I like I love I love

ここ一週間くらいのあいだ、よくあっていたんだけれどまた今日もそんなことがあったので書くことを決めた。

いつも哲学者ぶってさっぱりとした(十分ネチネチしているけれど)ことを書いてきたからたまにはネチネチしたこと書きます。

私が中学2年生だったとき、クラスにとても可愛い人がいた。どんなモデルよりも美しくてどんな白人よりも知的で、それはそれはなんというか天使のようだったけれど、それは僕だけでなく僕ら男子は結構な人数がそう感じていた。

よく覚えているけれど(笑)僕は一度だけ、席がその人の隣になったことがある。それまで斜め後ろの席が多くて、ずっと隣になってる人が羨ましかったからすごく嬉しかった。気がする。

そんな思いをみんなから買っていたであろうその子を僕は忘れられないわけだけれど、早2年が経って、なんだかこんな話をすると引きずってるなあという感じの時が過ぎてしまった。

ところが、だ。ちょうど一週間くらい前に学校から帰る途中、電車を乗り換えるためにホームに降りた時に、その子に(似ていたのか本人かはわからないが。というのはその子の地元ではないため)会った。目があった。つぎの瞬間にはかっと頭の中でかんがえていた友人への返答が吹っ飛んだ。

ああ、そうか、と思い出した。ああ、そうかと。

そこで話しかけたら小説みたいにストーリーが出来ていくんだろうが僕は中学の時に席が隣になった時もその子とは一言も喋らないくらいのことをしていた。一度も。それだから勿論僕がそこで声をかけるわけもなく僕はさっきのことを思い出していい気分になって電車を乗り換えた。

と、ここまでのことなら文章を書くに至らなかったわけだが、これだけじゃあないから今回は面白かった。

今日のことだ。塾に行って授業を受けた。5時から9時半まで4時間半いた。自習を7時までして途中でご飯を食べに15分でて、8時10分から授業を受けた。僕はその人とたまたま一緒に教室に入った。彼女は入ってすぐの机の上にあるタイム誌を取っていて、入り口が狭いので僕はその後ろで待っていた。その時は意識していなかった。でも僕に気づいてすいませんって小さい声で言った時、似てるなあと思った。

僕は席について、その人も2つ右斜め前に座った。それで横を見た。その時はっとした。2度見した。そのあとまた見た。本当に似ていてびっくりした。驚いた。

名前を聞こうかと思った。…ですか?って。

帰るときにはもう先に帰っていて聞けなかった。


なにがいいって本人は僕に僕が生きる喜びの何%かを与えていることを知らずにいる。その絵が美しい。



その他は糞で糞で糞な一週間でしたが、
そんなときだからこそこんな些細なことが僕の現実からの逃口となってぼくを裏山へ逃してくれたらいい。

god am

僕は意外と電車が好きです。なんとなく言えば総武線がお気に入り。

電車が好きというよりかは電車の中の状態に自分が感じることが好きというなだけかもしれないがそれはつまり電車なのだから電車が僕は意外と好きなのだろう。

電車の席は7つだ。7つの連続の席が向かい合ってる。
見知らぬ人と向き合える場なんていうのはカタカナを使えばシュール、などとも言えるのかもしれないが、それがいい。どこの誰かも知らない人と向き合っているのはいい。そして二度と会わないであろう人に向き合っているのはいい。
ジロジロと見ているのが気づかれ、キッと睨まれるのはいい。見ているんだよと気づかれたい時に無視されるのはいい。これからある予定のことを考えて憂鬱になりながら前の人はどんな予定があるんだろうと模索するのはいい。降りるべきであった駅で降りずにエヴァのシンジくんみたいに周りの人が降りていく中、終点までぼーっとしているのはいい。そこで、戻りの電車に乗って前になった人を見て、ああ僕は何をやっているんだって舌打ちをするのはいい。外を見るのもいいしこうやって言葉を書くのもいい。

