シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

多分心のもちようの話

2015年2月高校1年の時に下書きになっていた文章を上げておきます。よく意味わからないけど。

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僕らがするべき決断とは、これから2年後にタイムワープできるとした時、その2年間を僕は感覚的には一瞬で過ごすためなにもなにも感じないのだろう。

その2年間はつまりは自分による苦しい決断や面倒臭いことはすっ飛ばして自分がロボットの頭によって動かされているというようなイメージなんだけれどそんなロボット脳に任せておけないような決断を僕は、今日の僕はするべきなのだろう。そうだとわかりつつも、それができないからこの空虚感漂うビル群に囲まれている私たちがいるのですが。
 
でもそう願わないのにそれな状態にいるということはどこか、自分の努力が、もしくは考えの持ち方が力足らず、若しくは違うということなのだろう。
 
 

周囲からの影響が我に及ぼすものとは?

これ、タイミング的に僕の受験結果が芳しくなかった腹いせの記事みたいに見えるかもしれませんが、ちょっとこの考え方が僕の中にあるので書いておきます。

将来見てみて、この考え方が変わっていれば、それは面白いなと思います。そうであればそれはそれでいいなと思います。

 

僕は結構昔から環境決定論者でした。このブログでも何回か書いてきた様に。

環境決定論って、人生の失敗や成功というものは環境に支配されるという考え方のこと。(環境っていうのは不可抗力的であって物理的にどげんもこげんもならない様なことで)

この話があったのですが今日の話は「この三年間、僕、すごく周りに影響されたと思うんです。」ってやつ。

周りの人に、です。

 

僕は高校受験に失敗して偏差値でこそそれほど変わらないものの、所謂自称進学校なるレベルの一段低い学校に進学しました。そこは明らかに僕が目指していた学校とは生徒層が違っていたし(それは入学試験問題を見ても)僕は入った瞬間からバカにしていたのです。

実際入学してからしばらくは学年(450人弱)で本当にトップ、1、2位であったわけです。しかしそれは高校入学前の知識を食いつぶしてる様なもので、そのあとは(これマジで)下から1、2位とかっていう成績をとる様になっていきました。三者面談では先生に(これまたクソ先公なのですが)「大学は行くの?」とか真面目に言われてました。

言い訳ではないですけどそれはもちろん家庭学習を一年間で(つまり高校1年の春から2年の夏あたりまで)1時間程度しかやっていなかったので【一年間で1時間です】当然の成績だから焦ってませんでしたが。(その頃このブログとかでも悠長に哲学対話とか言って偉そうに語ってたと思います。)

それ、何でそこまで落ちに落ちたかっていうと俺が思うに周りの生徒の影響があったからなのです。確かにこれ、「人のせいにしてまたこれ典型的な残念っ子のパターンか」となるでしょうが、私が冷静に客観的に考え、かなり、その影響があると思ってわざわざ書いているわけです。

周りの人間が要するに典型的な「理想は高いけどバカ」だったのです。それはきっと高校受験で成功もしくは準成功してきた人が多かったからだと思うけど。(彼らの半数にとってこの高校は第一志望であった)

つまり「僕は私は東大に行きたい」つって当時の僕が驚く様なクソみたいな成績をとってるわけです。あとは授業中、クソみたいな発言するわけ。最初は、「お前らじゃ無理無理」と僕も思ってるわけですが、そういう人たちが多すぎ、そしてそれがずっと続くものだから「この成績でも東大目指せるんだ」的な謎の自信が出てくるわけ。それは全くもって勘違いなんだけど。(ここにもツッコミたい人いるだろうけど今日はそこスルーで)学校がそんななら塾で情報もらえばいいじゃんって言っても予備校は(僕はK合ね)あんまり他の生徒と交流ないんですよね。

 

そういった環境の中にいるとどうしても染められていく。少なからずそれはあった。断言。自分の物事を図る際のレベルの基準がどんどん下がっていくのです。「ああ、この程度で難関国立受かるんだ」とか「このくらいでApple入社できるんだ」とか「このくらいで頭いいんだ」とか。そもそも間違ってる彼らからその情報を得るわけだから間違ってくんですよね。それが僕の判断基準として形成されて行って気づいた時には時すでに遅し。

 

これ、残念な人に思われる方も居るかもしれませんが、そして私は実は必ずしも残念であったとは思っていませんが、この三年間で学校の友人から得た、良い影響というのは皆無です。それくらいに思っています。

 

心配性の中学生君の大好きな検索ワードモリモリなのでたどり着くかもしれませんが、そんな君にもそして僕自身にも向けて、学校外とのパイプは持っておくべきだということは大事だと思います。つまり、より広い視野を判断材料を持っておくことは大事だと思います。小並感とか言わないでね。

真!善!美!

