シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

インスタントミュージック

毎朝駅で電車を待っている際に感じることがある。
僕は学校の方向的に自分の最寄駅からは東京方面の電車に乗るのだが志望していた高校が逆方向だったので毎朝ぶつぶつ思うのである。このサイトに書き殴っていることの原動力の4分の一くらいは僕が高校受験に落ちたことにあるので、しつこいと思っても聞いてくれたまえ。

幼稚な理由感が我ながら否めないが、東京行きの電車というのは朝方、とても混むものである。反対に逆向きはガラガラなのだが、行きたくもない学校に毎朝ぎゅうぎゅうになっていくのは惨めだ。みんなもやってるんだよ。なんて言うのはナンセンスだ。みんなって何処までを指しているのかわからないけれど僕はこれに関してこんな惨めな思いをしていない人を知っているわけで、みんな、everyone100%では無い。

それにやはり受験というのは、自分との戦いだと言われるが、確かにそれはそうかもしれないがそれと同時に同学年(大学受験ではその世代の人たち)との戦いでもあると思う。
つまり人と自分を比べることを迫られることが多い。実際僕はこれがかなりコンプレッサーになっている、というか気にしている。

朝ホームで待ってると向かいのホームで逆向きの電車を待ってる高校生がいるんだよなあ。あれを見るともうなんていうか、いやーな屈辱感がこみ上げてくる。

こんなことを言いたくなる。

スピ系や自己啓発の本には運まで努力でどうにかなると言いたげな雰囲気があるが、それはない。


Go with the flow

日々の何の変哲も無いと言われる毎日を有意義に送れ言われても、趣味に没頭したり、偉そうに哲学書を読んでみたり、レゲエかけながら風呂に入ったりとそんなことをしてしまいがちだが、今の僕は家の中にいるという選択はしないのではないかなんて思う。

家っていうのは不思議なもので、なんだか外界から遮断されたシェルターみたいな言葉が当てはまりそうなくらいだ。これを語ると同時に無視してはならないのは文化、特に国と国の文化の差であろう。今年僕は初めて海外に行ったけれど、あれほど日本に文化的影響をもたらしていたアメリカでさえ家のあり方というのは僕ら日本人が普段持っている考えとは異なっていた。

家庭によって様々であると思うが、僕がホームステイした家は玄関に上がっても靴を脱がない。寝室までも靴で行って寝るときだけベットの上では脱ぐ。みたいな。とても外界との隔たりを感じない。履き替える必要もなく外にぱっと、飛び出していける。

ここで日本ではそんな家は少ないよね、ということを言いたいのだが考えてみると日本は日本で縁側という西洋風に言えばベランダみたいなものがある。廊下になっているからベランダとは違うかもしれないともふと思うのだが。



今日はこの、家というものについて考えてみよう。誰しもが考えるべき、いや、強意をもって考えなくてはいけないものなんじゃあないだろうか。


家に纏わる話として斬っても離せないものとして家族という存在があるわけだが、家族というのは少し冷静に考えてみると冷静に考えてみると不思議な、というか他のあらゆる物と一線を画する存在である。家族によって、自分中心にこの世界は回っていないのだ と知り、家族によって他人との境界線が見えてきたりすることもある。自分が養ってもらっている立場であれば、渦巻く気持ちが家族に芽生え、歌を作りたくなるだろうし逆であってもそんなことがありそうだ。


家という、外界からいわば遮断された、陣地にそんなにも複雑な関係があるなんてそれもまた不思議な事ですね。(映画監督とかは家族の関係を単純だと表すのかも知れないけれど。)


最初の話に戻って、日々を有意義に過ごすためには。という話をする。

外に出る。空気がいいところに行くか、空の曇ったところに行くのかはその時の気分で。

それから音楽を聴く。良い音質で集中して聴くのもいいし、誰かの子供の野球の試合をみながら軽くbgmとして片耳で聴くのもいい。

選曲は至極大事である。言語はなんだっていい。気分でチョイスする。その時に若いj-popのロッカー達を馬鹿にしたりk-popのハングルの歌詞カードを見て笑うなんてことはしなくたっていい。

