世界は誰にでも門を開いて待っている平等の名のもとに請求書と一緒に

普段と違う環境、主に場所に身を置いてみるとそこに、たどり着いた時よりもその環境からもと居た所に戻った際に新しい発見がある。というのは、あながちそうなんだよというお話。いわゆるカルチャーショックは他の国に行った時よりもその国から帰って来た時にショックがある。だとかそういうことである。

安っぽい僕の体験談を少し語るとすれば、僕がアメリカに行く前、電車の中であれ道を歩いている時も誰かが見てきているような感触を持っていた。思春期の彼には良くあることなのかもしれないが、まあなんともはたからみても自分からして見てもやるせない思い込みなのだが。

ところがアメリカに行ってバスや電車に乗ったり公園で本を読んでいたりしても誰も見ていない!みたいに思うことがあった。そう思ったのならそれでいいやんという話だと思うでしょう。でもこれ、すごく面白いことなんですよ。

実際、日本に帰って来た時の話をするけど僕はアメリカにいた時と同様振舞っていたら誰にも見られているなんて思わなかったしそれだけの話だったんだと思う。なにかというと最初から誰も見ていなかったということ。

でもなんでアメリカ、という何時もと違った環境に身を置いた時、僕は違ったことを感じたんだろう。ふとおもったのは(恐らくみなさんも)自身に自信が付いたから。だということ。

でもなにかな、それはなにか決定的じゃない。そもそも僕は白人に囲まれて自分の短足ぶりに自信が無くなった。。

僕が考えたのは、自分を蔑んで見ていたから。だ。
蔑む。優しい言葉にすると、小さくとかちっぽけにって感じだろう。

僕は今言ったように白人に対し、容姿面や、英語コンプもあったし、アメリカ人の国民性というかそういった堂々とした態度にもコンプがあった。それらを意識し自分と重ね合わせた時に、プライドを捨てる、じゃないけど、つまりは
雑誌の綺麗な女性を田舎のニキビ学生が眺めてあーあって思うような諦めではなく、ハートで(heart)で解る自覚、みたいな感じだ。


そうやって自分ってちっぽけだと認めてしまえば(自我が)(つまりは心の底から)(心の底からじゃないとなんか逆影響のような気も、)自分が誰かに見られているなんていらない気を立てないで済む。あぁ僕は今そんな気を立てていないなあと気付いた時とても清々しい。

因みにそんな時には冷たい風を思いっきり肺の奥まで吸い込むのが似合う。

ただ、僕はちっぽけであろうが無力だとは決して考えていない。何かを、本当に何かでよければ全ての存在するものは0を1に変えているし逆に1を0に変えている。特別、人間は100を1にしうる力と1を1000にする力を備えていると感じる。