ところで好きな子ができた話。

ところで好きな子ができた。

出来たと言っても6月くらいから興味があったんだけれど。同じクラスでとっても可愛い子だ。頭がいいし、話が通じる。もっとも上がっちゃって僕の方が話についていけてない感じがあるけど。夏あたりに友達と行った花火大会の帰りに酔った勢いで君と見れたら素敵だった云々の話ししてから完全に悟られた気がした笑。

伊藤整の小説に、都会に出てきた時に女の子に会う、その子に見出すのは、昔の地元のあの子と同じだ!っていうところなんだよ。みたいに書いてあったけど、

 

僕の中でそういった基本の女性像、ってあまりなかったんじゃないかなとさえ思う。正しい、女みたいなイメージが。そんなところから言って、彼女はとても正しくって僕のイメージにパチってはまった、訳。これを理想のタイプって言うんだなとか思った。将来自分がこれみて、タイプ変わってたら面白いから書いておこう笑

彼女は髪がとっても綺麗だ。クラスで一番綺麗な黒色で品がある髪型をしてる。風に吹かれて髪がふわりとする時の仕草なんかが物凄く僕を緊張させる。彼女の髪は深い黒でその場の空気を緊張させる。僕はいつも緊張している。

そして手が物凄く綺麗だ。彫刻みたいに細くって白魚のような手をしてる。透き通っていて、彼女の透明感ある雰囲気とこれ以上にないってくらい調和してる。器用そうで折り紙だとか文字を書くのだって上手いんだろうと思う。授業中に頬杖ついてノートを見ている格好なんかはなんて言うんだろう、素敵だった。なにか彼女にとってとっても大事なことを考えていて、、何を考えているんだろう。妖艶を漂わせてそこにいる。

表情が素敵だ。話しかけるといつも笑顔だ!なんで!?と思う、僕はそんな顔ができない。声も素敵だ。休み時間になると動物園の如く他の女子たちは品のない声で騒ぎ立てるが彼女の声はその中で坐禅の時に鳴らす木柾のようにすうっーと僕の耳の中にはいってくる気がする。

話のセンスもいい。綺麗な話ばかりする。彼女の生きてる世界って僕の生きてる世界と違うんじゃないかと思うくらい綺麗な話だ。話す度になんて素敵な話をするんだろうと思う。話し方もとっても可愛くて驚く、こんなに可愛い子がこの世にいるんだと。

趣味も僕とよく合う。洋画が好きだ。春樹を読んでる(実は知り合ったきっかけである訳だが)。

彼女と話していると幸せな気分だ。楽しくってしょうがない。ベタ惚れである…。

壮大な自然を前に、生まれてきてよかったなんて改めて思うことがたまにあるが、僕は彼女を前にそんなことを思うことがある。

この頃変化したと思うこと。

この頃変わったなぁと思うことがあります。それは、深く物事を捉えて考えることができるようになったということ、ではありません。それは2.3年前から大して変わってないみたい。

では何かというと、それはその考えたことであったり意見を、わかりやすい言葉で表現できるようになった(する気になった)ってことです。以前、このブログではまさにそうでありましたが、なにを言ってるのかわからない、みたいなところがあった訳です。非常に鋭くものについて分析したつもりなのに、それを対外的に表現するという段階に力を入れませんでした。なぜ、そう変わったのか考えてみると、一言ではきっと、社会人に近づいたって事なのかな。大人と話す機会が増えたし、自分の発言に責任を持つように(持ちたく)なってきました。それから僕は大学で政治経済を学びたいと思ってます、そしてnewspicksとかもよく見るようになったのですがその分野の人って意見をどれだけわかりやすく説明できるか、みたいなのが結構重要な気がしてました。それもあるかも。

僕は常々、相手の言ってることに失望せず、つまりファーストインパクトでバカだと決めつけずに、1時間話を聞いてから判断しようと、そして、僕のこともそうしてくれと、言っていた訳ですが現実そのようなことをする人って少ないし、やってる場合じゃないことが"多い"んですよね、だから、自分は素晴らしい考えを持っている!なんて錯覚するんじゃなくって、それを表現してなんぼやろってことです。

f:id:Koudai2141:20161118232631j:image

何故か今日の昼ごはん。

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を読んで

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を初めて読んだのは高校での現国の授業の時間だった。そのあと家で内田氏のブログを拝見してふむふむといったところだった。

