真!善!美!
真善美という言葉があるらしい。カント哲学の関係の言葉だね
人間が物事を認識する際、そこでは「真」と「善」と「美」の少なくとも3つの判断を同時に持つということです。
例えば僕が綺麗な花をみるとする、するとそこではこれは「正しい」(造花でない)、「道徳的に正しい」(葉っぱを他の花にかぶって枯らしていない笑)「美的に快い」(綺麗だ!!)って思うらしいのです。
例えが悪かった気が幾分しますが、僕が思うに世の中にはこの3つの価値観をもはや兼ね備えて物事を判断していない人っているんですよね。
例えば高学歴のくせに、なんなんだ?!って思ってしまうような政治家とか。
彼らは「真」「真」「真」な訳です。
もちろん3つ以上判断要素ってあるでしょうがここで「善」が抜けてしまうと、よくないわけですね。
きっと彼らは(そして僕も現在進行形ですが実感として)、受験勉強を乗り越えて生きてきたわけです。
思うに、大学の一般受験等では「 」カッコの中をちょっと横に置いておいて勉強をしなきゃいけなかったりします。例えば、”私のやってるこれって本当に意味があるのだろうか”なんて思ってしまっては(予備校講師的に言えば)危険な訳であってその暇なく勉強をせんといかんわけです。受験勉強自体がそういった「 」カッコの中を空欄にして自分を目標に向かって最適化しなくてはいけないのですから偏差値エリートがそういったことを将来孕むのは不思議ではないのです。
話は変わって、この視点はなかなか面白いものがあります。
僕は結構「〇〇」っていうしっかりした理想があります。この時はこうありたい(あるべきだ!)、みたいな。正しいイメージっていうかな。そう存在するべきだ見たいな。
例えば、女子高生は黒髪で、電車を待ってる時は単語帳を読みながらイヤホンでミーハー好みなロックでも聞いている”べき”だ!!みたいなね。
例えば、ロックスターっていうのは売れない時代からライブハウスで照明とかPAとかとコネ作って頑張った末にやっと自主企画ができて、地元から成り上がってく…”べき”だ、みたいなね。
そういったものは、僕にとって「真(真実か偽かで真)」であって、「善(道徳的に正)」であって、「美(快い)」わけです。
ところで僕はこの頃自身の行動を(これまた全く違った尺度ですが)生産的か否かと自問自答することが増えました。
Facebookで友達の近況にコメントすることが生産的だろうか、Instagramでいいね!押すことが生産的だろうか、Twitterで自分の哲学を述べることが生産的であろうかどうか、とかね。
考えて見ると非生産的なんだけれども、やっている張本人はあたかも自分のやっていることが生産的なことだと思ってやってるわけだ。
僕のTwitterのアカウントなんて5万ツイートくらい過去のツイートがあるわけです。
でそんなのアーカイブ見たりしない。つまりその中に、5万ツイートの中にいわば二度と拾わない言葉を一生懸命考えてツイートするわけです。
言った挙句、僕はノートパソコンを閉じてデスクの明かりをつけます。政治経済のテキストを開くわけです。
ところで好きな子ができた話。
ところで好きな子ができた。
出来たと言っても6月くらいから興味があったんだけれど。同じクラスでとっても可愛い子だ。頭がいいし、話が通じる。もっとも上がっちゃって僕の方が話についていけてない感じがあるけど。夏あたりに友達と行った花火大会の帰りに酔った勢いで君と見れたら素敵だった云々の話ししてから完全に悟られた気がした笑。
伊藤整の小説に、都会に出てきた時に女の子に会う、その子に見出すのは、昔の地元のあの子と同じだ!っていうところなんだよ。みたいに書いてあったけど、
僕の中でそういった基本の女性像、ってあまりなかったんじゃないかなとさえ思う。正しい、女みたいなイメージが。そんなところから言って、彼女はとても正しくって僕のイメージにパチってはまった、訳。これを理想のタイプって言うんだなとか思った。将来自分がこれみて、タイプ変わってたら面白いから書いておこう笑
彼女は髪がとっても綺麗だ。クラスで一番綺麗な黒色で品がある髪型をしてる。風に吹かれて髪がふわりとする時の仕草なんかが物凄く僕を緊張させる。彼女の髪は深い黒でその場の空気を緊張させる。僕はいつも緊張している。