真善美という言葉があるらしい。カント哲学の関係の言葉らしい。

 

人間が物事を認識する際、そこでは「真」と「善」と「美」の少なくとも3つの判断を同時に持つということです。

例えば僕が綺麗な花をみるとする、するとそこではこれは「正しい」(造花でない)、「道徳的に正しい」(葉っぱを他の花にかぶって枯らしていない笑)「美的に快い」(綺麗だ!!)って思うらしいのです。

 

例えが悪かった気が幾分しますが、僕が思うに世の中にはこの3つの価値観をもはや兼ね備えて物事を判断していない人っているんですよね。

 

例えば高学歴のくせに、なんなんだ?!って思ってしまうような政治家とか。

 

彼らは「真」「真」「真」な訳です。

 

もちろん3つ以上判断要素ってあるでしょうがここで「善」が抜けてしまうと、よくないわけですね。

 

きっと彼らは(そして僕も現在進行形ですが実感として)、受験勉強を乗り越えて生きてきたわけです。

 

思うに、大学の一般受験等では「 」カッコの中をちょっと横に置いておいて勉強をしなきゃいけなかったりします。例えば、”私のやってるこれって本当に意味があるのだろうか”なんて思ってしまっては(予備校講師的に言えば)危険な訳であってその暇なく勉強をせんといかんわけです。受験勉強自体がそういった「 」カッコの中を空欄にして自分を目標に向かって最適化しなくてはいけないのですから偏差値エリートがそういったことを将来孕むのは不思議ではないのです。

 

話は変わって、この視点はなかなか面白いものがあります。

僕は結構「〇〇」っていうしっかりした理想があります。この時はこうありたい(あるべきだ!)、みたいな。正しいイメージっていうかな。そう存在するべきだ見たいな。

例えば、女子高生は黒髪で、電車を待ってる時は単語帳を読みながらイヤホンでミーハー好みなロックでも聞いている”べき”だ!!みたいなね。

例えば、ロックスターっていうのは売れない時代からライブハウスで照明とかPAとかとコネ作って頑張った末にやっと自主企画ができて、地元から成り上がってく…”べき”だ、みたいなね。

 

そういったものは、僕にとって「真(真実か偽かで真)」であって、「善(道徳的に正)」であって、「美(快い)」わけです。

 

 

ところで僕はこの頃自身の行動を(これまた全く違った尺度ですが)生産的か否かと自問自答することが増えました。

Facebookで友達の近況にコメントすることが生産的だろうか、Instagramでいいね!押すことが生産的だろうか、Twitterで自分の哲学を述べることが生産的であろうかどうか、とかね。

考えて見ると非生産的なんだけれども、やっている張本人はあたかも自分のやっていることが生産的なことだと思ってやってるわけだ。

僕のTwitterのアカウントなんて5万ツイートくらい過去のツイートがあるわけです。

でそんなのアーカイブ見たりしない。つまりその中に、5万ツイートの中にいわば二度と拾わない言葉を一生懸命考えてツイートするわけです。

 

 

言った挙句、僕はノートパソコンを閉じてデスクの明かりをつけます。政治経済のテキストを開くわけです。

ところで好きな子ができた話。

ところで好きな子ができた。

出来たと言っても6月くらいから興味があったんだけれど。同じクラスでとっても可愛い子だ。頭がいいし、話が通じる。もっとも上がっちゃって僕の方が話についていけてない感じがあるけど。夏あたりに友達と行った花火大会の帰りに酔った勢いで君と見れたら素敵だった云々の話ししてから完全に悟られた気がした笑。

伊藤整の小説に、都会に出てきた時に女の子に会う、その子に見出すのは、昔の地元のあの子と同じだ!っていうところなんだよ。みたいに書いてあったけど、

 

僕の中でそういった基本の女性像、ってあまりなかったんじゃないかなとさえ思う。正しい、女みたいなイメージが。そんなところから言って、彼女はとても正しくって僕のイメージにパチってはまった、訳。これを理想のタイプって言うんだなとか思った。将来自分がこれみて、タイプ変わってたら面白いから書いておこう笑