しかしこれを読んでからというもの、僕は無意識のうちにネット上の謎出典の文献や知恵袋とかから私見を形成するのを避けていた気がする。

例えば僕はスマートフォンを捨ててビジネスマン向けとされているBlackberryに乗り換えた。そして文藝春秋、世界、Will、読売、産経・・・多くの紙媒体の情報誌を好んで購読するようになった。現代を生きる我々の日常に於いて自分に入ってくる情報を選ぶということは実践しずらいことだけれどもこうやって一種、デジタルデトックスにちかい状態に身を置いてみるとはっきりと情報に対しての己の姿勢が変わる。

と、ここまで僕の文章を読んでされに彼のブログを読んだ人なら気づいたかと思うが、僕は彼の書いた文章の内容に感化されたのではなく、タイトルに一発KOされたのである。

つまり、ネット上の発言というものについて劣化しているのではないかと僕は気づいたのである。劣化している。といっても何を基準に劣化しているのだと決めつけるのだという話になるだろうが、彼が例に挙げているよう、正論やそうでないといった正誤的な問題でなく、紙媒体の歴史のある冊子にくらべ質的に劣化をしているということである。

僕が顕著に思うところに、日本語の使い方がある。

僕自身は、文章を書く際にも好きな言い回しでそれはもう言葉がおかしいだのなんだのということを関係なしに文字を書いているが、それはやはり自己の日記程度の内容物だからこそのものであって、大衆が読むことになるであろう文章に、ネットスラングを多用したり、語法が間違っていたり、わざと間違えていたりするのはいかがなものかと思い、さらにそれは綺麗な文語表記のなされている紙媒体の冊子に比べ、質的に劣っているといえると考える。だからどうということではなく、指摘をしているだけである。

 

話は少し変わるが、情報化社会ということで僕たちの目にする情報の量は、結構多いものになっているらしい。

僕が印象的だった話は、中学校の時の社会の先生が「君たちが今日一日で知る情報量ははるか昔の人間が死ぬまでに知る情報量に相当するんじゃないか」という言葉であるが、まさにそのくらい多量な情報に触れているということだろう。

すると、何が起きるか。僕自身が感じているところに、一つ一つの情報を記憶し理解しておくことができていないんじゃないかということがある。テレビのつまらないコマーシャルのように右から左へ流していくような形で情報に触れているんじゃないかということだ。よく言われることだが、情報に対して受動的になってしまっている。姿勢として。それは、どう考えてもよくない。なぜなら受動的ということはその情報を発信している誰か第三者が存在しているわけであり、それらによる意図の上で知りえる情報に他ならないからだ。ニュースサイトの広告やリンクを見てみてもそういった傾向が強いと感じる。

僕が思うに、知的欲求による行動はいかなる場合も受動的姿勢ではいけないだろう。

寝たいだとか食べたいだとか遊びたいだとか欲求はあるがそれらは昔(昔は知らないので想像するに)から変わらず積極的に消化してきたものであると思うが、知的欲求にたいしては昔(想像するに)は積極的にアプローチをしていたものであろうが、近年は受動的になっている面がある。

近年と古代の差は、なんだろう。

それは思うに、やはり情報を提供する媒体があったかなかったかということがかなり大きいだろう。

例えば縄文時代、竪穴住居式の住まいの先に毎朝、朝刊が配達されるとする。

するとその新聞を住人は読んでいくが、朝から読んで昼頃になって読み終えてしまって違うことをし始めるでしょう。

それは情報を紹介する量が少ないからに所以することであって、やはり情報量が増えれば今と同じ状態になるだろう。

と、まあイメージであったが、そんなことも思う。

そういったことを思いつつ僕はデジタルデトックスに近いことを目指しつつ、今日もまたこうやって日本の侍の心を忘れないでコカ・コーラを飲みながら。

小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん

Thursday, November  12th


イギリスに来て2日が経ちました。いいWi-Fiスポットに行けていないので、ネットに投稿するのは遅くなるかもしれません。今は3日目の朝7時前です。


外国に来ると必ず何か学ぶことがあります。外国に来たから学ぶことが必ずあるというよりは正確には、普段自分がいる世界(社会)の外に自分の身を置くと感ずるものが必ずあると言った方がいいかもしれません。