石橋を叩き壊して泳いで渡る

自分のこのブログに対する戦略的な気付きをこのブログに書き綴るというのはなんだか可笑しい話だけれどやってる人が少ないからやってやる。

今日は北海道の弟子屈という町に来ている。ここのユースホステルに泊まったのだが、そこで出会った人が面白いことを言っていた。彼女は本を書いていて、僕自身、本を書いている人に話を伺うのは初めてでいい時間を過ごせた。有意義な。最後に僕がこう質問した。本を出版するにあたって何を意識しているのですか。と。
自分がアブノーマルな答えを期待していなかったといえば嘘になるが、彼女が言ったことは至極簡単なこと、本書きではない僕も意識したことのあることだった。
それは、誰に向けて文字を綴るか。ということだった。本は人に読まれなければ本の意義がそこそこ失われる。ゆえに人に読んでもらうことが重要なわけで、ターゲーットを設定して、それらのための文章(逆にすべての人対象でもね)を書くということ。


僕は本を将来出版したいと考えているから考えてみるべきことがいっぱいあるはずだった。例えばこのブログは僕が言いたいことを述べて、僕の日常を書いていた訳だが、それは誰に対して書いていたのだろうか。

いきなりターゲーット云々を決めるのは難しいとして、ヒトは何故、本を読むのかということを考える。参考書の場合は受験生たちは何か解法が知りたくて買うかもしれない。重病を患っている親を持つサラリーマンは医学書を親のこれからへの対処法を探しに買うかもしれない。今日何もするやる気がなく、明日は今日のように無駄に過ごしたくないと考えている中学生は自己啓発書を参考したりするかもしれない。
これらは知識を自分が得て、それらを活かしたいと。そう感じた例だがヒトが本を読む意義とはこの場合だけではない。

例えば小説本を読む人はその主人公の動作の真似がしたいがために買うわけではないし写真集も、自分の技術向上のための参考という人もいるかも知れないけれど芸能人の写真集なんかは自分がそれを見て何かに活かすという要素は薄い気がする。また、誰かのエッセーだってそれを読んで自分のエッセーにパクるなんてやってるのは一部の人間だろうし(私の十八番です)))。

それならば本を読む訳とはなんなのだ!となるが、その前に前置きを。
僕がここまで書いてきて悩んだこととは本の中身のジャンルに分けてそれらを読むわけを書くべきかということ。が、そうしてこれを考えるとUndoneな感じがするのでここは本という括りで考えます。

僕が辞書を作ることになり、という頁を作ることになったらこう書きます。勿論辞書として作る際には本のジャンルごとに詳しく書くべきでしょうからその欄の下には沢山「◯◯のジャンルは違うページをみてください」って書かれるでしょうが。

  • 本•••人が人の為に形としてなにかを残したい時に絵や文字を綴った紙を重ねて綴じたもの。

総じて僕らは日記であれ自分の哲学であれ形として将来(そう遠くない明日を含め)に残したい時に文字を綴るのです。形としてというところが重要で、更には人の為に書くというところが最重要。

考えというのは形のないものですから、それを文字に起こして実在物としてこの世に残す。それが本の一つの意義だと思う。

今日の話の何故人は本を読むのかという事に繋げるとすると、本は「人の為に書かれるということ」を忘れてはならないと思うのです。

つまりは本とは自分のために書かれたもの。だから僕らは読むのです。

いきなり詩的にフェイクをかけてきて驚いた方もいるでしょうが。

自分のために書かれた本を読む。至ってこれは普通のことであり、それこそがヒトが本を読む意味であり目的につながるのだ。

それならば僕らが設定すべきターゲットとは差別を受けている人々、差別をしている人々、いじめをしている人、いじめを受けている人、男性、女性、その他、隣人、世界の裏側に住んでいる人、親、息子、孫、そして忘れてはならないのは自分であるはずだ。

これは本について広義的に言ったことで僕らが何かについて本を書くときにそのま応用できる考えではないと思うが、これを忘れているしけた本は本屋で見ても山済みのままだ。




世界は誰にでも門を開いて待っている平等の名のもとに請求書と一緒に

普段と違う環境、主に場所に身を置いてみるとそこに、たどり着いた時よりもその環境からもと居た所に戻った際に新しい発見がある。というのは、あながちそうなんだよというお話。いわゆるカルチャーショックは他の国に行った時よりもその国から帰って来た時にショックがある。だとかそういうことである。

