奇蹟の輝き
実はベジタリアンだった時期があります。
高校生の時、健康志向的な意味合いで始まったその試みは肉の誘惑に負けて直ぐに終わってしまったのですが、生き物を食べる生活を少しの間また休みたいと思っています。
考えてみると、僕らが肉や魚などの命を食べるということはとても気を遣う作業だ。
現代日本社会に於いて、生産段階の生物たちのことは把握しにくくなっており、もちろん自ら動物を殺めて食ってるわけじゃ無いからより生き物を、命をいただいているという意識は薄い。この国では幼い頃に子供達の読む本の中では魚のすり身が海を泳いでいて、牛や豚が試着室に入ると骨つき肉が出てくる。
実は牛は電気ショックで意識を薄れさせ、ドラム缶のような機械の中に落とされぱかっとハメられる。身動きができなくなったところで首元にカッターが入り、足を釣られ逆さにライン方式に解体ゾーンに進む間に出血多量で死ぬ。
ところで、牛の殺し方やフォアグラの為のガチョウなどの動物の殺傷や扱い云々であるとか、肉食を否定している訳ではない。確かに人間の商業的屠殺の風景は悪印象であろうが動物として間違ったことを人間がしている訳では無いだろう。
僕には最近命について考えることが多かった。身近な人の死や余命宣告をされた友達、挙げ句の果てには自殺願望のある友人や反出生主義を唱える人まで。
”君”がここに存在していること。これはとても、素晴らしいことだ。
宇宙には星が沢山あって45億年前に塵の持つ引力で互いが引き合い石となり惑星を作った。地球には最初生物は居なかった。何故ならばあまりにもそこは暑すぎたのだ。その後惑星の衝突によって水が地球上に運ばれた。幾度の誕生と幾度の絶滅を繰り返し生命は植物から動物になり水中から陸上へ出てきた。酸素を、吸うために。
150万年前、人類の歴史が始まりそこから50000回もの死と生を繰り返し、”君”が生まれた。50000人の先祖の元に。ヒトで50000人。同一の先祖から発展してきた訳なので数え切れないほどの生と死を孕んだ結果が、”君”なんだろう。
単純に回数が重なってきた訳では無い。それはそれは物凄い確率の中、無数の命の基の偶然と偶然が重なってきたのだろう。
生きているって、何だ?人間においては現行国内法律では脳死。だがしかし、生命全体においては脳の活動を感知できない生物の方が多いはずだろう。心臓が停止したら?でも心臓がない動物もいる… ミミズ。
体を構成している細胞が死んだら?しかしこういう例がある。
人が死んでも細胞は生きて居たり。
以上のことは全て僕が生物学的な生死の境界を知りたい訳では別にない。
生きていることの不確実さ、そして生命があるということを純粋な物質の有無を指すものではなく、それそのものの過程や史を指すものだとすれば僕らはそのものに価値を内在的に持っているはずだろうということである。生命がある限り。そこに於いては。
戻り、生命を殺傷するということは動物的に自然ではあると思うけれど前述した考えのもと元々価値あるものから価値を喪失させることは気を遣う作業だ、という訳。今のぼくは。
価値とは無限である。蜘蛛や蟻や醜い昆虫と同じ様に醜い人間が居て、ウィリー・ネルソンの曲のように青くて眩しい空があって、誕生日に乾杯したジャック・ダニエルの味のようにきつく、泣いても泣いても無理な葛藤事があり、季節が変わり素敵な花が咲き、いい匂いがする。
大嫌いなタバコの煙に助けられることがあり、躁鬱を抱えたどう仕様もなくての差し伸べかたがわからない人がいて、電車に乗ると人と人は軋轢まくり、ホームに降りるとどやっとした匂いになり抑圧された都市があり、何度ガッツポーズをして跳ねても喜びが溢れ出てくるような幸せなことがあり、素敵な女性が居て、恋をする。愛が解らず悩み、全ての自分のだらし無さに嫌になり、金木犀の匂いがすると僕は、昔、好きだった子をなぜか思い出します。
多分心のもちようの話
2015年2月高校1年の時に下書きになっていた文章を上げておきます。よく意味わからないけど。
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僕らがするべき決断とは、これから2年後にタイムワープできるとした時、その2年間を僕は感覚的には一瞬で過ごすためなにもなにも感じないのだろう。
周囲からの影響が我に及ぼすものとは?
