シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

I reported in my body だったこと

何事も半端に取り組むと、なんとなく無力感というか空虚感というかなにも自身の周りに残っていないような気持ちになる訳ですが、この頃そういう状況を考えています。I report in my body (megwinが英語全然喋れない時にwithではなくinを使ってた)なわけです。


余暇という言葉の意味、言葉の意味なんて使い手の伝えたいことが伝わればいいのだから。と言って自分の考える意味をつけるのはご自由ですがこれは辞書で引くと充実した日々の中の暇な時間。と解釈できるんです。つい先日ようやく「船を編む」を見まして色濃く辞書編集辞書編集と影響を受けてるわけですが。

何故にいきなり余暇という話が出てきたのかというとこの空虚感の漂う中途半端な人間の余暇は前述した意味の余暇ではないことが多い気がするからです。
充実した日々の中でというところからなにか当てはまっていないなとは勘づくわけですけれども更にそんな日々の中の、切り離された自由な時間なんて言われたらそんな余暇を楽しんでいる中途半端な人間はいない気がしてきます。

中途半端に何かを、家での生活であったり人との関わりであったり電車の待ち方だったり、勉強だってそうですがそういったことに中途半端な人、それってその中でもタイプが二極化していて一般よりも何かに悩んでいる人と全く考えてない、ぼーっとしている人とがいると感じるのです。

僕はこれまでよく悩んでる人と話をしてきたけれど、総じて彼らは(僕と同じ様にw)何を言ってるのかわからない。もっと言うと、話が具体的でない。とても抽象的なこと、更には社会でもう通念となっているようなことしか言ったりしない。
言ってる本人はなんとなく満たされても聴いてる方は、そんなこと知ってるぞと、言うわけです。


そんな人たちはおそらく現実逃避、誰かに成りきる、みたいなことをしている気もする。肩書きであったり容姿であったり妄想してそれに振り回されている。

一旦自分を見つめ直して(在り来たりな言葉かもしれないが)自分を知る(?)ことをしてみると、あら不思議とても気持ちがいい。