安っぽい僕の体験談を少し語るとすれば、僕がアメリカに行く前、電車の中であれ道を歩いている時も誰かが見てきているような感触を持っていた。思春期の彼には良くあることなのかもしれないが、まあなんともはたからみても自分からして見てもやるせない思い込みなのだが。

ところがアメリカに行ってバスや電車に乗ったり公園で本を読んでいたりしても誰も見ていない!みたいに思うことがあった。そう思ったのならそれでいいやんという話だと思うでしょう。でもこれ、すごく面白いことなんですよ。

実際、日本に帰って来た時の話をするけど僕はアメリカにいた時と同様振舞っていたら誰にも見られているなんて思わなかったしそれだけの話だったんだと思う。なにかというと最初から誰も見ていなかったということ。

でもなんでアメリカ、という何時もと違った環境に身を置いた時、僕は違ったことを感じたんだろう。ふとおもったのは(恐らくみなさんも)自身に自信が付いたから。だということ。

でもなにかな、それはなにか決定的じゃない。そもそも僕は白人に囲まれて自分の短足ぶりに自信が無くなった。。

僕が考えたのは、自分を蔑んで見ていたから。だ。
蔑む。優しい言葉にすると、小さくとかちっぽけにって感じだろう。

僕は今言ったように白人に対し、容姿面や、英語コンプもあったし、アメリカ人の国民性というかそういった堂々とした態度にもコンプがあった。それらを意識し自分と重ね合わせた時に、プライドを捨てる、じゃないけど、つまりは
雑誌の綺麗な女性を田舎のニキビ学生が眺めてあーあって思うような諦めではなく、ハートで(heart)で解る自覚、みたいな感じだ。


そうやって自分ってちっぽけだと認めてしまえば(自我が)(つまりは心の底から)(心の底からじゃないとなんか逆影響のような気も、)自分が誰かに見られているなんていらない気を立てないで済む。あぁ僕は今そんな気を立てていないなあと気付いた時とても清々しい。

因みにそんな時には冷たい風を思いっきり肺の奥まで吸い込むのが似合う。

ただ、僕はちっぽけであろうが無力だとは決して考えていない。何かを、本当に何かでよければ全ての存在するものは0を1に変えているし逆に1を0に変えている。特別、人間は100を1にしうる力と1を1000にする力を備えていると感じる。

インスタントミュージック

毎朝駅で電車を待っている際に感じることがある。
僕は学校の方向的に自分の最寄駅からは東京方面の電車に乗るのだが志望していた高校が逆方向だったので毎朝ぶつぶつ思うのである。このサイトに書き殴っていることの原動力の4分の一くらいは僕が高校受験に落ちたことにあるので、しつこいと思っても聞いてくれたまえ。

幼稚な理由感が我ながら否めないが、東京行きの電車というのは朝方、とても混むものである。反対に逆向きはガラガラなのだが、行きたくもない学校に毎朝ぎゅうぎゅうになっていくのは惨めだ。みんなもやってるんだよ。なんて言うのはナンセンスだ。みんなって何処までを指しているのかわからないけれど僕はこれに関してこんな惨めな思いをしていない人を知っているわけで、みんな、everyone100%では無い。

それにやはり受験というのは、自分との戦いだと言われるが、確かにそれはそうかもしれないがそれと同時に同学年(大学受験ではその世代の人たち)との戦いでもあると思う。
つまり人と自分を比べることを迫られることが多い。実際僕はこれがかなりコンプレッサーになっている、というか気にしている。

朝ホームで待ってると向かいのホームで逆向きの電車を待ってる高校生がいるんだよなあ。あれを見るともうなんていうか、いやーな屈辱感がこみ上げてくる。

こんなことを言いたくなる。

スピ系や自己啓発の本には運まで努力でどうにかなると言いたげな雰囲気があるが、それはない。


Go with the flow

日々の何の変哲も無いと言われる毎日を有意義に送れ言われても、趣味に没頭したり、偉そうに哲学書を読んでみたり、レゲエかけながら風呂に入ったりとそんなことをしてしまいがちだが、今の僕は家の中にいるという選択はしないのではないかなんて思う。