売れているシンガーにしろストリートのおじさんにしろメロディーに乗せて言葉を作っているわけだからそう、有り触れた、それでいてあまり自分が使わない言葉を思い出させてくれる。それってすごい楽しいです。


それでいて誰にも縛られていない、自由な存在であるという普段自分が馬鹿にしている役を担当してみる。そのためにはとびきり辛いソースを飲んでみたり、冬一番の日に冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ時に感じるオイル臭さを一人笑って認めた時に生まれる感情である。


そして僕が思うに、最も大事なことは、人に失望せず、自然に任せるということです。

go with the flow です。これはAdrian Monkの言葉ですが座右の銘にしたいくらい偉大な言葉です。

そんな風に、満員電車の中では自分の座右の銘となるべき語を発掘するのは如何でしょうか。





寝ても覚めても繰り返す"I C A N"

いま自分の居る(in)状態を客観的に知る、というか見るというか状態を把握するというのは凄く疲れることであり、なかなかやりたがらない。人は。
が、しかしもし(8割がた)客観的に見た自分の状態が、自分が考えていたよりも悪かったらそれを知らないというのはなんとも愚か、。それにそんな自分の状態を脱するためにこれから先に取っていく方針に支障が出てくる気がするのです。
ですから自分の状態を正確に、尚且つ僕らは社会の中で生きているのだから、一般的な理念に、つまりは常識に基づいた批評をして然るべきであろう。


スナイパー、縁取ったその世界に何が見えるって言うんだ

とても需要のある記事を書きます。自分で需要あるとか開き直るとなんだか嫌な人間味が出てしまうのだけれど、みんなが思ってて再確認したいことを誰かが書く、それも同じようなことを思ってる人の目に触れるところに書くということはかなり意味がある。

先ずはmemento moriの解釈について。これは死に追われ、つまりは絶えず死を意識した行動をして後悔のないようにしよ、というもの。つまりのつまりは明日死ぬかもしれないから何もしないで死ぬのはもったいない、だから何か今日やっておこう、というわけではないということ。これを言いたい。
色々理由があるのです。でも強いて言っておくべきなのは、明日死ぬかもしれないからなにかをどうかしようと思ってもそれは不可能なことであり、いや、そういう思想を持とうというだけのことだよ。と君は言うかもしれないがそんな妄想は持つだけ無駄であるのでは。

僕なんかこの頃生きてる気がしてないってほど疲弊しているけど、そんな状態がふっと明日、変わるんじゃないかなんて思いはしないし、(それがもし魔法によってそうなるのであっても望みもしないが)
なんというか難しい話でそんなことも考えれないくらい疲弊していまして( )


こういう状態に陥る時に限って、まあ限ったわけじゃあないが、ひとつのことを考えてそれに対してコンプレックスだったり、それを考えてネガティブな1日が始まる、みたいなことが続く。

そういったことで悩むというのは案外楽しいし、例えば過去に今の自分がこう考えることがないような道も選べたのに(つまりはこのことで悩まないという選択肢があったわけであるから)自分がこの選択肢を選んで此処にいるというのは感慨深い。(好きで選んだ選択肢では無論無いし選択肢といっても選べた道はそう多くはないという…)



I reported in my body だったこと

何事も半端に取り組むと、なんとなく無力感というか空虚感というかなにも自身の周りに残っていないような気持ちになる訳ですが、この頃そういう状況を考えています。I report in my body (megwinが英語全然喋れない時にwithではなくinを使ってた)なわけです。


余暇という言葉の意味、言葉の意味なんて使い手の伝えたいことが伝わればいいのだから。と言って自分の考える意味をつけるのはご自由ですがこれは辞書で引くと充実した日々の中の暇な時間。と解釈できるんです。つい先日ようやく「船を編む」を見まして色濃く辞書編集辞書編集と影響を受けてるわけですが。