そして手が物凄く綺麗だ。彫刻みたいに細くって白魚のような手をしてる。透き通っていて、彼女の透明感ある雰囲気とこれ以上にないってくらい調和してる。器用そうで折り紙だとか文字を書くのだって上手いんだろうと思う。授業中に頬杖ついてノートを見ている格好なんかはなんて言うんだろう、素敵だった。なにか彼女にとってとっても大事なことを考えていて、、何を考えているんだろう。妖艶を漂わせてそこにいる。
表情が素敵だ。話しかけるといつも笑顔だ!なんで!?と思う、僕はそんな顔ができない。声も素敵だ。休み時間になると動物園の如く他の女子たちは品のない声で騒ぎ立てるが彼女の声はその中で坐禅の時に鳴らす木柾のようにすうっーと僕の耳の中にはいってくる気がする。
話のセンスもいい。綺麗な話ばかりする。彼女の生きてる世界って僕の生きてる世界と違うんじゃないかと思うくらい綺麗な話だ。話す度になんて素敵な話をするんだろうと思う。話し方もとっても可愛くて驚く、こんなに可愛い子がこの世にいるんだと。
趣味も僕とよく合う。洋画が好きだ。春樹を読んでる(実は知り合ったきっかけである訳だが)。
彼女と話していると幸せな気分だ。楽しくってしょうがない。ベタ惚れである…。
壮大な自然を前に、生まれてきてよかったなんて改めて思うことがたまにあるが、僕は彼女を前にそんなことを思うことがある。
この頃変化したと思うこと。
この頃変わったなぁと思うことがあります。それは、深く物事を捉えて考えることができるようになったということ、ではありません。それは2.3年前から大して変わってないみたい。
では何かというと、それはその考えたことであったり意見を、わかりやすい言葉で表現できるようになった(する気になった)ってことです。以前、このブログではまさにそうでありましたが、なにを言ってるのかわからない、みたいなところがあった訳です。非常に鋭くものについて分析したつもりなのに、それを対外的に表現するという段階に力を入れませんでした。なぜ、そう変わったのか考えてみると、一言ではきっと、社会人に近づいたって事なのかな。大人と話す機会が増えたし、自分の発言に責任を持つように(持ちたく)なってきました。それから僕は大学で政治経済を学びたいと思ってます、そしてnewspicksとかもよく見るようになったのですがその分野の人って意見をどれだけわかりやすく説明できるか、みたいなのが結構重要な気がしてました。それもあるかも。
僕は常々、相手の言ってることに失望せず、つまりファーストインパクトでバカだと決めつけずに、1時間話を聞いてから判断しようと、そして、僕のこともそうしてくれと、言っていた訳ですが現実そのようなことをする人って少ないし、やってる場合じゃないことが"多い"んですよね、だから、自分は素晴らしい考えを持っている!なんて錯覚するんじゃなくって、それを表現してなんぼやろってことです。
何故か今日の昼ごはん。
内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を読んで
内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を初めて読んだのは高校での現国の授業の時間だった。そのあと家で内田氏のブログを拝見してふむふむといったところだった。
しかしこれを読んでからというもの、僕は無意識のうちにネット上の謎出典の文献や知恵袋とかから私見を形成するのを避けていた気がする。
例えば僕はスマートフォンを捨ててビジネスマン向けとされているBlackberryに乗り換えた。そして文藝春秋、世界、Will、読売、産経・・・多くの紙媒体の情報誌を好んで購読するようになった。現代を生きる我々の日常に於いて自分に入ってくる情報を選ぶということは実践しずらいことだけれどもこうやって一種、デジタルデトックスにちかい状態に身を置いてみるとはっきりと情報に対しての己の姿勢が変わる。
と、ここまで僕の文章を読んでされに彼のブログを読んだ人なら気づいたかと思うが、僕は彼の書いた文章の内容に感化されたのではなく、タイトルに一発KOされたのである。
つまり、ネット上の発言というものについて劣化しているのではないかと僕は気づいたのである。劣化している。といっても何を基準に劣化しているのだと決めつけるのだという話になるだろうが、彼が例に挙げているよう、正論やそうでないといった正誤的な問題でなく、紙媒体の歴史のある冊子にくらべ質的に劣化をしているということである。