家っていうのは不思議なもので、なんだか外界から遮断されたシェルターみたいな言葉が当てはまりそうなくらいだ。これを語ると同時に無視してはならないのは文化、特に国と国の文化の差であろう。今年僕は初めて海外に行ったけれど、あれほど日本に文化的影響をもたらしていたアメリカでさえ家のあり方というのは僕ら日本人が普段持っている考えとは異なっていた。

家庭によって様々であると思うが、僕がホームステイした家は玄関に上がっても靴を脱がない。寝室までも靴で行って寝るときだけベットの上では脱ぐ。みたいな。とても外界との隔たりを感じない。履き替える必要もなく外にぱっと、飛び出していける。

ここで日本ではそんな家は少ないよね、ということを言いたいのだが考えてみると日本は日本で縁側という西洋風に言えばベランダみたいなものがある。廊下になっているからベランダとは違うかもしれないともふと思うのだが。



今日はこの、家というものについて考えてみよう。誰しもが考えるべき、いや、強意をもって考えなくてはいけないものなんじゃあないだろうか。


家に纏わる話として斬っても離せないものとして家族という存在があるわけだが、家族というのは少し冷静に考えてみると冷静に考えてみると不思議な、というか他のあらゆる物と一線を画する存在である。家族によって、自分中心にこの世界は回っていないのだ と知り、家族によって他人との境界線が見えてきたりすることもある。自分が養ってもらっている立場であれば、渦巻く気持ちが家族に芽生え、歌を作りたくなるだろうし逆であってもそんなことがありそうだ。


家という、外界からいわば遮断された、陣地にそんなにも複雑な関係があるなんてそれもまた不思議な事ですね。(映画監督とかは家族の関係を単純だと表すのかも知れないけれど。)


最初の話に戻って、日々を有意義に過ごすためには。という話をする。

外に出る。空気がいいところに行くか、空の曇ったところに行くのかはその時の気分で。

それから音楽を聴く。良い音質で集中して聴くのもいいし、誰かの子供の野球の試合をみながら軽くbgmとして片耳で聴くのもいい。

選曲は至極大事である。言語はなんだっていい。気分でチョイスする。その時に若いj-popのロッカー達を馬鹿にしたりk-popのハングルの歌詞カードを見て笑うなんてことはしなくたっていい。

売れているシンガーにしろストリートのおじさんにしろメロディーに乗せて言葉を作っているわけだからそう、有り触れた、それでいてあまり自分が使わない言葉を思い出させてくれる。それってすごい楽しいです。


それでいて誰にも縛られていない、自由な存在であるという普段自分が馬鹿にしている役を担当してみる。そのためにはとびきり辛いソースを飲んでみたり、冬一番の日に冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ時に感じるオイル臭さを一人笑って認めた時に生まれる感情である。


そして僕が思うに、最も大事なことは、人に失望せず、自然に任せるということです。

go with the flow です。これはAdrian Monkの言葉ですが座右の銘にしたいくらい偉大な言葉です。

そんな風に、満員電車の中では自分の座右の銘となるべき語を発掘するのは如何でしょうか。





寝ても覚めても繰り返す"I C A N"

いま自分の居る(in)状態を客観的に知る、というか見るというか状態を把握するというのは凄く疲れることであり、なかなかやりたがらない。人は。
が、しかしもし(8割がた)客観的に見た自分の状態が、自分が考えていたよりも悪かったらそれを知らないというのはなんとも愚か、。それにそんな自分の状態を脱するためにこれから先に取っていく方針に支障が出てくる気がするのです。
ですから自分の状態を正確に、尚且つ僕らは社会の中で生きているのだから、一般的な理念に、つまりは常識に基づいた批評をして然るべきであろう。