これ、タイミング的に僕の受験結果が芳しくなかった腹いせの記事みたいに見えるかもしれませんが、ちょっとこの考え方が僕の中にあるので書いておきます。
将来見てみて、この考え方が変わっていれば、それは面白いなと思います。そうであればそれはそれでいいなと思います。
僕は結構昔から環境決定論者でした。このブログでも何回か書いてきた様に。
環境決定論って、人生の失敗や成功というものは環境に支配されるという考え方のこと。(環境っていうのは不可抗力的であって物理的にどげんもこげんもならない様なことで)
この話があったのですが今日の話は「この三年間、僕、すごく周りに影響されたと思うんです。」ってやつ。
周りの人に、です。
僕は高校受験に失敗して偏差値でこそそれほど変わらないものの、所謂自称進学校なるレベルの一段低い学校に進学しました。そこは明らかに僕が目指していた学校とは生徒層が違っていたし(それは入学試験問題を見ても)僕は入った瞬間からバカにしていたのです。
実際入学してからしばらくは学年(450人弱)で本当にトップ、1、2位であったわけです。しかしそれは高校入学前の知識を食いつぶしてる様なもので、そのあとは(これマジで)下から1、2位とかっていう成績をとる様になっていきました。三者面談では先生に(これまたクソ先公なのですが)「大学は行くの?」とか真面目に言われてました。
言い訳ではないですけどそれはもちろん家庭学習を一年間で(つまり高校1年の春から2年の夏あたりまで)1時間程度しかやっていなかったので【一年間で1時間です】当然の成績だから焦ってませんでしたが。(その頃このブログとかでも悠長に哲学対話とか言って偉そうに語ってたと思います。)
それ、何でそこまで落ちに落ちたかっていうと俺が思うに周りの生徒の影響があったからなのです。確かにこれ、「人のせいにしてまたこれ典型的な残念っ子のパターンか」となるでしょうが、私が冷静に客観的に考え、かなり、その影響があると思ってわざわざ書いているわけです。
周りの人間が要するに典型的な「理想は高いけどバカ」だったのです。それはきっと高校受験で成功もしくは準成功してきた人が多かったからだと思うけど。(彼らの半数にとってこの高校は第一志望であった)
つまり「僕は私は東大に行きたい」つって当時の僕が驚く様なクソみたいな成績をとってるわけです。あとは授業中、クソみたいな発言するわけ。最初は、「お前らじゃ無理無理」と僕も思ってるわけですが、そういう人たちが多すぎ、そしてそれがずっと続くものだから「この成績でも東大目指せるんだ」的な謎の自信が出てくるわけ。それは全くもって勘違いなんだけど。(ここにもツッコミたい人いるだろうけど今日はそこスルーで)学校がそんななら塾で情報もらえばいいじゃんって言っても予備校は(僕はK合ね)あんまり他の生徒と交流ないんですよね。
そういった環境の中にいるとどうしても染められていく。少なからずそれはあった。断言。自分の物事を図る際のレベルの基準がどんどん下がっていくのです。「ああ、この程度で難関国立受かるんだ」とか「このくらいでApple入社できるんだ」とか「このくらいで頭いいんだ」とか。そもそも間違ってる彼らからその情報を得るわけだから間違ってくんですよね。それが僕の判断基準として形成されて行って気づいた時には時すでに遅し。
これ、残念な人に思われる方も居るかもしれませんが、そして私は実は必ずしも残念であったとは思っていませんが、この三年間で学校の友人から得た、良い影響というのは皆無です。それくらいに思っています。
心配性の中学生君の大好きな検索ワードモリモリなのでたどり着くかもしれませんが、そんな君にもそして僕自身にも向けて、学校外とのパイプは持っておくべきだということは大事だと思います。つまり、より広い視野を判断材料を持っておくことは大事だと思います。小並感とか言わないでね。
真!善!美!
