくったり、そして他のものとのくみ合わせでずい分変わってくるだろうと思う。
○外面の個性というのはその人がそれを選ぶセンスの問題なのだから内面と同じようなことである。
○「カッコイイ」と感じる対象を外にしか見い出せないから自信が持てないのかもしれない。
○私は個性は生や死と共に生まれた時から人それぞれ与えられているものだと思っている。
○個性とは、人々のなかで溢れている「なにか」であると私は思う。
○自分が思う個性というものも、自分の中から探そうとすると、無意識の内に「人とは違った自分の、自分で思う良いところ」を探してしまうような気がする。逆に、人の個性を探さそうとすると、その人の少し変わったところ、妙なところを探すことが多いような気もする。
○周りの人達のことなら簡単でも自分自身のことだと分からない。それは、自分のしていることを基準にしているからだ。だから自分のことは全て「普通」になってしまい、自身の個性が分からない。
○ある固体の主観に立ち、その個性を知る時には他の固体との相違点を探せばよい。(…)ここで重要なのは、相違点だけに注目し、その良悪では判断しないこと。そうすれば、知りたい固体の個性をできるだけ正しく知ることができる。
○自分の個性とはというのは他人の目から見た視点やその人の性格や個性などがえいきょうしてくるのでよっぽど個性が強くないと、他人に自分の個性を発見してもらえないと思います。
○学校は人の個性の影響を受けやすいと思う。個性的な人は個性的であることを続けるのは難しい環境だと思う。企業は個性的な人を使いづらく感じ、企業でうまくやっていくには個性をあまり外に出さないほうがいいと感じてしまうと思う。
○自分というものは個性を作り出すものであると思う。理由は、個性を手に入れるためには自分を変えなければいけないからだ。いろいろと自分を変えながら、本当の自分の個性を見つけることが大切だと思う。
○個性というものは自分が自分の人生の中で作り上げてきた自分そのものであると思う。多くの人は、個性を求める一方で、個性を主張するのを恐れている。それは自分の作り上げてきた個性が、自分の望む個性とはちがうと思っているからだと思う。(…)個性とは自分そのものだから、それを捨てて簡単に望む個性は手に入れられないだろう。
○生まれた時からもっているものは変わることはまずない。後でもった個性は努力すれば優れてくるし何もしなければ劣ってくる。これを個性とは言えないと思う。個性とは不動のものだと思っているし、人よりも上か下かというものでもない。個性とは他人と同じ枠組みの中で上か下か比べるものではなく違う次元で自分しかもっていないものだと思う。
○面接では、自分のいい印象を与えようと長所というものを装飾して話す。謙虚な人は人前で話すとき、自分にないはずの短所まで話す。こういうふうにその人自ら話す個性とは本当の個性ではない。
○どこまでが個性で許されるかがわからない。大人からは怒られるが、同年代の人からは笑って言われたりしてその差がわからない。自分はブリっ子は一番嫌いなので大人にも子供にも同じ接し方で行こうと思っている。その結果大人と子供で自分に対する評価が違ってくる。個性って難しい。
○僕は、僕の能力を評価してくれる人にとても恵まれています。自分自身で自分の性格を定義するより、自分をよく見てくれる人に評価してもらうほうが、今の僕にとっては重要だと思います。
○言ってしまえば個性的な人というのは、自分の欲求通りに行動して自己満足している人のことを言うのです。その人に社会性がなければただのわがままな人ですが、社会性があり、なおかつ自分の欲求のほうが他人にどう見られるかを気にするよりも大きい人が個性的な人というのだと思います。
○僕は別に流行が気になり、それに無理に合わせたりしようとは思いません。でも、その中で自分に共感できるようなものがあれば、僕はそれに合わせたいと思います。それが流行にのる行為や他人から批評をかうことであっても、それが今自分のしたいことであれば、できるだけやりたいです。
○僕は流行のものが嫌いで、誰も読まないような本を読んでみたり、流行でない音楽を聞く。けれどもそれは、自分が個性的だと思い込みたいだけなのかもしれない。ほんとうに大切なことは、流行でないとかに縛られないで、自分の好きなものを探すことだと思う。
○俺は、なるべく自分の意志や感性をつらぬいていっているつもりだ。たとえ、その曲が売れていようがいまいが、流行っていようがいまいが、新しくても古くても、好きなものは好きだ。他人に感性というテリトリーを荒らされたくない。