普段私は旅行に行った際ツアーに参加して観光をするということはほぼほぼ無いのですが、今回は集団での旅行なので止む無く昨日、ツアーに参加してきました。

ロンドン市内をぐるっと周ったのですが、私は国会議事堂が見えたあたりから泣きそうになりました。なんだか壮大すぎて。その日は11月11日でしたから終戦記念日の様な日でした。そのため11時には市内全域で黙祷が行われていました。道行く人も、バスも11時になると止まって、一時ロンドンが完全停止した様な印象を受けました。いわゆる、戦死した先祖に黙祷を捧げていたわけですが、その中私は赤面するのを避けられませんでした。こんなにも先祖に感謝する時を作れるのだなと。女王を尊敬し、愛国心がとてもある。これははっきりと言いますと日本とまるで逆です。真逆です。冷静に考えると我が国のために亡くなった人間に敬意を払うのは当たり前とでも言えると思いますけれども日本はアジア諸国( )の言ってることを鵜呑みにしすぎでしょう。

少し、愛国心がとてもあるなんて中学生が外国について総合研究した時に書いた作文みたいな綺麗事に聞こえることを言いましたが、虚言でなく本当にそうなのです。


それから日本人は、外国に行くと、日本には美味しい食べ物があるだの綺麗な建物があるだの散々ほざくのが恒例となっていますが、世界の中心であった(ある)ロンドンに来るとなんだかそういった日本人の戯言は粘っこくって赤面します。なんだか自分たちはなにもしていないのに自分の属する国の持つアドバンテージをアピールするというのは何処となく嫌な気持ちになるものです。気がひける。


ロンドンの街並みはとても綺麗です。

日本ではロンドンの様な街並みが理想体といった様な風潮がかなりありますから私たちにとって綺麗と感じるのは当たり前ですが。

街並みを見る時にそこにいる人は同時に目に入ってきます。白人の金髪はとてもとても綺麗だし、鼻は高くて凛々しい。顔に凹凸があって彫刻の様。ヘッドホンをしてる黒人には、ピアスをしている黒人には、誰もかないません。これは別に自分にコンプレックスあるわけでは無いのですが、やはり憧れます。かなり強く。

これ、私が昨年サンフランシスコに留学した際にも思っていて、記していた記憶がありますから、なかなかすぐ無くなる感情では無い様です。そもそもこの憧れは無くなった方が良いのかどうかとかね、考えるんですけれども。

こういうことも、外国に来たからこそ思うことであって、やはり人間にはホーム、アウェイっていうのがあって、日本でも都会に行くと、人種の違う外人は見かけます。しかし不思議なことにそこまで彼らに憧れて遣る瀬無い気持ちになるってことはあまり無いのです。ホームでは良くも悪くも自分たちのホームですから優位性を感じるのかもしれません。だから憧れないのかもしれません。


今のところ一言でロンドンについて思うことは、映画の中にいるみたい!ってことです。Hyde park沿いの道路を通っている際に木と木の間に見える石造りの塔の先からチラチラ見える朝日、コーヒーを持ちながら金髪をなびかせて颯爽と赤信号を渡る人、時折街中を走っているトヨタプリウスダウンタウンのとても良い土地にある野村のビル、小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん。


不思議な処

この広い世界には可愛い人がいる。

可愛い人を見ると一瞬なんというかやるせない気分になりがちだけれど後々考えるとこう思う。
可愛い人を見てもその人に対して自分がどうか、なにかするか、ということを思うことはあまりない。つまり美しい馬を見た時と同じように。
 
例えばどうだろう。僕は今所謂受験勉強に励んでいる最中だとする。すると、彼女らも同じようにペンを動かすわけで、模試では僕よりも良い点を取るかも知れない。すると、だ。僕はやるせない気になる。何故か。その子は可愛いからだ。そんな人に容姿でも努力でも負けるというのはそれこそ、本当にお話にならない事態である。
であるから、僕はこのくだらない受験勉強を続けなくてはならないと迫られるのである。



高校生が自由に使える時間をあまり持っていないのかどうかというのは、進学校に通っている受験生と、定時制に通う、高校1年生とでは話が180度変わってくるけれど、実際僕自身は自由な時間が云々は難しいけれど、所謂、時間がないという状態にはない。というかそもそも時間がないなんてことはあり得ない。多くの人にとって。そりゃあ世界には何人か、すごく努力ができる人がいて、彼らは本当に実際、時間が、無いのかもしれないが。

そもそもですよ、そんなことがこういうグループはこうでそこはそこ。なんて言う風に定義は出来ないのだから、不毛な思考を繰り広げることはやめたとして、
そもそも時間が無いなんて言うことって恥ずかしく無いですか?