真善美という言葉があるらしい。カント哲学の関係の言葉だね
人間が物事を認識する際、そこでは「真」と「善」と「美」の少なくとも3つの判断を同時に持つということです。
例えば僕が綺麗な花をみるとする、するとそこではこれは「正しい」(造花でない)、「道徳的に正しい」(葉っぱを他の花にかぶって枯らしていない笑)「美的に快い」(綺麗だ!!)って思うらしいのです。
例えが悪かった気が幾分しますが、僕が思うに世の中にはこの3つの価値観をもはや兼ね備えて物事を判断していない人っているんですよね。
例えば高学歴のくせに、なんなんだ?!って思ってしまうような政治家とか。
彼らは「真」「真」「真」な訳です。
もちろん3つ以上判断要素ってあるでしょうがここで「善」が抜けてしまうと、よくないわけですね。
きっと彼らは(そして僕も現在進行形ですが実感として)、受験勉強を乗り越えて生きてきたわけです。
思うに、大学の一般受験等では「 」カッコの中をちょっと横に置いておいて勉強をしなきゃいけなかったりします。例えば、”私のやってるこれって本当に意味があるのだろうか”なんて思ってしまっては(予備校講師的に言えば)危険な訳であってその暇なく勉強をせんといかんわけです。受験勉強自体がそういった「 」カッコの中を空欄にして自分を目標に向かって最適化しなくてはいけないのですから偏差値エリートがそういったことを将来孕むのは不思議ではないのです。
話は変わって、この視点はなかなか面白いものがあります。
僕は結構「〇〇」っていうしっかりした理想があります。この時はこうありたい(あるべきだ!)、みたいな。正しいイメージっていうかな。そう存在するべきだ見たいな。
例えば、女子高生は黒髪で、電車を待ってる時は単語帳を読みながらイヤホンでミーハー好みなロックでも聞いている”べき”だ!!みたいなね。
例えば、ロックスターっていうのは売れない時代からライブハウスで照明とかPAとかとコネ作って頑張った末にやっと自主企画ができて、地元から成り上がってく…”べき”だ、みたいなね。
そういったものは、僕にとって「真(真実か偽かで真)」であって、「善(道徳的に正)」であって、「美(快い)」わけです。
ところで僕はこの頃自身の行動を(これまた全く違った尺度ですが)生産的か否かと自問自答することが増えました。
Facebookで友達の近況にコメントすることが生産的だろうか、Instagramでいいね!押すことが生産的だろうか、Twitterで自分の哲学を述べることが生産的であろうかどうか、とかね。
考えて見ると非生産的なんだけれども、やっている張本人はあたかも自分のやっていることが生産的なことだと思ってやってるわけだ。
僕のTwitterのアカウントなんて5万ツイートくらい過去のツイートがあるわけです。
でそんなのアーカイブ見たりしない。つまりその中に、5万ツイートの中にいわば二度と拾わない言葉を一生懸命考えてツイートするわけです。
言った挙句、僕はノートパソコンを閉じてデスクの明かりをつけます。政治経済のテキストを開くわけです。
ところで好きな子ができた話。
ところで好きな子ができた。
出来たと言っても6月くらいから興味があったんだけれど。同じクラスでとっても可愛い子だ。頭がいいし、話が通じる。もっとも上がっちゃって僕の方が話についていけてない感じがあるけど。夏あたりに友達と行った花火大会の帰りに酔った勢いで君と見れたら素敵だった云々の話ししてから完全に悟られた気がした笑。
伊藤整の小説に、都会に出てきた時に女の子に会う、その子に見出すのは、昔の地元のあの子と同じだ!っていうところなんだよ。みたいに書いてあったけど、
僕の中でそういった基本の女性像、ってあまりなかったんじゃないかなとさえ思う。正しい、女みたいなイメージが。そんなところから言って、彼女はとても正しくって僕のイメージにパチってはまった、訳。これを理想のタイプって言うんだなとか思った。将来自分がこれみて、タイプ変わってたら面白いから書いておこう笑
彼女は髪がとっても綺麗だ。クラスで一番綺麗な黒色で品がある髪型をしてる。風に吹かれて髪がふわりとする時の仕草なんかが物凄く僕を緊張させる。彼女の髪は深い黒でその場の空気を緊張させる。僕はいつも緊張している。
そして手が物凄く綺麗だ。彫刻みたいに細くって白魚のような手をしてる。透き通っていて、彼女の透明感ある雰囲気とこれ以上にないってくらい調和してる。器用そうで折り紙だとか文字を書くのだって上手いんだろうと思う。授業中に頬杖ついてノートを見ている格好なんかはなんて言うんだろう、素敵だった。なにか彼女にとってとっても大事なことを考えていて、、何を考えているんだろう。妖艶を漂わせてそこにいる。
表情が素敵だ。話しかけるといつも笑顔だ!なんで!?と思う、僕はそんな顔ができない。声も素敵だ。休み時間になると動物園の如く他の女子たちは品のない声で騒ぎ立てるが彼女の声はその中で坐禅の時に鳴らす木柾のようにすうっーと僕の耳の中にはいってくる気がする。
話のセンスもいい。綺麗な話ばかりする。彼女の生きてる世界って僕の生きてる世界と違うんじゃないかと思うくらい綺麗な話だ。話す度になんて素敵な話をするんだろうと思う。話し方もとっても可愛くて驚く、こんなに可愛い子がこの世にいるんだと。