何故にいきなり余暇という話が出てきたのかというとこの空虚感の漂う中途半端な人間の余暇は前述した意味の余暇ではないことが多い気がするからです。
充実した日々の中でというところからなにか当てはまっていないなとは勘づくわけですけれども更にそんな日々の中の、切り離された自由な時間なんて言われたらそんな余暇を楽しんでいる中途半端な人間はいない気がしてきます。

中途半端に何かを、家での生活であったり人との関わりであったり電車の待ち方だったり、勉強だってそうですがそういったことに中途半端な人、それってその中でもタイプが二極化していて一般よりも何かに悩んでいる人と全く考えてない、ぼーっとしている人とがいると感じるのです。

僕はこれまでよく悩んでる人と話をしてきたけれど、総じて彼らは(僕と同じ様にw)何を言ってるのかわからない。もっと言うと、話が具体的でない。とても抽象的なこと、更には社会でもう通念となっているようなことしか言ったりしない。
言ってる本人はなんとなく満たされても聴いてる方は、そんなこと知ってるぞと、言うわけです。


そんな人たちはおそらく現実逃避、誰かに成りきる、みたいなことをしている気もする。肩書きであったり容姿であったり妄想してそれに振り回されている。

一旦自分を見つめ直して(在り来たりな言葉かもしれないが)自分を知る(?)ことをしてみると、あら不思議とても気持ちがいい。


本を読もう、川原で。

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2014夏号No.50Thinkを読んだ。

三省堂でフェアが開催されていて、覗いたのだけれどシンクを購読しているわけじゃない僕の目にこの雑誌が入ってきたのは表紙にリベラルアーツという言葉が入っていたからだ。それだけです。

これは今日買いに行ったんだけれど今日は非常に稀な日でしてね。すこし色々考えながら御茶ノ水の駅で降りたんです。悟りを開いたようなね。
なぜ世界のエリート達はリベラルアーツを学ぶのか?と銘打っているわけですがその通り1ページ目から冊子いっぱいに所謂エリートと言われる人達のリベラルアーツに対しての意見であったりを自身の経験を含ませて話している。面白い。
僕はこういう人たちを見ると自分もやらなきゃと思いたい(思いたい…)人なので自分のモチベーションを上げるためとしても見て見たんですね。僕は高校生で彼らの高校名を見るんだけど例外があるところだから甘んじやすいところだけどいい高校をみなさん出ていてなんとも言えない感じになるわけ。

でも今日書きたかったのはそんな事じゃあない。気づいたことは、こういう人たちって(特にリベラルアーツに際しての回だったからかもしれないが)学歴に支えられてコメントをしていないということ。もちろん経歴の紹介はあるんだけれども、それによってこちら側、読む側の、文章に対する第一印象というのはあまり変わらない。なんというか違うんだけど、肩書きは付いてくるだけだよ。みたいな空気にこの雑誌のページを開いた瞬間になる。


行動をする、若しくは行動を和えてしないという場合で有っても理屈はとても重要だと考える。例外なく、自分が長期間苦しんでいるコンプレックス、人によって様々だと思うがそれを挽回、無くすために行動を起こす際、理屈抜きで行動するのはよくない。

出る結果が違ってくるに決まっている。

本を読もう。川原で。

I wanna be Leland Stottlemeyer

この頃見過ぎているドラマなので必然的にこの話題にはなるのだが、Mr.monkに出てくるリーランドという警部が出てくるんだけどその人をシリーズ通して見てて、ああ自由に生きてるなあと

ドラマだからそりゃ自由も何もそういう台本でしょと思うかも知れないけれどはっきり言ってドラマ以外でも人は自分たちの台本通り動いているんだから原理は一緒でしょ。

彼の生き様の何処が憧れるものかって自分のしたい仕事、命をかけれる友人、刺激的な毎日…なんてあげていくとキリがないけれど。
どれも僕らの多くには無いもので、欲しいけれどドラマだから、映画だからと言ってなんというか空白の部分なわけだ。