スナイパー、縁取ったその世界に何が見えるって言うんだ

とても需要のある記事を書きます。自分で需要あるとか開き直るとなんだか嫌な人間味が出てしまうのだけれど、みんなが思ってて再確認したいことを誰かが書く、それも同じようなことを思ってる人の目に触れるところに書くということはかなり意味がある。

先ずはmemento moriの解釈について。これは死に追われ、つまりは絶えず死を意識した行動をして後悔のないようにしよ、というもの。つまりのつまりは明日死ぬかもしれないから何もしないで死ぬのはもったいない、だから何か今日やっておこう、というわけではないということ。これを言いたい。
色々理由があるのです。でも強いて言っておくべきなのは、明日死ぬかもしれないからなにかをどうかしようと思ってもそれは不可能なことであり、いや、そういう思想を持とうというだけのことだよ。と君は言うかもしれないがそんな妄想は持つだけ無駄であるのでは。

僕なんかこの頃生きてる気がしてないってほど疲弊しているけど、そんな状態がふっと明日、変わるんじゃないかなんて思いはしないし、(それがもし魔法によってそうなるのであっても望みもしないが)
なんというか難しい話でそんなことも考えれないくらい疲弊していまして( )


こういう状態に陥る時に限って、まあ限ったわけじゃあないが、ひとつのことを考えてそれに対してコンプレックスだったり、それを考えてネガティブな1日が始まる、みたいなことが続く。

そういったことで悩むというのは案外楽しいし、例えば過去に今の自分がこう考えることがないような道も選べたのに(つまりはこのことで悩まないという選択肢があったわけであるから)自分がこの選択肢を選んで此処にいるというのは感慨深い。(好きで選んだ選択肢では無論無いし選択肢といっても選べた道はそう多くはないという…)



I reported in my body だったこと

何事も半端に取り組むと、なんとなく無力感というか空虚感というかなにも自身の周りに残っていないような気持ちになる訳ですが、この頃そういう状況を考えています。I report in my body (megwinが英語全然喋れない時にwithではなくinを使ってた)なわけです。


余暇という言葉の意味、言葉の意味なんて使い手の伝えたいことが伝わればいいのだから。と言って自分の考える意味をつけるのはご自由ですがこれは辞書で引くと充実した日々の中の暇な時間。と解釈できるんです。つい先日ようやく「船を編む」を見まして色濃く辞書編集辞書編集と影響を受けてるわけですが。

何故にいきなり余暇という話が出てきたのかというとこの空虚感の漂う中途半端な人間の余暇は前述した意味の余暇ではないことが多い気がするからです。
充実した日々の中でというところからなにか当てはまっていないなとは勘づくわけですけれども更にそんな日々の中の、切り離された自由な時間なんて言われたらそんな余暇を楽しんでいる中途半端な人間はいない気がしてきます。

中途半端に何かを、家での生活であったり人との関わりであったり電車の待ち方だったり、勉強だってそうですがそういったことに中途半端な人、それってその中でもタイプが二極化していて一般よりも何かに悩んでいる人と全く考えてない、ぼーっとしている人とがいると感じるのです。

僕はこれまでよく悩んでる人と話をしてきたけれど、総じて彼らは(僕と同じ様にw)何を言ってるのかわからない。もっと言うと、話が具体的でない。とても抽象的なこと、更には社会でもう通念となっているようなことしか言ったりしない。
言ってる本人はなんとなく満たされても聴いてる方は、そんなこと知ってるぞと、言うわけです。


そんな人たちはおそらく現実逃避、誰かに成りきる、みたいなことをしている気もする。肩書きであったり容姿であったり妄想してそれに振り回されている。

一旦自分を見つめ直して(在り来たりな言葉かもしれないが)自分を知る(?)ことをしてみると、あら不思議とても気持ちがいい。


本を読もう、川原で。

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2014夏号No.50Thinkを読んだ。

三省堂でフェアが開催されていて、覗いたのだけれどシンクを購読しているわけじゃない僕の目にこの雑誌が入ってきたのは表紙にリベラルアーツという言葉が入っていたからだ。それだけです。