彼女は髪がとっても綺麗だ。クラスで一番綺麗な黒色で品がある髪型をしてる。風に吹かれて髪がふわりとする時の仕草なんかが物凄く僕を緊張させる。彼女の髪は深い黒でその場の空気を緊張させる。僕はいつも緊張している。

そして手が物凄く綺麗だ。彫刻みたいに細くって白魚のような手をしてる。透き通っていて、彼女の透明感ある雰囲気とこれ以上にないってくらい調和してる。器用そうで折り紙だとか文字を書くのだって上手いんだろうと思う。授業中に頬杖ついてノートを見ている格好なんかはなんて言うんだろう、素敵だった。なにか彼女にとってとっても大事なことを考えていて、、何を考えているんだろう。妖艶を漂わせてそこにいる。

表情が素敵だ。話しかけるといつも笑顔だ!なんで!?と思う、僕はそんな顔ができない。声も素敵だ。休み時間になると動物園の如く他の女子たちは品のない声で騒ぎ立てるが彼女の声はその中で坐禅の時に鳴らす木柾のようにすうっーと僕の耳の中にはいってくる気がする。

話のセンスもいい。綺麗な話ばかりする。彼女の生きてる世界って僕の生きてる世界と違うんじゃないかと思うくらい綺麗な話だ。話す度になんて素敵な話をするんだろうと思う。話し方もとっても可愛くて驚く、こんなに可愛い子がこの世にいるんだと。

趣味も僕とよく合う。洋画が好きだ。春樹を読んでる(実は知り合ったきっかけである訳だが)。

彼女と話していると幸せな気分だ。楽しくってしょうがない。ベタ惚れである…。

壮大な自然を前に、生まれてきてよかったなんて改めて思うことがたまにあるが、僕は彼女を前にそんなことを思うことがある。

この頃変化したと思うこと。

この頃変わったなぁと思うことがあります。それは、深く物事を捉えて考えることができるようになったということ、ではありません。それは2.3年前から大して変わってないみたい。

では何かというと、それはその考えたことであったり意見を、わかりやすい言葉で表現できるようになった(する気になった)ってことです。以前、このブログではまさにそうでありましたが、なにを言ってるのかわからない、みたいなところがあった訳です。非常に鋭くものについて分析したつもりなのに、それを対外的に表現するという段階に力を入れませんでした。なぜ、そう変わったのか考えてみると、一言ではきっと、社会人に近づいたって事なのかな。大人と話す機会が増えたし、自分の発言に責任を持つように(持ちたく)なってきました。それから僕は大学で政治経済を学びたいと思ってます、そしてnewspicksとかもよく見るようになったのですがその分野の人って意見をどれだけわかりやすく説明できるか、みたいなのが結構重要な気がしてました。それもあるかも。

僕は常々、相手の言ってることに失望せず、つまりファーストインパクトでバカだと決めつけずに、1時間話を聞いてから判断しようと、そして、僕のこともそうしてくれと、言っていた訳ですが現実そのようなことをする人って少ないし、やってる場合じゃないことが"多い"んですよね、だから、自分は素晴らしい考えを持っている!なんて錯覚するんじゃなくって、それを表現してなんぼやろってことです。

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何故か今日の昼ごはん。

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を読んで

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を初めて読んだのは高校での現国の授業の時間だった。そのあと家で内田氏のブログを拝見してふむふむといったところだった。

しかしこれを読んでからというもの、僕は無意識のうちにネット上の謎出典の文献や知恵袋とかから私見を形成するのを避けていた気がする。

例えば僕はスマートフォンを捨ててビジネスマン向けとされているBlackberryに乗り換えた。そして文藝春秋、世界、Will、読売、産経・・・多くの紙媒体の情報誌を好んで購読するようになった。現代を生きる我々の日常に於いて自分に入ってくる情報を選ぶということは実践しずらいことだけれどもこうやって一種、デジタルデトックスにちかい状態に身を置いてみるとはっきりと情報に対しての己の姿勢が変わる。

と、ここまで僕の文章を読んでされに彼のブログを読んだ人なら気づいたかと思うが、僕は彼の書いた文章の内容に感化されたのではなく、タイトルに一発KOされたのである。

つまり、ネット上の発言というものについて劣化しているのではないかと僕は気づいたのである。劣化している。といっても何を基準に劣化しているのだと決めつけるのだという話になるだろうが、彼が例に挙げているよう、正論やそうでないといった正誤的な問題でなく、紙媒体の歴史のある冊子にくらべ質的に劣化をしているということである。