○もちろん、流行などまったく気にせず、自分の思うがままに生きている人もとても素晴らしい個性の持ち主だと思う。が、流行の服を着て、流行の場所へ行き、流行の言葉をしゃべる。それは、全て自分が望んだことであり、自分の個性で選んだことである。
○流行にのりたいとその人が思ったのであれば、それはそれで個性だと思う。そう思う人が多くいるから、目立たなくなり、個性じゃないとよく言われるが、その人の感性が個性だと考えれば、それもまた個性になると思う。
○普段周りの人に合わせているからと言って、「個性のない人」ではないのだと思う。そして、ある条件を満たしたときに、また新しい個性というものが、発見できるかもしれない。だから自分を見つめるのもいいけど、新しい世界へ飛びこみ、新しい条件を自分に与えることが必要なんだと思う。
○自分にとっては当たり前でも、実は自分の存在自体を象徴するもの、である。つまり私の全部が、私の個性なのだ。人自身が、その人の性質全てが「その人がその人であることを示す個性」なのだ。それはその人の誇りであると思う。
○個性の強さは環境によって変わってしまいますが、個性に伴って、その人そのものの人柄や価値が変わってしまうわけではありません。明るくて人当たりのいい人が、同じような人の集団に入ったからといって、その良さがなくなったりはしません。そうすると、個性の強さは、その優劣とは無関係という結論が出ます。
○人生に深く関わる個性、出す出さないもまた個性、自分で決めたことはすべて個性、他人からは見えなくても個性、結局は自分を信じること。/天の川に加わらなくても星は輝いている、見てもらえる。
○正直、自分の個性なんて分からないです。分からないけど急いで見つけるようなものでもないと思います。
○個性的な人間を自覚しているとは言いましたが、自分自身はそんなに意識していません。ただ、ふと考えた事を実行しようと一度思えば、自然に自分の思う人間に近づくと思います。
2C
○個性は人が産まれながらにしてもっているものなのです。
○個性というものは周りの環境でほとんど決まると思う。
○私は個性というものは性格や考え方といった形の無いものだと思う。
○個性とは他の人とはちがった目に見えない、はっきりしないものだと思う。
○個性というのは、少し言い方は悪いけど、別の意味では、他人が評価…と言うと何か違うけど…したりするものだと思う。
○一番人間の行動を支配してるといえる心が本当の個性だと思います。
○個性というのは自分の中から外へあらわれるものだとも思う。
○個性というのは周りの人によって多少変わっていったりするものだと思います。
○外見(服装などの)の個性、内面(性格的なもの)の個性がある。私はこの2つの個性はおよそで比例していると思っている。というよりも内面の個性が外ににじみだしているイメージだ。
○個性とは、その人間の身体的特徴よりも精神的特徴の方が反映されると思います。
○自分の個性とはけっして外側に出てくることはなく今の自分を作った基本のようなものだと思います。/そして、自分とはその個性をもとにして今までの過去、そしてこれからの未来によってどのようにでも様変わりしてしまうものだと思います。
○世間に影響を受けても流されるのではなく、「自分」を持つこと、それが個性だと思います。
○個性があってもその個性をおさえる時も必要と思う。
○個性とは、自分の考えを貫くことだと私は思う。
○個性とは、周りの環境や人との関わりによってどんどん変わっていくものなのだと思った。
○嫌いだと言ってかんたんに変えれないものだから。
○人生において人の考えや意見を知り、己の考えや意見が変わることは多々あると思う。
○今、考えていること、こう思ったりああ思ったりすること、思いつくことは人それぞれ違う、それ自体が個性というものだと思う。
○例えば、殺人はどうか? それも人を傷つけたいという考え方の個性の上に成り立っていると言えるのだろうか。僕はそれを肯定することはできない。
○個性はたしかに自分の中に在るものだが、主観的に見れば、考えても出てこなかったり個人的に美化されたりしてアテにならないことが多い。
○個性というのは、自分で決めつけるものでなく、自分を見つめる操作をして知るもの。
○人に個性がなければ、他人に興味を持ったりはしないんじゃないだろうか。人は自分とはちがうもの、自分が知らない物にこそひかれるのだと私は思う。
○生まれた時から持っている思考回路。これこそが個性の源なのだと私は思う。つまり、人は個性を持って生まれてくるのだ。
○長く付き合っていく上でだんだん、しかも自然にわかってくるものだと思う。