それを妥協と言わずに何を偉そうに妥協するなと言っているんだという感じがしてきたらそれはかなりハングリーな印かもしれない。

ともかく何もかも置いておいて行動するとすると、なんていう例えは意味がある場合もあるけれど今回は無い。

何もかも置いて人は実際に行動できないわけだから自分の理想のプランを立てるときは今の自分から繋げていく必要がある。
性格だってもう僕は持っているし人種だってあるし生まれた境遇だって変えられない。
明日からレゲエをかけながらベーコンエッグと食パンで朝食を一生とっていくなんて不可能なわけで(笑)

そうやって自分の理想のプランを立てるときに自分の現状を考慮した時、理想のプランが本当の理想ではなくなってしまう僕のような人にはなにか刺激薬が必要だ。刺激役かもしれはいが

自由な時間

学校の授業で珍しく面白いことをやっているので少しそこから。

内山節という哲学者の書いた本が現代文の教科書に載っていてそれを授業で扱っているのだが、彼の言っていることがとても面白いということ。

現代はコンピューターとか交通手段も含めて昔よりも効率化され、私たちの自由になる時間は増えたはずである。それなのに私たちが自由だと感じることのできる時間は(自由になる時間のこと)過去よりもずっと減っている。何故だろう。

というような感じ。
これはちょっと面白い。何が面白いかって僕ら現代人は自由な時間が無い!無い!と叫びつつそれについて考える時間を取りこういったことを考えないのだから。それなのに同じ現代人の中からこういった問いに向き合い、世間から評価されている。そのことに僕はこの世の安定感というかこの世への安心感というか、を感じずにはいられないのだ。


実はこの問い、答えを得るのはとても難しい。というか答えがあるかどうか知ることが既に難しい気もするが。簡単そうに聞こえながら手間を要する作業がこの世界にはいっぱいあるけれどこれはそれなんじゃないだろうか。



it's a gift,and a curse

この頃。多分このサイトに書き込み始めたくらいから、僕は自分の生活に前進というものがないと感じている。6日間学校に行って面白いとは言えない学問を学んでは日曜日ぼーっとして、なんだかもったいないとしか思えない。何がもったいないのかって、時間もそうだけれどこの時期(年、月、日)にしか考えられないことを考えていない若しくはこの時期にしか行動できないことを行動していない。それがもったいないと感じるのであるわけだ。
しかし学校が面倒臭いから自分にプラスになる道を進むために休むという極論には疑問を抱かざるを得ない。学校に行きながら残った時間で何かをしていた人がそう言うのであれば納得する面はある。だけれど今現在何にもしていなくて学校を辞めて何かを始めるというのは、さあうまくいくかな。と思ってしまう。身を置くところが変われば行動も変わるだろうがそれが身を置くべきところでなくてはいけない。そうでなければ意味がない。
身を置くべきところというのはあくまで自分だけの考えによるものではないと私は考えるのだが、自分の身を置く場所を変えるような行動家が人の意見をあっさり聞き入れるとは思えないしそうやって流されても良くない。やはり心をガシッと掴んでインスピレーションを与える、そんな自分に影響を与える何かがここでも必要になってくるのである。

総じて
自分の今何かに不満を持っていてそれをいい方向、望む方向に変えたいというのであれば自分に働きかける大きな影響が必要だがそれは自分から見つけにいくべきものでもあり、自分の行動による反作用としてインスピレーションを与えられればそれが良質な影響でもあるのではないかと思う。

でも正直世界は広いわけでその中で僕が悩んでいるなんてと考えるととても面白い。それを面白いと思える自分の頭の中も面白い。と思う自分の何かも面白い。

天賦の才です 難儀なね。

Appleを敬愛せざるを得ない理由の一つ

いきなりどうでもいい人にとってはどうでもいいこと書いちゃいますけど

さっき見てたApple.incのiMacのページ、あれすごすぎません?iMac retina 5Kディスプレイってやつなんですけど。

画面をスクロールすると下にページがずれていくんじゃなくて、なんとピンチアウトされたようなデザインになってるんです。思わず唸っちゃいましたよ。ああこれは…って。

 