時間がある人が居るのに、自分はありません。なんて悔しくてとてもじゃあ無いけれど言う意味がない。言うメリットが無いんです。こういった類の言葉って僕はこの頃よく気にしているのだけれど、結構ある。
そして、それを口にしている人ってそれなりな人しかい無い。事実だ。

「僕は自信が無いんです」
「僕は自由な時間が無い」
「僕は君より勉強が出来無い」
「僕は君より容姿が優れ無い」

言う必要が無いし、言うべきでは無いと思う言葉が、こんなにも溢れている。
これを使ってしまうから気づか無いうちに、舐められる。そして自分を舐める。これは非常によく無い。と、僕は思うのだ。

阿保な奴の特徴としてよく言われることで、綺麗事を本当に綺麗事だと見下している。というのは非常に的を得ている。
綺麗事だと言われていることは、其れなりに的を得ていることが多い。

今日電車の中で、「〜66の知識」なんて本の広告があった。なぜ、66なのか。僕であればもしも本の題名をこれになぞらえてつけるのであれば、50か100にするかも知れ無い。

僕の職業観

職業、自分が生きていく上で働く場所。
5W1Hにおいてそれを見つけるだのなんだのと言われ、啓発書の需要の極地だと思いますが、そんな難しいことではないのです。

僕は、職業についてはCan Must Want の3つの円の重なるところに見出すものだと考えています。3つの円とは、色の三原色の円のイメージです。赤と緑と黄色とで真ん中の3つの円が重なっているところは白になっています。あれです。

Canというのは出来ること、つまり自分の得意なものであり、自分が出来ること、そのものです。
Wantというのは自分のしたいことです。
Shouldというのは、すべきこと。するべきであることです。

この3つの円は必ずしも同じ大きさであるとは限りません。例えば、自分の捉えるShouldの円が小さくて、wantがその10倍でもいいのです。

何故このように考えるべきかということを先に話します。
これら(職業観)、すべての人が考えるであろうことというのは、できるだけ簡単に捉えるべきであると思うからです。できるだけシンプルに、ミニマリズム的な発想を持って考えるべきところです。
ですからこのような簡素な捉え方をします。

また、ここで背理法として最初に揚げ足を取ってくるであろう部分としては、じゃあすべての人がMustを小さく認識しすぎてWantばかり増えていったらどうなるのだ。というところでしょう。
これについては、こう考えています。
この問いの続きには反語で、
増えていったらどうなるのだ。そう、誰も汚い仕事はしなくなるだろう。
と続くのでしょうが、そんなことはないのです。
何故ならすべての人が同じ価値観を持っているわけではないからです。

価値観、なんて言葉を使ってなんかありきたりな安っぽい話になりそうだ、と警戒せずに聞いてください。
価値観、それこそがこの職業観を支えているのだから。

価値観の違い、とよく言われますが、それは一体なんでしょう。好きな食べ物?容姿?富への考え方?勉強の必要性の有無への考え方?そんな何気無いことへのいわゆる価値観の差というのがとても大事なのです。塵も積もれば山となる、ともまた違いますが、そんな些細なことでも、人と違うのです。これは認識すべきことで、自身の投票する政党が人とは違う。自分だってその政党を誰かと合わそうと思わないし彼らだって思わない。例えが上手くないのはわかってますが、つまりはそう簡単に人と意見は合わないということです。
昔、というかここ最近まで、僕は人と意見を合わすのなんて簡単だと思っていましたが、心の底から意見を合わすのなんていうのは不可能です。なぜ不可能なのか。それはどうでもいいと双方が踏んでいるからです。合わす理由がないのです。だから不可能なのです。

少し話を本題に戻します。今触れたようなことから、個人で価値観は確立されているので、3つの円が全人口において同じ大きさになることはあり得ないと思います。

であるからこそ自分は何をすべきか、一人一人というスパンではなくて宇宙レベルで考えようよ。人間なんだしさ。


the times they are changin

なにかこの頃落ち着かない。何かにいつも絶えず腹が立ってる。何かに怯えていて、自信がない。猫背だ。手によく汗を掻く。シャツがべたつくことが増えた。日常に不満が多い。何が不満だったのかを考えるのは退屈だ。頭の温度を病院の機械で測ったら真緑なんじゃないだろうか。頭が使われていない。臭い匂いを、埃を吸わないために息を深くつかない。頭に血が回ってない。何も考えてない時間が増えた。