○私は、地元に居る時は、友達と同じ様な恰好や、化粧になっている。しかし、同じ恰好で学校に来ると自分は一人浮いている。言い換えると、私は地元では個性がなく学校では個性的なのだ。つまり、個性とはまわりの環境によって、自分が変わらなくても言われ方が違ってくるのである。
○まわりから見ると変な風に見えるかもしれませんが、これはこれで僕の考え方であり、似たような考え方またまったく違った考え方をする人がいるかもしれませんが、やはり一人一人考え方は違うので変なのではなくてこれは自分の個性だと思います。
○僕は髪を染めていませんし、服に興味があるわけでもありません。多少人見知りする方ですが仲のいい子とならよく話はしますがクラスで目立つ方ではありません。言葉でくくると自分はふつうの子になりますがそれが僕です。
○自分がやりたいことは何なのか考えだすと、自分はどういうものなのかに考えがいくし、自分はどういうものなのか考えだすと、自分がやりたいことが何なのかに考えがいく。多分、どちらかが見付かれば、もう一方も見つかるんだろうなとは思うけど……。
○自分は人とは変わっていたり、変えている点が多い。しかし、個性が出ている事は、必ずしも、いい事であるとは、言いきれない。人と似かよった部分も必要である。
○人と違うからといって無理に他の人に合わせようとせず、自分と他の人を比べないで自分らしさを大切にしたいです。
○自分さえ大切にすれば個性は見つかるのか。友達や他人を大切にすれば見つかるモノなのか。……私の考えた答えは、自分を出しつつ、他の人もちゃんと見つめれば、自分の個性は見えると思う。
○私はほとんど自分の意見をもたずに人にあわせていくのが個性であり、性格であるのかなあと今回「個性」について考えた結果として出てきました。
○「個性」と「変」の境界線を引くのは難しい。……私自身、友達から「変だ」とよく言われる。けれど、その友達に「変と個性はどう違う?」と聞いても、明確な答えは返ってこなかった。
○私は個性が強い人がいいと思っている。それは、自分をより他人に知ってもらおうとしている気がするからである。相手が自分に対して個性を出してくれると、自分も相手に個性を出せる。
○私の個性は聞かれてもすぐには分からない。考えて、「私であること」と答えを出した。
○自分の個性とは周りの人が作りあげた自分のことを言い、他人の個性とは自分が作りあげたその人のことを言っているのだと思います。
○「それが普通」と思っている事が他人から見れば、「その人の個性」になっている事もあると思うので…
○自分の「個性」がどんなものなのかを知っている人は、より自分というものをよく知っているということだと思う。
○どのような個性をもっていても自分は自分、それ以上でもそれ以下でもない存在なのだから。
○個性があるというのは、良い面、悪い面あわせて他の人との違いをもっているというのが普通の意味だと思う。しかし、私はそこに、「自分が人と違う」ことを自分自身で知っているという意味もつくと思う。…いや、知らなくても、自分の個性というものを活かすことができてこそ、個性があるというのではないだろうか。
○私が個性を持っているなと思う子は自分の考えをしっかり持っている子だと思う。
○よくよく考えると、自分の趣味まで本当に心の底から好きなんだろうかと思えてくる。
○社会の中で個性を出せる人は個性を貫く意志が強い人だと思います。それが良いか悪いかはわからないけど、僕はやっぱり憧れます。
個性
私が思う個性とは、自分の意志で何かをしていれば、それはすべて個性だと思います。よく『個性』とは他人と違ったことなどをしたりすることに使われていますが、他人と同じことをしていても自分自身が選んで決めた道ならば、そこには個性があると思います。
そうなると私自身の個性とは私自身が決めたこと、していることのすべてであると思います。つまりはここで今、授業を受けていること、ごはんを食べること、生きていること自体が個性になるのではないでしょうか。
たとえそれがみんながしている、持っている同じようなものにみえても、それを実行する、持っている人によって同じに見えるものは少しずつ違っていると思います。だから、わざとみんなと違うことをして個性的な印象を与えたいとか思わなくても、自分がすることには十分に個性が宿っているんだと、もっと自信をもっていいはずです。
でも人が一人しかいないと個性とかは関係なくなりますが、さいわい私達のまわりには人がたくさんいます。これで個性を発揮する機会が初めてできます。もし一人だけの世界だったら個性は存在しないので、集団の中でこそ個性は存在するものだと思います。
個性とは?
