シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

不思議な処

この広い世界には可愛い人がいる。

可愛い人を見ると一瞬なんというかやるせない気分になりがちだけれど後々考えるとこう思う。
可愛い人を見てもその人に対して自分がどうか、なにかするか、ということを思うことはあまりない。つまり美しい馬を見た時と同じように。
 
例えばどうだろう。僕は今所謂受験勉強に励んでいる最中だとする。すると、彼女らも同じようにペンを動かすわけで、模試では僕よりも良い点を取るかも知れない。すると、だ。僕はやるせない気になる。何故か。その子は可愛いからだ。そんな人に容姿でも努力でも負けるというのはそれこそ、本当にお話にならない事態である。
であるから、僕はこのくだらない受験勉強を続けなくてはならないと迫られるのである。



高校生が自由に使える時間をあまり持っていないのかどうかというのは、進学校に通っている受験生と、定時制に通う、高校1年生とでは話が180度変わってくるけれど、実際僕自身は自由な時間が云々は難しいけれど、所謂、時間がないという状態にはない。というかそもそも時間がないなんてことはあり得ない。多くの人にとって。そりゃあ世界には何人か、すごく努力ができる人がいて、彼らは本当に実際、時間が、無いのかもしれないが。

そもそもですよ、そんなことがこういうグループはこうでそこはそこ。なんて言う風に定義は出来ないのだから、不毛な思考を繰り広げることはやめたとして、
そもそも時間が無いなんて言うことって恥ずかしく無いですか?

時間がある人が居るのに、自分はありません。なんて悔しくてとてもじゃあ無いけれど言う意味がない。言うメリットが無いんです。こういった類の言葉って僕はこの頃よく気にしているのだけれど、結構ある。
そして、それを口にしている人ってそれなりな人しかい無い。事実だ。

「僕は自信が無いんです」
「僕は自由な時間が無い」
「僕は君より勉強が出来無い」
「僕は君より容姿が優れ無い」

言う必要が無いし、言うべきでは無いと思う言葉が、こんなにも溢れている。
これを使ってしまうから気づか無いうちに、舐められる。そして自分を舐める。これは非常によく無い。と、僕は思うのだ。

阿保な奴の特徴としてよく言われることで、綺麗事を本当に綺麗事だと見下している。というのは非常に的を得ている。
綺麗事だと言われていることは、其れなりに的を得ていることが多い。

今日電車の中で、「〜66の知識」なんて本の広告があった。なぜ、66なのか。僕であればもしも本の題名をこれになぞらえてつけるのであれば、50か100にするかも知れ無い。