5Kの繊細さをも表現しているのでしょうが、この演出というかデザイン?はね、ここ1年位の僕のネットサーフィンで見つけたページで一番なんというかグッと来たね。

前から皆さん承知の通りアップルはミニマルミニマルな感じを全面にだしていてホームページも本当に魅力的だったんだけれど。

じゃあなんで僕を始め(僕には知識が少ないこともあるが)みんなはビームスとかおしゃれなサイトを置いといてアップルのホームページを評価するもしくはああすごいいいねって思うのかというと

私見(いつも)ですがこうです。すごく仰々しいよく使われる言葉でキレイ事のようになって重みのない表現になりますがこれです。

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている。

とでもいうところにつきます。私見+私の偏見になると

製品の特徴をやり過ぎることなく伝えている(と思わせる)。

になるんですけどそれはおいておいて。

 

 

やっぱり中国の通関するのかどうかっていう商品を売っているようなサイトもそうですけども、この2014の時代に必要な技術としてホームページのデザインっていうのがありますよね。しかもそこで大事なのが(今日の日本のを始め世界の多くの企業では無理だろうけど)製品の宣伝(ホームページデザインであったり)をする人はやっぱり製品化に何らかの形で関わった人がいいということ。最高のキャッチフレーズとかHTMLの技術的な面もあるから一概には言えないところだけれど

実際のことなんて知らないけれどそれが消費者僕達にしらしめるようにしてくれているのがアップル。実際のことなんて知らないわけだから本当はそうではないかもしれないけれどそうしたらまたそこに(だますことに)見習うべきものがあるわけである。

吾輩は猫ではない。

 

 

噂のiMacのページは↓

Apple - iMac Retina 5Kディスプレイモデル

まあこういう新商品の紹介ページはすぐURL死んでしまうけどアップルの場合いちいちクリップしている外人さんがいるので調べてみると初代iMacのページとか見れます。helloのやつ。

 

 

 

ここ200日の記事の整理

 

自由に生きる - Think different

上野公園に行ってきたのでなぜか写真を何枚か貼る - Think different

犬の日課 - Think different

人に会うことの意味 - Think different

透明なコンクリートができたみたいです、すごすぎる - Think different

気がつきゃ勇み足そんな日には深呼吸をしてみるんだ - Think different

いつだって僕らは自由だ - Think different

個性って 【『逆立ち日本論』(養老孟司 内田樹 新潮選書 2007)P171~P173より引用】 - Think different

個性って no.2 - Think different

これから鉄塔を撮り続けてみたい - Think different

それもまた僕にとって真実 - Think different

認知バイアスについて - Think different

人につく愚かさ - Think different

アブノーマルになりたいですか? - Think different

てんとう虫Aとてんとう虫Bの違い - Think different

#1 from US - Think different

僕が日本を離れて知ったこと #2 - Think different

高校受験生諸君へ - Think different

もしも昨日が選べたら - Think different

ミニマリズム的な発想 - Think different

明日があるーさー - Think different

今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ - Think different

 

今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

http://instagram.com/p/tpDB7fHGw6/

一言で言うと今まで順番に並べてきたものを逆転させてみるということ

 

例えば君が明日死ぬとする。それがわかった時、何をするだろうか。

僕は自分が明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、なにもしないだろう。

もっと正確に言えば

「今の僕は明日死ぬと疑う余地なき宣告を受けたら、何もできないだろう」

だろう。

これを今見ている人は、それがどうしたと言いたいところだとは思うけどちょっと言いたいことを抑えて抑えて。

 

ここまで考えて僕が自分に問いかけざるを得なかったこととは、果たして今の僕といわゆる未来の(the who in several years later)自分とは考え方が変わっているのだろうかということである。

ここでの考え方とは、何かに対する自分の考え方という漠然としたものというよりは、自分が死ぬという最大級にまずい(やばい)状態に陥った時に(ドラマ的な言葉で言えば、最悪の精神状態の時)自分が導き出す答えの考え方であるが、(最悪の精神状態であるかどうかはわからないが)これは少し考えてみると面白い。