個性とは僕は人が一人一人が持つパズルのピースのような物だと思っている。人は不安ながらにも近づこうとし、触れようとする。しかしその個人のピースの凹凸があわなかった時お互いのピースはそれ以上近づく事ができなくなってしまう。ピッタリくる他の物を探すため距離がよけいに離れてしまうかもしれない。人はそれが嫌で、それを経験しているから、人と接するのがおっくうになってしまうのだと僕は思う。
しかしパズルと人の個性の関係の中で大きく違う点がある。それは人は変われる事である。人は他人の個性との衝突をくり返す事により変形し、かぎりなくお互いの距離を0に近くする事ができる、この点だと思う。
自分は今までにファーストコンタクトに対して恐怖に似た感情をいだかなかった事はなかった。他人を見ている限り、おっくうな方に入るとも思う。僕は人と接した時にその人がその先僕からどれくらいの距離にいる事になるのかという事が恐いのだ。つまり組み合わせようともしていないパズルのピースだ。
しかし最近になって先程書いた事に気づいた。接しようとしなければ、自分の個性、考え方、などは変化しないし、絶対に距離は近づかない。僕は少しずつでも、衝突を恐れずにむしろ、望むような心(個性)を持っていきたい。
個性とは
個性というものは、人間ひとりひとりが必ず持っているものであり、個性のない人間は存在しないと思う。これは大抵の人間も思っていることで、だからこそ、どうにか埋没しようとして個性をおさえこむ。ここでおさえこまれるのは人間が持って生まれた個性、自分の中にある個性であると思う。しかしそうやって周囲と同化していくと、今度は自分がなくなるように感じて、個性ある人間になりたがる。それで、外見を変えてみたり、珍しい物を身につけてみたりして、外から個性をとり入れようとする。
人は必ず自分の中に個性があるのだから、そんな事をする必要はないと思う。個性とは人がそこに存在するだけで存在するものであり、百人いれば百人分の個性があって、どれほどおさえこんでも埋没できるものではないと思う。
個性とは自然的に自分の中にあるもの、その人自身の要素のことであって、他人と違うとか特殊な性質ということではない。そして、個性を持つ人間達の中での「個性ある人間」とは、自分の中の個性を見つけ、認め、素直に向き合った上でそれを守り育てていく、そういう人間のことなのではないかと思う。
個性って?