趣味も僕とよく合う。洋画が好きだ。春樹を読んでる(実は知り合ったきっかけである訳だが)。
彼女と話していると幸せな気分だ。楽しくってしょうがない。ベタ惚れである…。
壮大な自然を前に、生まれてきてよかったなんて改めて思うことがたまにあるが、僕は彼女を前にそんなことを思うことがある。
この頃変化したと思うこと。
この頃変わったなぁと思うことがあります。それは、深く物事を捉えて考えることができるようになったということ、ではありません。それは2.3年前から大して変わってないみたい。
では何かというと、それはその考えたことであったり意見を、わかりやすい言葉で表現できるようになった(する気になった)ってことです。以前、このブログではまさにそうでありましたが、なにを言ってるのかわからない、みたいなところがあった訳です。非常に鋭くものについて分析したつもりなのに、それを対外的に表現するという段階に力を入れませんでした。なぜ、そう変わったのか考えてみると、一言ではきっと、社会人に近づいたって事なのかな。大人と話す機会が増えたし、自分の発言に責任を持つように(持ちたく)なってきました。それから僕は大学で政治経済を学びたいと思ってます、そしてnewspicksとかもよく見るようになったのですがその分野の人って意見をどれだけわかりやすく説明できるか、みたいなのが結構重要な気がしてました。それもあるかも。
僕は常々、相手の言ってることに失望せず、つまりファーストインパクトでバカだと決めつけずに、1時間話を聞いてから判断しようと、そして、僕のこともそうしてくれと、言っていた訳ですが現実そのようなことをする人って少ないし、やってる場合じゃないことが"多い"んですよね、だから、自分は素晴らしい考えを持っている!なんて錯覚するんじゃなくって、それを表現してなんぼやろってことです。
何故か今日の昼ごはん。
内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を読んで
内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を初めて読んだのは高校での現国の授業の時間だった。そのあと家で内田氏のブログを拝見してふむふむといったところだった。
しかしこれを読んでからというもの、僕は無意識のうちにネット上の謎出典の文献や知恵袋とかから私見を形成するのを避けていた気がする。
例えば僕はスマートフォンを捨ててビジネスマン向けとされているBlackberryに乗り換えた。そして文藝春秋、世界、Will、読売、産経・・・多くの紙媒体の情報誌を好んで購読するようになった。現代を生きる我々の日常に於いて自分に入ってくる情報を選ぶということは実践しずらいことだけれどもこうやって一種、デジタルデトックスにちかい状態に身を置いてみるとはっきりと情報に対しての己の姿勢が変わる。
と、ここまで僕の文章を読んでされに彼のブログを読んだ人なら気づいたかと思うが、僕は彼の書いた文章の内容に感化されたのではなく、タイトルに一発KOされたのである。
つまり、ネット上の発言というものについて劣化しているのではないかと僕は気づいたのである。劣化している。といっても何を基準に劣化しているのだと決めつけるのだという話になるだろうが、彼が例に挙げているよう、正論やそうでないといった正誤的な問題でなく、紙媒体の歴史のある冊子にくらべ質的に劣化をしているということである。
僕が顕著に思うところに、日本語の使い方がある。
僕自身は、文章を書く際にも好きな言い回しでそれはもう言葉がおかしいだのなんだのということを関係なしに文字を書いているが、それはやはり自己の日記程度の内容物だからこそのものであって、大衆が読むことになるであろう文章に、ネットスラングを多用したり、語法が間違っていたり、わざと間違えていたりするのはいかがなものかと思い、さらにそれは綺麗な文語表記のなされている紙媒体の冊子に比べ、質的に劣っているといえると考える。だからどうということではなく、指摘をしているだけである。
話は少し変わるが、情報化社会ということで僕たちの目にする情報の量は、結構多いものになっているらしい。
僕が印象的だった話は、中学校の時の社会の先生が「君たちが今日一日で知る情報量ははるか昔の人間が死ぬまでに知る情報量に相当するんじゃないか」という言葉であるが、まさにそのくらい多量な情報に触れているということだろう。
すると、何が起きるか。僕自身が感じているところに、一つ一つの情報を記憶し理解しておくことができていないんじゃないかということがある。テレビのつまらないコマーシャルのように右から左へ流していくような形で情報に触れているんじゃないかということだ。よく言われることだが、情報に対して受動的になってしまっている。姿勢として。それは、どう考えてもよくない。なぜなら受動的ということはその情報を発信している誰か第三者が存在しているわけであり、それらによる意図の上で知りえる情報に他ならないからだ。ニュースサイトの広告やリンクを見てみてもそういった傾向が強いと感じる。