 

だけれどもこんな難しくて面倒くさいことを考える前には何かしら自分の目標というか、その考えた末に得られる何か、プラスになるものを定義しておくことが思考途中で挫折しない秘訣だとも思うので書いておくと

僕は明日死ぬとわかった時に何もしない奴にはなりたくないということだ。なにもしないって揚げ足を取る捉え方をする人はあまりいないと思うが、もちろん身の上整理とかをするとかそういうわけじゃない。

 

さて、最初に僕が至った考えとは

(実は写真もこの論からインスピレーションを受けて撮ったものなのだが)

もし、僕が極限の状態になったときに考えが変わるということは自分が死ぬことに関係している。(数学の証明みたいなめんどくさい言い回しですいませんが)

ここで死ぬということを考える。(死生観はこれから僕は学んでいきたいもののひとつであるから見解は変わるかもしれないが・・・)

死ぬということは自分がいなくなるということである。自分がいなくなるって、なにから?というわけであるがこの世から自分がいなくなる。自分の意識が、自分の存在が失せる。それって、かなりまずいことだ。

それはさておき、今僕は、意識がなくなると書いたわけだが、それは恥を知らなくなるということだ。(死後の自分の名誉であったりはするかもしれないが)恥を知らないと、僕ら日本人、人間はとてもできることが広がると思う。僕らは社会の中で生きているわけで当然恥というものを意識している。僕に限ったことではないとは思う。日本人を始め多くの人は、何か行動を起こすときに倫理的な判断よりも恥がどうだかこうだかとふと無意識に考えている気がする。

 少し戻ってこのことから何が言いたいかって、もし死ぬ前に自分の考え方が変わるとしたら、それは恥により自我に規制されていた行動が目をさますということ、つまり、自分がこれから生きていく上で気にしていく、背負っていくものがなくなったとわかった状態での思考ができるということだ。

 

そんな今まで積み上げてきたバランスゲームの積み木を一番下から引き抜いてぶっ壊して新しい積み木を立てる。

そんな考え方はかなりかっこいい。

 

 

と、此処まで寝ぼけ頭ながらにつらつら書いてきたわけであるがこんなさえない頭の状態で自分の発表を終えるのは息苦しい。だからこれから先、この問い、もし明日死ぬとしたら。について考えていこう。

明日があるーさー

今日、ニューバランスのコマーシャルでテニス選手が球を打ちまくった後に10000球打った後に分かることは更に10000球打つべきだということだ

というフレーズが流れるものを見たんだけれどこれで
ああそうだと思い出したことがあるので書きたいと思います。

人間誰しも食べだしたら止まらないじゃないけれどやり始めたら終えられない。みたいな経験をしたことがあると思うんです。それは部屋の片付けだったり、定期テスト勉強だったり、小説だったりするわけですが(ゲームは違いますよ。始める前から面白いと分かりきっていますから)これらの面白いところは、自分がそれらを始める前はつまらない、やる気が出ないと思っていたことでもやりはじめたらそれこそ止まらないという状態になれるということです。

このパワーを自分が何かに努力するに向けて応用させたいと万人が思ったでしょうがいまいちそんな輩の自己啓発文を読んでも文章を読んでも、うーんと言わざるを得ない感覚になることが多々あり。。



このブログが書籍化できない理由として起承転結の結まで筆者の思考が届いていないことが理由だと思いますが、実際いつもそこまで自分の思考が届かないことにうずうずしているんです。



ミニマリズム的な発想

Be a simple(let's)

 
 
 
いきなりなんだと思うかもしれませんがこの世界で最も大事な意識すべきものの一つとしてシンプルに物事を捉えるっていうのがあるというお話。日本語にも深いという言葉があるように、結構なものにと呼ばれるものがあったりするわけです。
 