僕が顕著に思うところに、日本語の使い方がある。

僕自身は、文章を書く際にも好きな言い回しでそれはもう言葉がおかしいだのなんだのということを関係なしに文字を書いているが、それはやはり自己の日記程度の内容物だからこそのものであって、大衆が読むことになるであろう文章に、ネットスラングを多用したり、語法が間違っていたり、わざと間違えていたりするのはいかがなものかと思い、さらにそれは綺麗な文語表記のなされている紙媒体の冊子に比べ、質的に劣っているといえると考える。だからどうということではなく、指摘をしているだけである。

 

話は少し変わるが、情報化社会ということで僕たちの目にする情報の量は、結構多いものになっているらしい。

僕が印象的だった話は、中学校の時の社会の先生が「君たちが今日一日で知る情報量ははるか昔の人間が死ぬまでに知る情報量に相当するんじゃないか」という言葉であるが、まさにそのくらい多量な情報に触れているということだろう。

すると、何が起きるか。僕自身が感じているところに、一つ一つの情報を記憶し理解しておくことができていないんじゃないかということがある。テレビのつまらないコマーシャルのように右から左へ流していくような形で情報に触れているんじゃないかということだ。よく言われることだが、情報に対して受動的になってしまっている。姿勢として。それは、どう考えてもよくない。なぜなら受動的ということはその情報を発信している誰か第三者が存在しているわけであり、それらによる意図の上で知りえる情報に他ならないからだ。ニュースサイトの広告やリンクを見てみてもそういった傾向が強いと感じる。

僕が思うに、知的欲求による行動はいかなる場合も受動的姿勢ではいけないだろう。

寝たいだとか食べたいだとか遊びたいだとか欲求はあるがそれらは昔(昔は知らないので想像するに)から変わらず積極的に消化してきたものであると思うが、知的欲求にたいしては昔(想像するに)は積極的にアプローチをしていたものであろうが、近年は受動的になっている面がある。

近年と古代の差は、なんだろう。

それは思うに、やはり情報を提供する媒体があったかなかったかということがかなり大きいだろう。

例えば縄文時代、竪穴住居式の住まいの先に毎朝、朝刊が配達されるとする。

するとその新聞を住人は読んでいくが、朝から読んで昼頃になって読み終えてしまって違うことをし始めるでしょう。

それは情報を紹介する量が少ないからに所以することであって、やはり情報量が増えれば今と同じ状態になるだろう。

と、まあイメージであったが、そんなことも思う。

そういったことを思いつつ僕はデジタルデトックスに近いことを目指しつつ、今日もまたこうやって日本の侍の心を忘れないでコカ・コーラを飲みながら。

小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん

Thursday, November  12th


イギリスに来て2日が経ちました。いいWi-Fiスポットに行けていないので、ネットに投稿するのは遅くなるかもしれません。今は3日目の朝7時前です。


外国に来ると必ず何か学ぶことがあります。外国に来たから学ぶことが必ずあるというよりは正確には、普段自分がいる世界(社会)の外に自分の身を置くと感ずるものが必ずあると言った方がいいかもしれません。


普段私は旅行に行った際ツアーに参加して観光をするということはほぼほぼ無いのですが、今回は集団での旅行なので止む無く昨日、ツアーに参加してきました。

ロンドン市内をぐるっと周ったのですが、私は国会議事堂が見えたあたりから泣きそうになりました。なんだか壮大すぎて。その日は11月11日でしたから終戦記念日の様な日でした。そのため11時には市内全域で黙祷が行われていました。道行く人も、バスも11時になると止まって、一時ロンドンが完全停止した様な印象を受けました。いわゆる、戦死した先祖に黙祷を捧げていたわけですが、その中私は赤面するのを避けられませんでした。こんなにも先祖に感謝する時を作れるのだなと。女王を尊敬し、愛国心がとてもある。これははっきりと言いますと日本とまるで逆です。真逆です。冷静に考えると我が国のために亡くなった人間に敬意を払うのは当たり前とでも言えると思いますけれども日本はアジア諸国( )の言ってることを鵜呑みにしすぎでしょう。