僕が顕著に思うところに、日本語の使い方がある。
僕自身は、文章を書く際にも好きな言い回しでそれはもう言葉がおかしいだのなんだのということを関係なしに文字を書いているが、それはやはり自己の日記程度の内容物だからこそのものであって、大衆が読むことになるであろう文章に、ネットスラングを多用したり、語法が間違っていたり、わざと間違えていたりするのはいかがなものかと思い、さらにそれは綺麗な文語表記のなされている紙媒体の冊子に比べ、質的に劣っているといえると考える。だからどうということではなく、指摘をしているだけである。
話は少し変わるが、情報化社会ということで僕たちの目にする情報の量は、結構多いものになっているらしい。
僕が印象的だった話は、中学校の時の社会の先生が「君たちが今日一日で知る情報量ははるか昔の人間が死ぬまでに知る情報量に相当するんじゃないか」という言葉であるが、まさにそのくらい多量な情報に触れているということだろう。
すると、何が起きるか。僕自身が感じているところに、一つ一つの情報を記憶し理解しておくことができていないんじゃないかということがある。テレビのつまらないコマーシャルのように右から左へ流していくような形で情報に触れているんじゃないかということだ。よく言われることだが、情報に対して受動的になってしまっている。姿勢として。それは、どう考えてもよくない。なぜなら受動的ということはその情報を発信している誰か第三者が存在しているわけであり、それらによる意図の上で知りえる情報に他ならないからだ。ニュースサイトの広告やリンクを見てみてもそういった傾向が強いと感じる。
僕が思うに、知的欲求による行動はいかなる場合も受動的姿勢ではいけないだろう。
寝たいだとか食べたいだとか遊びたいだとか欲求はあるがそれらは昔(昔は知らないので想像するに)から変わらず積極的に消化してきたものであると思うが、知的欲求にたいしては昔(想像するに)は積極的にアプローチをしていたものであろうが、近年は受動的になっている面がある。
近年と古代の差は、なんだろう。
それは思うに、やはり情報を提供する媒体があったかなかったかということがかなり大きいだろう。
例えば縄文時代、竪穴住居式の住まいの先に毎朝、朝刊が配達されるとする。
するとその新聞を住人は読んでいくが、朝から読んで昼頃になって読み終えてしまって違うことをし始めるでしょう。
それは情報を紹介する量が少ないからに所以することであって、やはり情報量が増えれば今と同じ状態になるだろう。
と、まあイメージであったが、そんなことも思う。
そういったことを思いつつ僕はデジタルデトックスに近いことを目指しつつ、今日もまたこうやって日本の侍の心を忘れないでコカ・コーラを飲みながら。
小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん
Thursday, November 12th
イギリスに来て2日が経ちました。いいWi-Fiスポットに行けていないので、ネットに投稿するのは遅くなるかもしれません。今は3日目の朝7時前です。
外国に来ると必ず何か学ぶことがあります。外国に来たから学ぶことが必ずあるというよりは正確には、普段自分がいる世界(社会)の外に自分の身を置くと感ずるものが必ずあると言った方がいいかもしれません。
普段私は旅行に行った際ツアーに参加して観光をするということはほぼほぼ無いのですが、今回は集団での旅行なので止む無く昨日、ツアーに参加してきました。
ロンドン市内をぐるっと周ったのですが、私は国会議事堂が見えたあたりから泣きそうになりました。なんだか壮大すぎて。その日は11月11日でしたから終戦記念日の様な日でした。そのため11時には市内全域で黙祷が行われていました。道行く人も、バスも11時になると止まって、一時ロンドンが完全停止した様な印象を受けました。いわゆる、戦死した先祖に黙祷を捧げていたわけですが、その中私は赤面するのを避けられませんでした。こんなにも先祖に感謝する時を作れるのだなと。女王を尊敬し、愛国心がとてもある。これははっきりと言いますと日本とまるで逆です。真逆です。冷静に考えると我が国のために亡くなった人間に敬意を払うのは当たり前とでも言えると思いますけれども日本はアジア諸国( )の言ってることを鵜呑みにしすぎでしょう。