僕が思うに、知的欲求による行動はいかなる場合も受動的姿勢ではいけないだろう。
寝たいだとか食べたいだとか遊びたいだとか欲求はあるがそれらは昔(昔は知らないので想像するに)から変わらず積極的に消化してきたものであると思うが、知的欲求にたいしては昔(想像するに)は積極的にアプローチをしていたものであろうが、近年は受動的になっている面がある。
近年と古代の差は、なんだろう。
それは思うに、やはり情報を提供する媒体があったかなかったかということがかなり大きいだろう。
例えば縄文時代、竪穴住居式の住まいの先に毎朝、朝刊が配達されるとする。
するとその新聞を住人は読んでいくが、朝から読んで昼頃になって読み終えてしまって違うことをし始めるでしょう。
それは情報を紹介する量が少ないからに所以することであって、やはり情報量が増えれば今と同じ状態になるだろう。
と、まあイメージであったが、そんなことも思う。
そういったことを思いつつ僕はデジタルデトックスに近いことを目指しつつ、今日もまたこうやって日本の侍の心を忘れないでコカ・コーラを飲みながら。
小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん
Thursday, November 12th
イギリスに来て2日が経ちました。いいWi-Fiスポットに行けていないので、ネットに投稿するのは遅くなるかもしれません。今は3日目の朝7時前です。
外国に来ると必ず何か学ぶことがあります。外国に来たから学ぶことが必ずあるというよりは正確には、普段自分がいる世界(社会)の外に自分の身を置くと感ずるものが必ずあると言った方がいいかもしれません。
普段私は旅行に行った際ツアーに参加して観光をするということはほぼほぼ無いのですが、今回は集団での旅行なので止む無く昨日、ツアーに参加してきました。
ロンドン市内をぐるっと周ったのですが、私は国会議事堂が見えたあたりから泣きそうになりました。なんだか壮大すぎて。その日は11月11日でしたから終戦記念日の様な日でした。そのため11時には市内全域で黙祷が行われていました。道行く人も、バスも11時になると止まって、一時ロンドンが完全停止した様な印象を受けました。いわゆる、戦死した先祖に黙祷を捧げていたわけですが、その中私は赤面するのを避けられませんでした。こんなにも先祖に感謝する時を作れるのだなと。女王を尊敬し、愛国心がとてもある。これははっきりと言いますと日本とまるで逆です。真逆です。冷静に考えると我が国のために亡くなった人間に敬意を払うのは当たり前とでも言えると思いますけれども日本はアジア諸国( )の言ってることを鵜呑みにしすぎでしょう。
少し、愛国心がとてもあるなんて中学生が外国について総合研究した時に書いた作文みたいな綺麗事に聞こえることを言いましたが、虚言でなく本当にそうなのです。
それから日本人は、外国に行くと、日本には美味しい食べ物があるだの綺麗な建物があるだの散々ほざくのが恒例となっていますが、世界の中心であった(ある)ロンドンに来るとなんだかそういった日本人の戯言は粘っこくって赤面します。なんだか自分たちはなにもしていないのに自分の属する国の持つアドバンテージをアピールするというのは何処となく嫌な気持ちになるものです。気がひける。
ロンドンの街並みはとても綺麗です。
日本ではロンドンの様な街並みが理想体といった様な風潮がかなりありますから私たちにとって綺麗と感じるのは当たり前ですが。
街並みを見る時にそこにいる人は同時に目に入ってきます。白人の金髪はとてもとても綺麗だし、鼻は高くて凛々しい。顔に凹凸があって彫刻の様。ヘッドホンをしてる黒人には、ピアスをしている黒人には、誰もかないません。これは別に自分にコンプレックスあるわけでは無いのですが、やはり憧れます。かなり強く。
これ、私が昨年サンフランシスコに留学した際にも思っていて、記していた記憶がありますから、なかなかすぐ無くなる感情では無い様です。そもそもこの憧れは無くなった方が良いのかどうかとかね、考えるんですけれども。
こういうことも、外国に来たからこそ思うことであって、やはり人間にはホーム、アウェイっていうのがあって、日本でも都会に行くと、人種の違う外人は見かけます。しかし不思議なことにそこまで彼らに憧れて遣る瀬無い気持ちになるってことはあまり無いのです。ホームでは良くも悪くも自分たちのホームですから優位性を感じるのかもしれません。だから憧れないのかもしれません。
今のところ一言でロンドンについて思うことは、映画の中にいるみたい!ってことです。Hyde park沿いの道路を通っている際に木と木の間に見える石造りの塔の先からチラチラ見える朝日、コーヒーを持ちながら金髪をなびかせて颯爽と赤信号を渡る人、時折街中を走っているトヨタのプリウス、ダウンタウンのとても良い土地にある野村のビル、小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん。
不思議な処
この広い世界には可愛い人がいる。