少し、愛国心がとてもあるなんて中学生が外国について総合研究した時に書いた作文みたいな綺麗事に聞こえることを言いましたが、虚言でなく本当にそうなのです。


それから日本人は、外国に行くと、日本には美味しい食べ物があるだの綺麗な建物があるだの散々ほざくのが恒例となっていますが、世界の中心であった(ある)ロンドンに来るとなんだかそういった日本人の戯言は粘っこくって赤面します。なんだか自分たちはなにもしていないのに自分の属する国の持つアドバンテージをアピールするというのは何処となく嫌な気持ちになるものです。気がひける。


ロンドンの街並みはとても綺麗です。

日本ではロンドンの様な街並みが理想体といった様な風潮がかなりありますから私たちにとって綺麗と感じるのは当たり前ですが。

街並みを見る時にそこにいる人は同時に目に入ってきます。白人の金髪はとてもとても綺麗だし、鼻は高くて凛々しい。顔に凹凸があって彫刻の様。ヘッドホンをしてる黒人には、ピアスをしている黒人には、誰もかないません。これは別に自分にコンプレックスあるわけでは無いのですが、やはり憧れます。かなり強く。

これ、私が昨年サンフランシスコに留学した際にも思っていて、記していた記憶がありますから、なかなかすぐ無くなる感情では無い様です。そもそもこの憧れは無くなった方が良いのかどうかとかね、考えるんですけれども。

こういうことも、外国に来たからこそ思うことであって、やはり人間にはホーム、アウェイっていうのがあって、日本でも都会に行くと、人種の違う外人は見かけます。しかし不思議なことにそこまで彼らに憧れて遣る瀬無い気持ちになるってことはあまり無いのです。ホームでは良くも悪くも自分たちのホームですから優位性を感じるのかもしれません。だから憧れないのかもしれません。


今のところ一言でロンドンについて思うことは、映画の中にいるみたい!ってことです。Hyde park沿いの道路を通っている際に木と木の間に見える石造りの塔の先からチラチラ見える朝日、コーヒーを持ちながら金髪をなびかせて颯爽と赤信号を渡る人、時折街中を走っているトヨタプリウスダウンタウンのとても良い土地にある野村のビル、小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん。


不思議な処

この広い世界には可愛い人がいる。

可愛い人を見ると一瞬なんというかやるせない気分になりがちだけれど後々考えるとこう思う。
可愛い人を見てもその人に対して自分がどうか、なにかするか、ということを思うことはあまりない。つまり美しい馬を見た時と同じように。
 
例えばどうだろう。僕は今所謂受験勉強に励んでいる最中だとする。すると、彼女らも同じようにペンを動かすわけで、模試では僕よりも良い点を取るかも知れない。すると、だ。僕はやるせない気になる。何故か。その子は可愛いからだ。そんな人に容姿でも努力でも負けるというのはそれこそ、本当にお話にならない事態である。
であるから、僕はこのくだらない受験勉強を続けなくてはならないと迫られるのである。



高校生が自由に使える時間をあまり持っていないのかどうかというのは、進学校に通っている受験生と、定時制に通う、高校1年生とでは話が180度変わってくるけれど、実際僕自身は自由な時間が云々は難しいけれど、所謂、時間がないという状態にはない。というかそもそも時間がないなんてことはあり得ない。多くの人にとって。そりゃあ世界には何人か、すごく努力ができる人がいて、彼らは本当に実際、時間が、無いのかもしれないが。

そもそもですよ、そんなことがこういうグループはこうでそこはそこ。なんて言う風に定義は出来ないのだから、不毛な思考を繰り広げることはやめたとして、
そもそも時間が無いなんて言うことって恥ずかしく無いですか?

時間がある人が居るのに、自分はありません。なんて悔しくてとてもじゃあ無いけれど言う意味がない。言うメリットが無いんです。こういった類の言葉って僕はこの頃よく気にしているのだけれど、結構ある。
そして、それを口にしている人ってそれなりな人しかい無い。事実だ。

「僕は自信が無いんです」
「僕は自由な時間が無い」
「僕は君より勉強が出来無い」
「僕は君より容姿が優れ無い」

言う必要が無いし、言うべきでは無いと思う言葉が、こんなにも溢れている。
これを使ってしまうから気づか無いうちに、舐められる。そして自分を舐める。これは非常によく無い。と、僕は思うのだ。

阿保な奴の特徴としてよく言われることで、綺麗事を本当に綺麗事だと見下している。というのは非常に的を得ている。
綺麗事だと言われていることは、其れなりに的を得ていることが多い。

今日電車の中で、「〜66の知識」なんて本の広告があった。なぜ、66なのか。僕であればもしも本の題名をこれになぞらえてつけるのであれば、50か100にするかも知れ無い。

