石橋を叩き壊して泳いで渡る

自分のこのブログに対する戦略的な気付きをこのブログに書き綴るというのはなんだか可笑しい話だけれどやってる人が少ないからやってやる。

今日は北海道の弟子屈という町に来ている。ここのユースホステルに泊まったのだが、そこで出会った人が面白いことを言っていた。彼女は本を書いていて、僕自身、本を書いている人に話を伺うのは初めてでいい時間を過ごせた。有意義な。最後に僕がこう質問した。本を出版するにあたって何を意識しているのですか。と。
自分がアブノーマルな答えを期待していなかったといえば嘘になるが、彼女が言ったことは至極簡単なこと、本書きではない僕も意識したことのあることだった。
それは、誰に向けて文字を綴るか。ということだった。本は人に読まれなければ本の意義がそこそこ失われる。ゆえに人に読んでもらうことが重要なわけで、ターゲーットを設定して、それらのための文章(逆にすべての人対象でもね)を書くということ。


僕は本を将来出版したいと考えているから考えてみるべきことがいっぱいあるはずだった。例えばこのブログは僕が言いたいことを述べて、僕の日常を書いていた訳だが、それは誰に対して書いていたのだろうか。

いきなりターゲーット云々を決めるのは難しいとして、ヒトは何故、本を読むのかということを考える。参考書の場合は受験生たちは何か解法が知りたくて買うかもしれない。重病を患っている親を持つサラリーマンは医学書を親のこれからへの対処法を探しに買うかもしれない。今日何もするやる気がなく、明日は今日のように無駄に過ごしたくないと考えている中学生は自己啓発書を参考したりするかもしれない。
これらは知識を自分が得て、それらを活かしたいと。そう感じた例だがヒトが本を読む意義とはこの場合だけではない。

例えば小説本を読む人はその主人公の動作の真似がしたいがために買うわけではないし写真集も、自分の技術向上のための参考という人もいるかも知れないけれど芸能人の写真集なんかは自分がそれを見て何かに活かすという要素は薄い気がする。また、誰かのエッセーだってそれを読んで自分のエッセーにパクるなんてやってるのは一部の人間だろうし(私の十八番です)))。

それならば本を読む訳とはなんなのだ!となるが、その前に前置きを。
僕がここまで書いてきて悩んだこととは本の中身のジャンルに分けてそれらを読むわけを書くべきかということ。が、そうしてこれを考えるとUndoneな感じがするのでここは本という括りで考えます。

僕が辞書を作ることになり、という頁を作ることになったらこう書きます。勿論辞書として作る際には本のジャンルごとに詳しく書くべきでしょうからその欄の下には沢山「◯◯のジャンルは違うページをみてください」って書かれるでしょうが。

  • 本•••人が人の為に形としてなにかを残したい時に絵や文字を綴った紙を重ねて綴じたもの。

総じて僕らは日記であれ自分の哲学であれ形として将来(そう遠くない明日を含め)に残したい時に文字を綴るのです。形としてというところが重要で、更には人の為に書くというところが最重要。

考えというのは形のないものですから、それを文字に起こして実在物としてこの世に残す。それが本の一つの意義だと思う。

今日の話の何故人は本を読むのかという事に繋げるとすると、本は「人の為に書かれるということ」を忘れてはならないと思うのです。

つまりは本とは自分のために書かれたもの。だから僕らは読むのです。

いきなり詩的にフェイクをかけてきて驚いた方もいるでしょうが。

自分のために書かれた本を読む。至ってこれは普通のことであり、それこそがヒトが本を読む意味であり目的につながるのだ。

それならば僕らが設定すべきターゲットとは差別を受けている人々、差別をしている人々、いじめをしている人、いじめを受けている人、男性、女性、その他、隣人、世界の裏側に住んでいる人、親、息子、孫、そして忘れてはならないのは自分であるはずだ。

これは本について広義的に言ったことで僕らが何かについて本を書くときにそのま応用できる考えではないと思うが、これを忘れているしけた本は本屋で見ても山済みのままだ。