少し、愛国心がとてもあるなんて中学生が外国について総合研究した時に書いた作文みたいな綺麗事に聞こえることを言いましたが、虚言でなく本当にそうなのです。
それから日本人は、外国に行くと、日本には美味しい食べ物があるだの綺麗な建物があるだの散々ほざくのが恒例となっていますが、世界の中心であった(ある)ロンドンに来るとなんだかそういった日本人の戯言は粘っこくって赤面します。なんだか自分たちはなにもしていないのに自分の属する国の持つアドバンテージをアピールするというのは何処となく嫌な気持ちになるものです。気がひける。
ロンドンの街並みはとても綺麗です。
日本ではロンドンの様な街並みが理想体といった様な風潮がかなりありますから私たちにとって綺麗と感じるのは当たり前ですが。
街並みを見る時にそこにいる人は同時に目に入ってきます。白人の金髪はとてもとても綺麗だし、鼻は高くて凛々しい。顔に凹凸があって彫刻の様。ヘッドホンをしてる黒人には、ピアスをしている黒人には、誰もかないません。これは別に自分にコンプレックスあるわけでは無いのですが、やはり憧れます。かなり強く。
これ、私が昨年サンフランシスコに留学した際にも思っていて、記していた記憶がありますから、なかなかすぐ無くなる感情では無い様です。そもそもこの憧れは無くなった方が良いのかどうかとかね、考えるんですけれども。
こういうことも、外国に来たからこそ思うことであって、やはり人間にはホーム、アウェイっていうのがあって、日本でも都会に行くと、人種の違う外人は見かけます。しかし不思議なことにそこまで彼らに憧れて遣る瀬無い気持ちになるってことはあまり無いのです。ホームでは良くも悪くも自分たちのホームですから優位性を感じるのかもしれません。だから憧れないのかもしれません。
今のところ一言でロンドンについて思うことは、映画の中にいるみたい!ってことです。Hyde park沿いの道路を通っている際に木と木の間に見える石造りの塔の先からチラチラ見える朝日、コーヒーを持ちながら金髪をなびかせて颯爽と赤信号を渡る人、時折街中を走っているトヨタのプリウス、ダウンタウンのとても良い土地にある野村のビル、小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん。
不思議な処
この広い世界には可愛い人がいる。
僕の職業観
the times they are changin
I like I love I love
god am
石橋を叩き壊して泳いで渡る
僕が辞書を作ることになり、本という頁を作ることになったらこう書きます。勿論辞書として作る際には本のジャンルごとに詳しく書くべきでしょうからその欄の下には沢山「◯◯のジャンルは違うページをみてください」って書かれるでしょうが。
- 本•••人が人の為に形としてなにかを残したい時に絵や文字を綴った紙を重ねて綴じたもの。
総じて僕らは日記であれ自分の哲学であれ形として将来(そう遠くない明日を含め)に残したい時に文字を綴るのです。形としてというところが重要で、更には人の為に書くというところが最重要。
考えというのは形のないものですから、それを文字に起こして実在物としてこの世に残す。それが本の一つの意義だと思う。
今日の話の何故人は本を読むのかという事に繋げるとすると、本は「人の為に書かれるということ」を忘れてはならないと思うのです。
つまりは本とは自分のために書かれたもの。だから僕らは読むのです。
いきなり詩的にフェイクをかけてきて驚いた方もいるでしょうが。
自分のために書かれた本を読む。至ってこれは普通のことであり、それこそがヒトが本を読む意味であり目的につながるのだ。
それならば僕らが設定すべきターゲットとは差別を受けている人々、差別をしている人々、いじめをしている人、いじめを受けている人、男性、女性、その他、隣人、世界の裏側に住んでいる人、親、息子、孫、そして忘れてはならないのは自分であるはずだ。
これは本について広義的に言ったことで僕らが何かについて本を書くときにそのま応用できる考えではないと思うが、これを忘れているしけた本は本屋で見ても山済みのままだ。