僕の職業観

職業、自分が生きていく上で働く場所。
5W1Hにおいてそれを見つけるだのなんだのと言われ、啓発書の需要の極地だと思いますが、そんな難しいことではないのです。

僕は、職業についてはCan Must Want の3つの円の重なるところに見出すものだと考えています。3つの円とは、色の三原色の円のイメージです。赤と緑と黄色とで真ん中の3つの円が重なっているところは白になっています。あれです。

Canというのは出来ること、つまり自分の得意なものであり、自分が出来ること、そのものです。
Wantというのは自分のしたいことです。
Shouldというのは、すべきこと。するべきであることです。

この3つの円は必ずしも同じ大きさであるとは限りません。例えば、自分の捉えるShouldの円が小さくて、wantがその10倍でもいいのです。

何故このように考えるべきかということを先に話します。
これら(職業観)、すべての人が考えるであろうことというのは、できるだけ簡単に捉えるべきであると思うからです。できるだけシンプルに、ミニマリズム的な発想を持って考えるべきところです。
ですからこのような簡素な捉え方をします。

また、ここで背理法として最初に揚げ足を取ってくるであろう部分としては、じゃあすべての人がMustを小さく認識しすぎてWantばかり増えていったらどうなるのだ。というところでしょう。
これについては、こう考えています。
この問いの続きには反語で、
増えていったらどうなるのだ。そう、誰も汚い仕事はしなくなるだろう。
と続くのでしょうが、そんなことはないのです。
何故ならすべての人が同じ価値観を持っているわけではないからです。

価値観、なんて言葉を使ってなんかありきたりな安っぽい話になりそうだ、と警戒せずに聞いてください。
価値観、それこそがこの職業観を支えているのだから。

価値観の違い、とよく言われますが、それは一体なんでしょう。好きな食べ物?容姿?富への考え方?勉強の必要性の有無への考え方?そんな何気無いことへのいわゆる価値観の差というのがとても大事なのです。塵も積もれば山となる、ともまた違いますが、そんな些細なことでも、人と違うのです。これは認識すべきことで、自身の投票する政党が人とは違う。自分だってその政党を誰かと合わそうと思わないし彼らだって思わない。例えが上手くないのはわかってますが、つまりはそう簡単に人と意見は合わないということです。
昔、というかここ最近まで、僕は人と意見を合わすのなんて簡単だと思っていましたが、心の底から意見を合わすのなんていうのは不可能です。なぜ不可能なのか。それはどうでもいいと双方が踏んでいるからです。合わす理由がないのです。だから不可能なのです。

少し話を本題に戻します。今触れたようなことから、個人で価値観は確立されているので、3つの円が全人口において同じ大きさになることはあり得ないと思います。

であるからこそ自分は何をすべきか、一人一人というスパンではなくて宇宙レベルで考えようよ。人間なんだしさ。


そんな僕の詩

この世界は
透明な清潔な風を吸う
軽い車の汚い匂いを吸う

the times they are changin

なにかこの頃落ち着かない。何かにいつも絶えず腹が立ってる。何かに怯えていて、自信がない。猫背だ。手によく汗を掻く。シャツがべたつくことが増えた。日常に不満が多い。何が不満だったのかを考えるのは退屈だ。頭の温度を病院の機械で測ったら真緑なんじゃないだろうか。頭が使われていない。臭い匂いを、埃を吸わないために息を深くつかない。頭に血が回ってない。何も考えてない時間が増えた。

でもたまにグッとくる音楽を聴いたり映画を見て僕は力が抜ける。いいなあと。でもそんなありきたりなことてしか自分を満足させられていない自分に腹が立っているのだろうか。

この文章を読んでいる人の今の気分がもしグレーではないとするとこの文字たちは今書いている僕が感じているように心に写し取られないかもしれないがまたそれもありなのである。気にせず読み続けてくれ。だいたい気分が優れているときに俗にいうネガティヴな文章を読むことはあまりないだろうが、だからこそたまにはやってみれば。


僕はいつもなにか自分が本当の自分を出しきれていない、と言いたげな文章を書くが、そしてそんな言い草をするが実際のところ、そんなことはないような気持ちも半分あって。

自分を定義する材料は恒常的にあるものではなくて移り変わっていくものであるからの自分云々の話になるが、今の僕は今の僕だ。本当の自分なんていうのはどうだっていい。

これはよく言われる、発言しない人は素晴らしいことを頭の中で考えていたって何も考えていないアホと同じだという話と同じである。

今の自分として定義されるのは、今の自分を形作る材料によるもののみによってであって、仮に、自分が目指しているものがあってその途中にいると自分で踏んでいてもそんなことは関係ない。虚しくも僕は僕だ。君は君だ。