でもたまにグッとくる音楽を聴いたり映画を見て僕は力が抜ける。いいなあと。でもそんなありきたりなことてしか自分を満足させられていない自分に腹が立っているのだろうか。

この文章を読んでいる人の今の気分がもしグレーではないとするとこの文字たちは今書いている僕が感じているように心に写し取られないかもしれないがまたそれもありなのである。気にせず読み続けてくれ。だいたい気分が優れているときに俗にいうネガティヴな文章を読むことはあまりないだろうが、だからこそたまにはやってみれば。


僕はいつもなにか自分が本当の自分を出しきれていない、と言いたげな文章を書くが、そしてそんな言い草をするが実際のところ、そんなことはないような気持ちも半分あって。

自分を定義する材料は恒常的にあるものではなくて移り変わっていくものであるからの自分云々の話になるが、今の僕は今の僕だ。本当の自分なんていうのはどうだっていい。

これはよく言われる、発言しない人は素晴らしいことを頭の中で考えていたって何も考えていないアホと同じだという話と同じである。

今の自分として定義されるのは、今の自分を形作る材料によるもののみによってであって、仮に、自分が目指しているものがあってその途中にいると自分で踏んでいてもそんなことは関係ない。虚しくも僕は僕だ。君は君だ。


でも面白い話だけれど、そんな事は大事なことじゃなくって、学生であり、これから金を稼ぐ方法を探っていかなくてはいけない僕にとってここで考えるべきなのはだから、どうするということだ。

今の僕は惨めでちっぽけであると。
それは分かった。だからどうするの。ということだと考える。

僕はまず自分のコンプレッサーを一つづつ首を絞めて殺していきたいと思う。

ここまで僕を悩ませてくれたこいつら、形こそないけれど僕を悩ませる厄介なものを排除してあわよくば、いや、あわよくばというか必ずそれを自分の盾にして利用していかなくてはと。







I like I love I love

ここ一週間くらいのあいだ、よくあっていたんだけれどまた今日もそんなことがあったので書くことを決めた。

いつも哲学者ぶってさっぱりとした(十分ネチネチしているけれど)ことを書いてきたからたまにはネチネチしたこと書きます。

私が中学2年生だったとき、クラスにとても可愛い人がいた。どんなモデルよりも美しくてどんな白人よりも知的で、それはそれはなんというか天使のようだったけれど、それは僕だけでなく僕ら男子は結構な人数がそう感じていた。

よく覚えているけれど(笑)僕は一度だけ、席がその人の隣になったことがある。それまで斜め後ろの席が多くて、ずっと隣になってる人が羨ましかったからすごく嬉しかった。気がする。

そんな思いをみんなから買っていたであろうその子を僕は忘れられないわけだけれど、早2年が経って、なんだかこんな話をすると引きずってるなあという感じの時が過ぎてしまった。

ところが、だ。ちょうど一週間くらい前に学校から帰る途中、電車を乗り換えるためにホームに降りた時に、その子に(似ていたのか本人かはわからないが。というのはその子の地元ではないため)会った。目があった。つぎの瞬間にはかっと頭の中でかんがえていた友人への返答が吹っ飛んだ。

ああ、そうか、と思い出した。ああ、そうかと。

そこで話しかけたら小説みたいにストーリーが出来ていくんだろうが僕は中学の時に席が隣になった時もその子とは一言も喋らないくらいのことをしていた。一度も。それだから勿論僕がそこで声をかけるわけもなく僕はさっきのことを思い出していい気分になって電車を乗り換えた。

と、ここまでのことなら文章を書くに至らなかったわけだが、これだけじゃあないから今回は面白かった。

今日のことだ。塾に行って授業を受けた。5時から9時半まで4時間半いた。自習を7時までして途中でご飯を食べに15分でて、8時10分から授業を受けた。僕はその人とたまたま一緒に教室に入った。彼女は入ってすぐの机の上にあるタイム誌を取っていて、入り口が狭いので僕はその後ろで待っていた。その時は意識していなかった。でも僕に気づいてすいませんって小さい声で言った時、似てるなあと思った。