これは今日買いに行ったんだけれど今日は非常に稀な日でしてね。すこし色々考えながら御茶ノ水の駅で降りたんです。悟りを開いたようなね。
なぜ世界のエリート達はリベラルアーツを学ぶのか?と銘打っているわけですがその通り1ページ目から冊子いっぱいに所謂エリートと言われる人達のリベラルアーツに対しての意見であったりを自身の経験を含ませて話している。面白い。
僕はこういう人たちを見ると自分もやらなきゃと思いたい(思いたい…)人なので自分のモチベーションを上げるためとしても見て見たんですね。僕は高校生で彼らの高校名を見るんだけど例外があるところだから甘んじやすいところだけどいい高校をみなさん出ていてなんとも言えない感じになるわけ。

でも今日書きたかったのはそんな事じゃあない。気づいたことは、こういう人たちって(特にリベラルアーツに際しての回だったからかもしれないが)学歴に支えられてコメントをしていないということ。もちろん経歴の紹介はあるんだけれども、それによってこちら側、読む側の、文章に対する第一印象というのはあまり変わらない。なんというか違うんだけど、肩書きは付いてくるだけだよ。みたいな空気にこの雑誌のページを開いた瞬間になる。


行動をする、若しくは行動を和えてしないという場合で有っても理屈はとても重要だと考える。例外なく、自分が長期間苦しんでいるコンプレックス、人によって様々だと思うがそれを挽回、無くすために行動を起こす際、理屈抜きで行動するのはよくない。

出る結果が違ってくるに決まっている。

本を読もう。川原で。

I wanna be Leland Stottlemeyer

この頃見過ぎているドラマなので必然的にこの話題にはなるのだが、Mr.monkに出てくるリーランドという警部が出てくるんだけどその人をシリーズ通して見てて、ああ自由に生きてるなあと

ドラマだからそりゃ自由も何もそういう台本でしょと思うかも知れないけれどはっきり言ってドラマ以外でも人は自分たちの台本通り動いているんだから原理は一緒でしょ。

彼の生き様の何処が憧れるものかって自分のしたい仕事、命をかけれる友人、刺激的な毎日…なんてあげていくとキリがないけれど。
どれも僕らの多くには無いもので、欲しいけれどドラマだから、映画だからと言ってなんというか空白の部分なわけだ。

それを妥協と言わずに何を偉そうに妥協するなと言っているんだという感じがしてきたらそれはかなりハングリーな印かもしれない。

ともかく何もかも置いておいて行動するとすると、なんていう例えは意味がある場合もあるけれど今回は無い。

何もかも置いて人は実際に行動できないわけだから自分の理想のプランを立てるときは今の自分から繋げていく必要がある。
性格だってもう僕は持っているし人種だってあるし生まれた境遇だって変えられない。
明日からレゲエをかけながらベーコンエッグと食パンで朝食を一生とっていくなんて不可能なわけで(笑)

そうやって自分の理想のプランを立てるときに自分の現状を考慮した時、理想のプランが本当の理想ではなくなってしまう僕のような人にはなにか刺激薬が必要だ。刺激役かもしれはいが

自由な時間

学校の授業で珍しく面白いことをやっているので少しそこから。

内山節という哲学者の書いた本が現代文の教科書に載っていてそれを授業で扱っているのだが、彼の言っていることがとても面白いということ。

現代はコンピューターとか交通手段も含めて昔よりも効率化され、私たちの自由になる時間は増えたはずである。それなのに私たちが自由だと感じることのできる時間は(自由になる時間のこと)過去よりもずっと減っている。何故だろう。

というような感じ。
これはちょっと面白い。何が面白いかって僕ら現代人は自由な時間が無い!無い!と叫びつつそれについて考える時間を取りこういったことを考えないのだから。それなのに同じ現代人の中からこういった問いに向き合い、世間から評価されている。そのことに僕はこの世の安定感というかこの世への安心感というか、を感じずにはいられないのだ。