個性とは、その人の捉え方と思う。人は見た目、というか外側についつい個性を追求してしまいがちになる。僕もそうだ。だから、限定品とか大好きだったんだよなぁ。でも、最近になってハッと気が付いた。所持品なんてものはお金さえあれば簡単にマネできると。やっぱり個性とは考え方なんだなと。
捉え方はお金なんかじゃ手に入るものではない。いっぱい経験を重ねて、たくさんの本を読んで、長い時間をかけて考え抜いて、やっとそれらが溶けて混ざったものが、捉え方になるのだと思う。そして、その混ざったものがある程度固まったときに自分の個性というものになるんだと思う。
この状態が一番いいなと僕は思う。あんまり、自分とはっとハッキリしちゃうと、そのある程度固まったものが、もうガチガチに固まっちゃって、混ぜることができなくなって、新しい情報をとり入れられなくなってしまうと思うから。でも、そのハンジュク状態でいるのって苦しくて大変なんですよねぇ。(分かったような口きいてスミマセン。)
個性
私はこの高専に入るまで個性というのは、人の集団の中で孤立してしまう物だと思っていました。中学の時は少し他の人とは違う意見や行動をしている人に対して無意識のうちにさげすんだ見方をしていたと思います。私自身ずっと他の人より上なものが全くなく、勉強運動などいつも中間にいたから今思えば幼いひがみにすぎないのです。こんな恥ずかしい考えを変えるきっかけとなったでき事、それは高専への入学でした。
入学当初の私は驚きの連続だったようにお思います。皆がとても個性にあふれているように見えたのです。自分のなかのゆずれないポリシーのようなものも感じ、最初はそれを笑ったのですが、新しい友達と仲がよくなるのにつれて自分には何もないと気付いたのです。何もないことに対して少し焦りも感じました。今まで生活していた狭い世界では気づこうともしなかったことに気付けたことはすごく自分に対してよいことだと思いました。
だから次はこれまで周りの目を気にしておし殺してきた個性、つまりゆずれないポリシーを見つけて、大きくふくらませたいと考えています。今やっと私は自分探しのスタートラインにつけたから、いろんな人とふれあって自信をもってこれが私の個性ですといえるようになりたいです。
個性とは
「ばか」の反対語は一般に「賢い」であるが、実は「賢い」よりも凄いものでもある。個性があることは「ばか」ということだと僕は、確信する。自由気ままに生きれる人生ほど素晴らしい人生はない。
中学の頃、僕は全く流行りものに手をつけなかった。流行りに敏感な子に
「今流行っている物のどこが楽しいの。」
と聞くと
「楽しくないけど、みんなに話合わせたい…。」
という返事が返ってきた。
つまり皆は人生を自分の好きなことをして楽しむよりも、皆と話を合わして自分を仲間として確立させておく方に一生懸命になっているのである。
僕は、自分の楽しいと思ったことをして楽しみ、興味のあることに首をつっこむ。こんな自分が個人として存在していると思えて、自分が好きである。自己中心的なところも沢山ある。でも自分が好きだ。つまり僕は「自分ばか」なのである。
なぜ親ばかや子ばかなどはいるのに「自分ばか」がいないかと思う。自分ばか、自己中でいいじゃないか。それが個性なのだから。自己中な意見同士がぶつかった時は、ゆずり合ったりしたらいいじゃないか。
自分の人生の中の主人公は、いつも自分で、自分のために生きたって、「自分ばか」になったって悪くないと思う。
個性って 【『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用】
「個性」が尊重されることのおかしさについて、養老孟司氏と内田樹氏が対談の中で興味深いやりとりをしていた。
電車の中のようなできるだけ一人ではないところで読まれることをお勧めします。
『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用
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「個性」とは「人を見る目」
養老:「個性」というものは、その人に内在するものということになっていますけど、それは間違いですよ。古くから日本の世界ではそんなことを言っていません。それは「人を見る目」なんです。
内田:「人を見る目」が個性とは……。どういうことですか?
養老:だって、自分の個性なんて主張したって意味がないのです。戦後、「個性」が主張され始めて何が起こったかというと、上役がサボり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というのは、人を見る目がなくちゃできないことだったのです。それで「お前はあっち、お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったのです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るかということのはずでしょう。
(中略)
個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういうふうに」「お前にはこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまいました。「見る目」がないと「個性」なんてないも同じです。他人のことがわからなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちをわかるようになれ」というほうがよいはずです。ぼくが今まで出会ったいちばんの個性派は精神病院にいますよ。