でも面白い話だけれど、そんな事は大事なことじゃなくって、学生であり、これから金を稼ぐ方法を探っていかなくてはいけない僕にとってここで考えるべきなのはだから、どうするということだ。

今の僕は惨めでちっぽけであると。
それは分かった。だからどうするの。ということだと考える。

僕はまず自分のコンプレッサーを一つづつ首を絞めて殺していきたいと思う。

ここまで僕を悩ませてくれたこいつら、形こそないけれど僕を悩ませる厄介なものを排除してあわよくば、いや、あわよくばというか必ずそれを自分の盾にして利用していかなくてはと。







I like I love I love

ここ一週間くらいのあいだ、よくあっていたんだけれどまた今日もそんなことがあったので書くことを決めた。

いつも哲学者ぶってさっぱりとした(十分ネチネチしているけれど)ことを書いてきたからたまにはネチネチしたこと書きます。

私が中学2年生だったとき、クラスにとても可愛い人がいた。どんなモデルよりも美しくてどんな白人よりも知的で、それはそれはなんというか天使のようだったけれど、それは僕だけでなく僕ら男子は結構な人数がそう感じていた。

よく覚えているけれど(笑)僕は一度だけ、席がその人の隣になったことがある。それまで斜め後ろの席が多くて、ずっと隣になってる人が羨ましかったからすごく嬉しかった。気がする。

そんな思いをみんなから買っていたであろうその子を僕は忘れられないわけだけれど、早2年が経って、なんだかこんな話をすると引きずってるなあという感じの時が過ぎてしまった。

ところが、だ。ちょうど一週間くらい前に学校から帰る途中、電車を乗り換えるためにホームに降りた時に、その子に(似ていたのか本人かはわからないが。というのはその子の地元ではないため)会った。目があった。つぎの瞬間にはかっと頭の中でかんがえていた友人への返答が吹っ飛んだ。

ああ、そうか、と思い出した。ああ、そうかと。

そこで話しかけたら小説みたいにストーリーが出来ていくんだろうが僕は中学の時に席が隣になった時もその子とは一言も喋らないくらいのことをしていた。一度も。それだから勿論僕がそこで声をかけるわけもなく僕はさっきのことを思い出していい気分になって電車を乗り換えた。

と、ここまでのことなら文章を書くに至らなかったわけだが、これだけじゃあないから今回は面白かった。

今日のことだ。塾に行って授業を受けた。5時から9時半まで4時間半いた。自習を7時までして途中でご飯を食べに15分でて、8時10分から授業を受けた。僕はその人とたまたま一緒に教室に入った。彼女は入ってすぐの机の上にあるタイム誌を取っていて、入り口が狭いので僕はその後ろで待っていた。その時は意識していなかった。でも僕に気づいてすいませんって小さい声で言った時、似てるなあと思った。

僕は席について、その人も2つ右斜め前に座った。それで横を見た。その時はっとした。2度見した。そのあとまた見た。本当に似ていてびっくりした。驚いた。

名前を聞こうかと思った。…ですか?って。

帰るときにはもう先に帰っていて聞けなかった。


なにがいいって本人は僕に僕が生きる喜びの何%かを与えていることを知らずにいる。その絵が美しい。



その他は糞で糞で糞な一週間でしたが、
そんなときだからこそこんな些細なことが僕の現実からの逃口となってぼくを裏山へ逃してくれたらいい。

god am

僕は意外と電車が好きです。なんとなく言えば総武線がお気に入り。

電車が好きというよりかは電車の中の状態に自分が感じることが好きというなだけかもしれないがそれはつまり電車なのだから電車が僕は意外と好きなのだろう。

電車の席は7つだ。7つの連続の席が向かい合ってる。
見知らぬ人と向き合える場なんていうのはカタカナを使えばシュール、などとも言えるのかもしれないが、それがいい。どこの誰かも知らない人と向き合っているのはいい。そして二度と会わないであろう人に向き合っているのはいい。
ジロジロと見ているのが気づかれ、キッと睨まれるのはいい。見ているんだよと気づかれたい時に無視されるのはいい。これからある予定のことを考えて憂鬱になりながら前の人はどんな予定があるんだろうと模索するのはいい。降りるべきであった駅で降りずにエヴァのシンジくんみたいに周りの人が降りていく中、終点までぼーっとしているのはいい。そこで、戻りの電車に乗って前になった人を見て、ああ僕は何をやっているんだって舌打ちをするのはいい。外を見るのもいいしこうやって言葉を書くのもいい。