 
ただ、無駄なものを省いて意識を集中させた思考でふと客観視してみるとその事物というのはまた違った顔を見せるよという何気ないことではありますがちょっと面白いことです。常識かもしれないけれども本能的に感じてみるといい物と理性的(?冷静な思考に基づいた考え)にfeelingするべきものって別れていなくて、それは時によってどちらの捉え方を自分が選ぶべきか選ぶべきものだと思ってます。
 
この頃〜べきという表現を文語で使うようにしているのですがこれは英語のshouldのニュアンス的な意味をもたせたいからです。toではないです、、。
 
 
さてさて、
今日は何を書きたいかというと題名にした通りBe a simpleのススメです。
 
余計なものを削ぎ落として、できるだけではなく限界までシンプルにしていく考え方にミニマリズムという主義のようなものがありますが、これを最初に知った時(中学のとき読んだスティーブジョブズの伝記)少し興味を持っていたことを覚えています。
 このブログでは前に書きましたが、自分が意識をしだすと自然と周りで今までは気がついていなかったことが見えてくるようになるんですけどミニマリズムに関しても僕はそれを深く思い知った(笑)のでした。
 
ミニマリズムと聞くとアップルの哲学!みたいなイメージを受けるわけですが僕はあまりミニマリズム的に、ミニマル的に考えが進まない派の人間です。実は。
 
よく広告に
 
  • Less is more – より少ないことは、より豊かなこと
  • Everything you need, nothing you don’t – 必要なものだけ
  • Perfection is achieved when there is nothing to take away – 完璧とはこれ以上削れない状態の事である
なんていうフレーズが使われたりもするけれど確かにそうだとは思いますが自分にはそういう発想ができそうにない。これをなんというのか自由ですが、売れる発想がないというのを自分に認めるのはとても気持ちのいいことではありません。 人に職業の向き不向きは無いんじゃないかと疑い始めてる私ですがこれは議論の余地が、余地というか、議論すべき点です。

もしも昨日が選べたら

もしも昨日が選べたら 

という映画を見た。今日はなにを書きたいのかというとその映画についてというよりはこの題名についてだ。

実際この映画は結構なコメディータッチで何かの考えの因となるには難しいような気もする。じゃあなにかって、もしも昨日が選べたらなんていう発想は無かったということです。

映画の題名ってなかなかセンスがある言葉が使われててそれでいて安っぽくないから何気に好きなんですが今回もなかなか味のある話を僕に考えさせてくれました。


明日を選ぶ云々の話はよく自己啓発書で出てくるジャンルなんじゃないかと思うけども、もう終わったこと、昨日を選ぶ。なんて考え方はちょっと新鮮だ。

これから先、つまり目の前にあることで精一杯の僕らはとてもじゃないがどうでもいい(と感じる)昨日のことなんて考えない。

そして、昨日を振り返ることによって最善策が導き出せるかもしれないのにその労力を惜しんでしまう。「対価は努力で」なんて言葉があるがそれだけ努力は面倒くさい。そして、もしも中途半端にやりたいことがあってもそれを目指すために努力し続けるのは辛い。

ここで、まあそりゃぁね。となると思うので、出てくるのがもしも昨日が選べたらという考え方だ。


昨日が選べたら今日は変わるんでしょうか。普通に考えて昨日の続きを生きているわけですから昨日行った全ては今日へ持ち越される気がします。

それならばこの問いかけの答えはほぼ全員が権力と金と才能をもった人が自分の昨日を生きていることを願うかと思いきや、そうではないところがあるからちょっと面白かったりする。昨日が選べたらといってもそれは昨日なのだからいきなり才能云々…ではなくない?とも思うんですが(笑)

どうしてもこれを選ぶ時には自分の昨日を生きてから考えるわけです。つまりこの問いに遭遇するみなさん全員は自分の昨日を顧慮して考えることしか出来ません。

それならば自分の昨日がこの問いに対する自分の答えに影響してくるのは自明の理ということです。

だからこそこの問いに応えることで自分の欲している、若しくは抱いているなんらかの感情を認識することができるのです。