(中略)
内田:自己評価とか自己点検というのは外部評価との「ズレ」を発見するための装置だと思うんですよ。ほとんどの人は自己評価が外部評価よりも高い。「世間のやつらはオレの真価を知らない」と思うのは向上心を動機づけるから、自己評価と外部評価がそういうふうにずれていること自体は、ぜんぜん構わないんです。でも、その「ずれ」をどうやって補正して、二つを近づけるかという具体的な問題にリンクしなければ何の意味もない。自己評価が唯一の尺度で、外部評価には耳を傾けないというのはただのバカですよ。
(後略)
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両氏は、「個性」(≒自分の自分に対する評価)自体には何の意味もなく、生きていく上で指針とすべきなのは、周囲の人々が何を期待しているかであり、周りからの評価であると言いたいのではないだろうか。
現代においては、この「人を見る目」(≒他人に対する期待・評価)こそが一番の圧力源=活力源になる。自分の中をどれだけ探しても答えは見つからない。より能動的に周りの人からの期待や評価、あるいは社会状況を指針にしていくことが必要だと感じる。
いつだって僕らは自由だ
その糞なものの一つに(これは毎年変わるくらい変動的なものだが)親子の絆とかいうのがある。
僕は、はっきり言わせてもらうと親子の絆なんて1ミリたりともないと思ってる。
人間は自分の利益を最優先に行動する。絶対にそうだ。
だから僕は自分の子供が欲しくない。こういう絆がどうたらっていう屁理屈はさておき自分の言うとおりにならないものと生活するのは大嫌いだからだ。殺してしまいそうだし。
それならば絆なんてない。証明とかなんとかって以前に無い物は無い。その他愚問である。
でも誰かのため自分が利益を損なうことをする場合があるよね。僕はあれは自分の満足感を満たすためにやってるのだから結局自分の利益になってると思ってる。例えば怖い人に絡まれてる子供を体を張って助けた。これは本当に自分のために行動していないのだろうか。
よく愛とか絆を美化した映画とかドラマをT○Sとかでやってるけど糞食らえって思う。
グレーな関係のものを美化して描いた映像は僕は大嫌いだ。本当に嫌いだ。そんなものを作っている監督に話を聞きたい。何を伝えたいんですかって。
じゃあここまで読んでなんかこの人こんな話して何になるのって思うと思う。
でも実はこの、平凡と非凡について考えることにはとても深い意味があると思っている。
僕だったらまず平凡、非凡って言葉を聞いた時に自分を想像する。僕は紛れもなく平凡でなんの価値も無いクズだ。概念的にこういうのは無いらしいんだけど僕をお金に換算したらざっと5万円くらいなんじゃないかなって思う。
そしたらなんか悲しくなって、どうにかして自分の値段をあげたいと思う。
人間をお金に例えるなんて難しい話だけど例えてみて悲しくなるとなんか楽しい。自分のいけないところがみつかるとほっとする。何故なら周りからの干渉、というか影響が皆無であれば自分とは完璧であるからだ。完璧であることはすごい怖い。そしてものすごく体力を使う。そして精神的にもものすごく疲れる。そういった人とつきあうとものすごくこっちまで疲れてくる。多分、それはこちらが完璧じゃ無いと自負しているからだ。だから相手の水準に合わせようと必死になってしまう。
でも、ものすごく、ものすごく楽しい。自分を完璧だと思ってる人と話すのはとてもわくわくする。心臓がすごいなってて、涙が出てくる。それからすごく美味しいものを飲みたくなって、Mr.ChildrenのI'll beっていう曲が聴きたくなる。
だから自分で完璧だと思ってる人間に僕はなりたいと常に思っているし、もう既になっている。
そんな思想を制限することは誰にもできないし…と普通は続くところだろうが僕は先述した通り仰々しいことが大嫌いだ。しかもそんな思想を制限することは誰にもできないとか思っていない。会社で自分の部下が自身のことを完璧だと思って間違えてたらお前アホだろって言われると思うし。その他色々あるでしょ。
それよりここでいう完璧っていうものには誰もがなりたいと思っているわけではない。ということが大事になってくる。完璧でありたいと気づくのはものすごく大変だ。先述した通り完璧でいるとなにかと消費する。完璧で存在する意義を見出さないとなかなかめんどくさい仕事である。だから自分を完璧だと思っていない人にとっては完璧という概念そのものが無いというわけである。
これは自分がMacを使い始めたら周りにMacユーザーが増え出したとか、beatsのヘッドホンを買って電車でつけた途端周りの人がbeatsを使い始めた。とかいう現象とよく似ている。これは自分が意識したものだけを選んで見ているということを表してる。
だからこそ自分の空間が欲しい欲しいっていってそんなものを見つけようとすると皆がみてるような気がして…ってことになっても実は他人にはその概念すら認識していないのである。
いつだって僕らは自由だ。素晴らしい人権と憲法と、まあほかもわからないけどとにかく先人たちが作ってきた権利を持っている。
そんなことを考えながら一人でコンビニ弁当を食べてみるのも面白い。