好きな駅ランキング

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2 東京駅

石橋を叩き壊して泳いで渡る

自分のこのブログに対する戦略的な気付きをこのブログに書き綴るというのはなんだか可笑しい話だけれどやってる人が少ないからやってやる。

今日は北海道の弟子屈という町に来ている。ここのユースホステルに泊まったのだが、そこで出会った人が面白いことを言っていた。彼女は本を書いていて、僕自身、本を書いている人に話を伺うのは初めてでいい時間を過ごせた。有意義な。最後に僕がこう質問した。本を出版するにあたって何を意識しているのですか。と。
自分がアブノーマルな答えを期待していなかったといえば嘘になるが、彼女が言ったことは至極簡単なこと、本書きではない僕も意識したことのあることだった。
それは、誰に向けて文字を綴るか。ということだった。本は人に読まれなければ本の意義がそこそこ失われる。ゆえに人に読んでもらうことが重要なわけで、ターゲーットを設定して、それらのための文章(逆にすべての人対象でもね)を書くということ。


僕は本を将来出版したいと考えているから考えてみるべきことがいっぱいあるはずだった。例えばこのブログは僕が言いたいことを述べて、僕の日常を書いていた訳だが、それは誰に対して書いていたのだろうか。

いきなりターゲーット云々を決めるのは難しいとして、ヒトは何故、本を読むのかということを考える。参考書の場合は受験生たちは何か解法が知りたくて買うかもしれない。重病を患っている親を持つサラリーマンは医学書を親のこれからへの対処法を探しに買うかもしれない。今日何もするやる気がなく、明日は今日のように無駄に過ごしたくないと考えている中学生は自己啓発書を参考したりするかもしれない。
これらは知識を自分が得て、それらを活かしたいと。そう感じた例だがヒトが本を読む意義とはこの場合だけではない。

例えば小説本を読む人はその主人公の動作の真似がしたいがために買うわけではないし写真集も、自分の技術向上のための参考という人もいるかも知れないけれど芸能人の写真集なんかは自分がそれを見て何かに活かすという要素は薄い気がする。また、誰かのエッセーだってそれを読んで自分のエッセーにパクるなんてやってるのは一部の人間だろうし(私の十八番です)))。

それならば本を読む訳とはなんなのだ!となるが、その前に前置きを。
僕がここまで書いてきて悩んだこととは本の中身のジャンルに分けてそれらを読むわけを書くべきかということ。が、そうしてこれを考えるとUndoneな感じがするのでここは本という括りで考えます。

僕が辞書を作ることになり、という頁を作ることになったらこう書きます。勿論辞書として作る際には本のジャンルごとに詳しく書くべきでしょうからその欄の下には沢山「◯◯のジャンルは違うページをみてください」って書かれるでしょうが。

  • 本•••人が人の為に形としてなにかを残したい時に絵や文字を綴った紙を重ねて綴じたもの。

総じて僕らは日記であれ自分の哲学であれ形として将来(そう遠くない明日を含め)に残したい時に文字を綴るのです。形としてというところが重要で、更には人の為に書くというところが最重要。

考えというのは形のないものですから、それを文字に起こして実在物としてこの世に残す。それが本の一つの意義だと思う。

今日の話の何故人は本を読むのかという事に繋げるとすると、本は「人の為に書かれるということ」を忘れてはならないと思うのです。

つまりは本とは自分のために書かれたもの。だから僕らは読むのです。

いきなり詩的にフェイクをかけてきて驚いた方もいるでしょうが。

自分のために書かれた本を読む。至ってこれは普通のことであり、それこそがヒトが本を読む意味であり目的につながるのだ。

それならば僕らが設定すべきターゲットとは差別を受けている人々、差別をしている人々、いじめをしている人、いじめを受けている人、男性、女性、その他、隣人、世界の裏側に住んでいる人、親、息子、孫、そして忘れてはならないのは自分であるはずだ。

これは本について広義的に言ったことで僕らが何かについて本を書くときにそのま応用できる考えではないと思うが、これを忘れているしけた本は本屋で見ても山済みのままだ。