僕は席について、その人も2つ右斜め前に座った。それで横を見た。その時はっとした。2度見した。そのあとまた見た。本当に似ていてびっくりした。驚いた。

名前を聞こうかと思った。…ですか?って。

帰るときにはもう先に帰っていて聞けなかった。


なにがいいって本人は僕に僕が生きる喜びの何%かを与えていることを知らずにいる。その絵が美しい。



その他は糞で糞で糞な一週間でしたが、
そんなときだからこそこんな些細なことが僕の現実からの逃口となってぼくを裏山へ逃してくれたらいい。

god am

僕は意外と電車が好きです。なんとなく言えば総武線がお気に入り。

電車が好きというよりかは電車の中の状態に自分が感じることが好きというなだけかもしれないがそれはつまり電車なのだから電車が僕は意外と好きなのだろう。

電車の席は7つだ。7つの連続の席が向かい合ってる。
見知らぬ人と向き合える場なんていうのはカタカナを使えばシュール、などとも言えるのかもしれないが、それがいい。どこの誰かも知らない人と向き合っているのはいい。そして二度と会わないであろう人に向き合っているのはいい。
ジロジロと見ているのが気づかれ、キッと睨まれるのはいい。見ているんだよと気づかれたい時に無視されるのはいい。これからある予定のことを考えて憂鬱になりながら前の人はどんな予定があるんだろうと模索するのはいい。降りるべきであった駅で降りずにエヴァのシンジくんみたいに周りの人が降りていく中、終点までぼーっとしているのはいい。そこで、戻りの電車に乗って前になった人を見て、ああ僕は何をやっているんだって舌打ちをするのはいい。外を見るのもいいしこうやって言葉を書くのもいい。

石橋を叩き壊して泳いで渡る

自分のこのブログに対する戦略的な気付きをこのブログに書き綴るというのはなんだか可笑しい話だけれどやってる人が少ないからやってやる。

今日は北海道の弟子屈という町に来ている。ここのユースホステルに泊まったのだが、そこで出会った人が面白いことを言っていた。彼女は本を書いていて、僕自身、本を書いている人に話を伺うのは初めてでいい時間を過ごせた。有意義な。最後に僕がこう質問した。本を出版するにあたって何を意識しているのですか。と。
自分がアブノーマルな答えを期待していなかったといえば嘘になるが、彼女が言ったことは至極簡単なこと、本書きではない僕も意識したことのあることだった。
それは、誰に向けて文字を綴るか。ということだった。本は人に読まれなければ本の意義がそこそこ失われる。ゆえに人に読んでもらうことが重要なわけで、ターゲーットを設定して、それらのための文章(逆にすべての人対象でもね)を書くということ。


僕は本を将来出版したいと考えているから考えてみるべきことがいっぱいあるはずだった。例えばこのブログは僕が言いたいことを述べて、僕の日常を書いていた訳だが、それは誰に対して書いていたのだろうか。

いきなりターゲーット云々を決めるのは難しいとして、ヒトは何故、本を読むのかということを考える。参考書の場合は受験生たちは何か解法が知りたくて買うかもしれない。重病を患っている親を持つサラリーマンは医学書を親のこれからへの対処法を探しに買うかもしれない。今日何もするやる気がなく、明日は今日のように無駄に過ごしたくないと考えている中学生は自己啓発書を参考したりするかもしれない。
これらは知識を自分が得て、それらを活かしたいと。そう感じた例だがヒトが本を読む意義とはこの場合だけではない。

例えば小説本を読む人はその主人公の動作の真似がしたいがために買うわけではないし写真集も、自分の技術向上のための参考という人もいるかも知れないけれど芸能人の写真集なんかは自分がそれを見て何かに活かすという要素は薄い気がする。また、誰かのエッセーだってそれを読んで自分のエッセーにパクるなんてやってるのは一部の人間だろうし(私の十八番です)))。

それならば本を読む訳とはなんなのだ!となるが、その前に前置きを。
僕がここまで書いてきて悩んだこととは本の中身のジャンルに分けてそれらを読むわけを書くべきかということ。が、そうしてこれを考えるとUndoneな感じがするのでここは本という括りで考えます。

僕が辞書を作ることになり、という頁を作ることになったらこう書きます。勿論辞書として作る際には本のジャンルごとに詳しく書くべきでしょうからその欄の下には沢山「◯◯のジャンルは違うページをみてください」って書かれるでしょうが。