実はこの問い、答えを得るのはとても難しい。というか答えがあるかどうか知ることが既に難しい気もするが。簡単そうに聞こえながら手間を要する作業がこの世界にはいっぱいあるけれどこれはそれなんじゃないだろうか。



it's a gift,and a curse

この頃。多分このサイトに書き込み始めたくらいから、僕は自分の生活に前進というものがないと感じている。6日間学校に行って面白いとは言えない学問を学んでは日曜日ぼーっとして、なんだかもったいないとしか思えない。何がもったいないのかって、時間もそうだけれどこの時期(年、月、日)にしか考えられないことを考えていない若しくはこの時期にしか行動できないことを行動していない。それがもったいないと感じるのであるわけだ。
しかし学校が面倒臭いから自分にプラスになる道を進むために休むという極論には疑問を抱かざるを得ない。学校に行きながら残った時間で何かをしていた人がそう言うのであれば納得する面はある。だけれど今現在何にもしていなくて学校を辞めて何かを始めるというのは、さあうまくいくかな。と思ってしまう。身を置くところが変われば行動も変わるだろうがそれが身を置くべきところでなくてはいけない。そうでなければ意味がない。
身を置くべきところというのはあくまで自分だけの考えによるものではないと私は考えるのだが、自分の身を置く場所を変えるような行動家が人の意見をあっさり聞き入れるとは思えないしそうやって流されても良くない。やはり心をガシッと掴んでインスピレーションを与える、そんな自分に影響を与える何かがここでも必要になってくるのである。

総じて
自分の今何かに不満を持っていてそれをいい方向、望む方向に変えたいというのであれば自分に働きかける大きな影響が必要だがそれは自分から見つけにいくべきものでもあり、自分の行動による反作用としてインスピレーションを与えられればそれが良質な影響でもあるのではないかと思う。

でも正直世界は広いわけでその中で僕が悩んでいるなんてと考えるととても面白い。それを面白いと思える自分の頭の中も面白い。と思う自分の何かも面白い。

天賦の才です 難儀なね。

Appleを敬愛せざるを得ない理由の一つ

いきなりどうでもいい人にとってはどうでもいいこと書いちゃいますけど

さっき見てたApple.incのiMacのページ、あれすごすぎません?iMac retina 5Kディスプレイってやつなんですけど。

画面をスクロールすると下にページがずれていくんじゃなくて、なんとピンチアウトされたようなデザインになってるんです。思わず唸っちゃいましたよ。ああこれは…って。

 

5Kの繊細さをも表現しているのでしょうが、この演出というかデザイン?はね、ここ1年位の僕のネットサーフィンで見つけたページで一番なんというかグッと来たね。

前から皆さん承知の通りアップルはミニマルミニマルな感じを全面にだしていてホームページも本当に魅力的だったんだけれど。

じゃあなんで僕を始め(僕には知識が少ないこともあるが)みんなはビームスとかおしゃれなサイトを置いといてアップルのホームページを評価するもしくはああすごいいいねって思うのかというと

私見(いつも)ですがこうです。すごく仰々しいよく使われる言葉でキレイ事のようになって重みのない表現になりますがこれです。

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている。

とでもいうところにつきます。私見+私の偏見になると

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている(と思わせる)。

になるんですけどそれはおいておいて。

 

 

やっぱり中国の通関するのかどうかっていう商品を売っているようなサイトもそうですけども、この2014の時代に必要な技術としてホームページのデザインっていうのがありますよね。しかもそこで大事なのが(今日の日本のを始め世界の多くの企業では無理だろうけど)製品の宣伝(ホームページデザインであったり)をする人はやっぱり製品化に何らかの形で関わった人がいいということ。最高のキャッチフレーズとかHTMLの技術的な面もあるから一概には言えないところだけれど

実際のことなんて知らないけれどそれが消費者僕達にしらしめるようにしてくれているのがアップル。実際のことなんて知らないわけだから本当はそうではないかもしれないけれどそうしたらまたそこに(だますことに)見習うべきものがあるわけである。

吾輩は猫ではない。

 

 

噂のiMacのページは↓

Apple - iMac Retina 5Kディスプレイモデル

まあこういう新商品の紹介ページはすぐURL死んでしまうけどアップルの場合いちいちクリップしている外人さんがいるので調べてみると初代iMacのページとか見れます。helloのやつ。