  • 本•••人が人の為に形としてなにかを残したい時に絵や文字を綴った紙を重ねて綴じたもの。

総じて僕らは日記であれ自分の哲学であれ形として将来(そう遠くない明日を含め)に残したい時に文字を綴るのです。形としてというところが重要で、更には人の為に書くというところが最重要。

考えというのは形のないものですから、それを文字に起こして実在物としてこの世に残す。それが本の一つの意義だと思う。

今日の話の何故人は本を読むのかという事に繋げるとすると、本は「人の為に書かれるということ」を忘れてはならないと思うのです。

つまりは本とは自分のために書かれたもの。だから僕らは読むのです。

いきなり詩的にフェイクをかけてきて驚いた方もいるでしょうが。

自分のために書かれた本を読む。至ってこれは普通のことであり、それこそがヒトが本を読む意味であり目的につながるのだ。

それならば僕らが設定すべきターゲットとは差別を受けている人々、差別をしている人々、いじめをしている人、いじめを受けている人、男性、女性、その他、隣人、世界の裏側に住んでいる人、親、息子、孫、そして忘れてはならないのは自分であるはずだ。

これは本について広義的に言ったことで僕らが何かについて本を書くときにそのま応用できる考えではないと思うが、これを忘れているしけた本は本屋で見ても山済みのままだ。




世界は誰にでも門を開いて待っている平等の名のもとに請求書と一緒に

普段と違う環境、主に場所に身を置いてみるとそこに、たどり着いた時よりもその環境からもと居た所に戻った際に新しい発見がある。というのは、あながちそうなんだよというお話。いわゆるカルチャーショックは他の国に行った時よりもその国から帰って来た時にショックがある。だとかそういうことである。

安っぽい僕の体験談を少し語るとすれば、僕がアメリカに行く前、電車の中であれ道を歩いている時も誰かが見てきているような感触を持っていた。思春期の彼には良くあることなのかもしれないが、まあなんともはたからみても自分からして見てもやるせない思い込みなのだが。

ところがアメリカに行ってバスや電車に乗ったり公園で本を読んでいたりしても誰も見ていない!みたいに思うことがあった。そう思ったのならそれでいいやんという話だと思うでしょう。でもこれ、すごく面白いことなんですよ。

実際、日本に帰って来た時の話をするけど僕はアメリカにいた時と同様振舞っていたら誰にも見られているなんて思わなかったしそれだけの話だったんだと思う。なにかというと最初から誰も見ていなかったということ。

でもなんでアメリカ、という何時もと違った環境に身を置いた時、僕は違ったことを感じたんだろう。ふとおもったのは(恐らくみなさんも)自身に自信が付いたから。だということ。

でもなにかな、それはなにか決定的じゃない。そもそも僕は白人に囲まれて自分の短足ぶりに自信が無くなった。。

僕が考えたのは、自分を蔑んで見ていたから。だ。
蔑む。優しい言葉にすると、小さくとかちっぽけにって感じだろう。

僕は今言ったように白人に対し、容姿面や、英語コンプもあったし、アメリカ人の国民性というかそういった堂々とした態度にもコンプがあった。それらを意識し自分と重ね合わせた時に、プライドを捨てる、じゃないけど、つまりは
雑誌の綺麗な女性を田舎のニキビ学生が眺めてあーあって思うような諦めではなく、ハートで(heart)で解る自覚、みたいな感じだ。


そうやって自分ってちっぽけだと認めてしまえば(自我が)(つまりは心の底から)(心の底からじゃないとなんか逆影響のような気も、)自分が誰かに見られているなんていらない気を立てないで済む。あぁ僕は今そんな気を立てていないなあと気付いた時とても清々しい。

因みにそんな時には冷たい風を思いっきり肺の奥まで吸い込むのが似合う。

ただ、僕はちっぽけであろうが無力だとは決して考えていない。何かを、本当に何かでよければ全ての存在するものは0を1に変えているし逆に1を0に変えている。特別、人間は100を1にしうる力と1を1000にする力を備えていると感じる。

インスタントミュージック

毎朝駅で電車を待っている際に感じることがある。
僕は学校の方向的に自分の最寄駅からは東京方面の電車に乗るのだが志望していた高校が逆方向だったので毎朝ぶつぶつ思うのである。このサイトに書き殴っていることの原動力の4分の一くらいは僕が高校受験に落ちたことにあるので、しつこいと思っても聞いてくれたまえ。

幼稚な理由感が我ながら否めないが、東京行きの電車というのは朝方、とても混むものである。反対に逆向きはガラガラなのだが、行きたくもない学校に毎朝ぎゅうぎゅうになっていくのは惨めだ。みんなもやってるんだよ。なんて言うのはナンセンスだ。みんなって何処までを指しているのかわからないけれど僕はこれに関してこんな惨めな思いをしていない人を知っているわけで、みんな、everyone100%では無い。

それにやはり受験というのは、自分との戦いだと言われるが、確かにそれはそうかもしれないがそれと同時に同学年(大学受験ではその世代の人たち)との戦いでもあると思う。
つまり人と自分を比べることを迫られることが多い。実際僕はこれがかなりコンプレッサーになっている、というか気にしている。

朝ホームで待ってると向かいのホームで逆向きの電車を待ってる高校生がいるんだよなあ。あれを見るともうなんていうか、いやーな屈辱感がこみ上げてくる。

こんなことを言いたくなる。

スピ系や自己啓発の本には運まで努力でどうにかなると言いたげな雰囲気があるが、それはない。


Go with the flow

日々の何の変哲も無いと言われる毎日を有意義に送れ言われても、趣味に没頭したり、偉そうに哲学書を読んでみたり、レゲエかけながら風呂に入ったりとそんなことをしてしまいがちだが、今の僕は家の中にいるという選択はしないのではないかなんて思う。

家っていうのは不思議なもので、なんだか外界から遮断されたシェルターみたいな言葉が当てはまりそうなくらいだ。これを語ると同時に無視してはならないのは文化、特に国と国の文化の差であろう。今年僕は初めて海外に行ったけれど、あれほど日本に文化的影響をもたらしていたアメリカでさえ家のあり方というのは僕ら日本人が普段持っている考えとは異なっていた。

家庭によって様々であると思うが、僕がホームステイした家は玄関に上がっても靴を脱がない。寝室までも靴で行って寝るときだけベットの上では脱ぐ。みたいな。とても外界との隔たりを感じない。履き替える必要もなく外にぱっと、飛び出していける。

ここで日本ではそんな家は少ないよね、ということを言いたいのだが考えてみると日本は日本で縁側という西洋風に言えばベランダみたいなものがある。廊下になっているからベランダとは違うかもしれないともふと思うのだが。



今日はこの、家というものについて考えてみよう。誰しもが考えるべき、いや、強意をもって考えなくてはいけないものなんじゃあないだろうか。


家に纏わる話として斬っても離せないものとして家族という存在があるわけだが、家族というのは少し冷静に考えてみると冷静に考えてみると不思議な、というか他のあらゆる物と一線を画する存在である。家族によって、自分中心にこの世界は回っていないのだ と知り、家族によって他人との境界線が見えてきたりすることもある。自分が養ってもらっている立場であれば、渦巻く気持ちが家族に芽生え、歌を作りたくなるだろうし逆であってもそんなことがありそうだ。


家という、外界からいわば遮断された、陣地にそんなにも複雑な関係があるなんてそれもまた不思議な事ですね。(映画監督とかは家族の関係を単純だと表すのかも知れないけれど。)


最初の話に戻って、日々を有意義に過ごすためには。という話をする。

外に出る。空気がいいところに行くか、空の曇ったところに行くのかはその時の気分で。

それから音楽を聴く。良い音質で集中して聴くのもいいし、誰かの子供の野球の試合をみながら軽くbgmとして片耳で聴くのもいい。

選曲は至極大事である。言語はなんだっていい。気分でチョイスする。その時に若いj-popのロッカー達を馬鹿にしたりk-popのハングルの歌詞カードを見て笑うなんてことはしなくたっていい。

売れているシンガーにしろストリートのおじさんにしろメロディーに乗せて言葉を作っているわけだからそう、有り触れた、それでいてあまり自分が使わない言葉を思い出させてくれる。それってすごい楽しいです。


それでいて誰にも縛られていない、自由な存在であるという普段自分が馬鹿にしている役を担当してみる。そのためにはとびきり辛いソースを飲んでみたり、冬一番の日に冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ時に感じるオイル臭さを一人笑って認めた時に生まれる感情である。


そして僕が思うに、最も大事なことは、人に失望せず、自然に任せるということです。

go with the flow です。これはAdrian Monkの言葉ですが座右の銘にしたいくらい偉大な言葉です。

そんな風に、満員電車の中では自分の座右の銘となるべき語を発掘するのは如何でしょうか。