2021.10(未完)

高校生の頃、現代文の時間に梶井基次郎檸檬を読んだ。僕はそれまでかせきさいだぁのリリックに出てくる彼の発音から「カジイモト・ジロウ」という名前だと思っていたが「カジイ・モトジロウ」だということをそこで知った。檸檬丸善檸檬を爆弾に見立て設置してみる話で有名だが、僕はこれを読んでは、京都の街のことを思った。当時僕は京都に来たことなど小学生の頃の修学旅行で金閣や二条城など回ったくらいで、よく思い出せなかったが、想像するのだ、京都、観光地ばかりの清潔な街。京都は僕にとってそういった意味で唯一の街だった。明らかに他とは異なって、特別の感があったのだ。

 

何故檸檬なのか、現代文の教師に質問したことをよく覚えている。何故、檸檬でなくてはならないのか。他にピーマンやトマト、ナスなんかも握りやすそうだが何故それらではいけないのか。アボカドの方がより爆弾みたいじゃないか。或いはアボカドは当時日本に無かったのかも知れないが。教師の答えは僕にとり実に判然としないものだった。

檸檬が丁度良いからよ“

丁度いいってなんだ、そんなの、ものの言いようというか、相対的過ぎると言うか兎に角成る程とはならなかった。決して適当に僕の質問をあしらった訳では無さそうだったが、適当な答えのように当時僕は思った。でもぼくは今、京都に来て僕がバイト中に絞った果物の中ではレモンが一番手にしっくりくることにしっかり気づいていた。ライムでもグレープフルーツでも(オレンジなんかはなかなかいい感じだが)、金柑でもなくやはりレモンが収まりが良い。

 

今年の3月。冬もまだ開けない頃、本当に久々にデートをした。デートというものを初めてしたような気がするほどにしばらくだったと思う。禁煙になった翡翠に行って珈琲を飲んだけど、そこで話していることはまるで何一つ不自由ない学生の放課後を過ごしているどこかの誰かの言葉ばかりで、話せば、話すほど僕は女の子と話すこと、というよりも僕自身について話すこと、その人について訊くことにとても飽きてしまっているように感じた。その日、彼女はごく普通の真面目な子で、僕とはかけ離れている様に思ったが、笑い上戸で、気が良く素敵な子だと思ってすぐ好きになった。だけど、僕は恋愛がわからず、この関係がどこかシュミレーションされたレールの上をただ走っているような、つまらないように感じていて、途中から話をすることも、彼女の話を聞くことも、どうでも良く感じていた。彼女は間違いなく僕にとって手に収まりの良いレモンのような子ではなく、そしてそれはこれからどれだけ時間が経っても変わらないような雰囲気で、僕は昔デートした女の子たちを思い出した。未練タラタラなんだなァ…。これまで付き合った子は素敵な子ばかりで、僕はそれに毎日ドキドキして日常のことなんてどうでも良くなって、一日中その子のことを考えたりした。その子たちは確実に僕を夢中にさせていたし、手にピッタリなレモンのようではなかったにしろ、いつかはそうなり得るような気にもさせてくれた。

それから、週に何度か彼女は僕の家に来ては、朝になって仕事へ出掛けていく。休みの日には植物編に行ったり、ドライブをしたり外へ出かけるが、どうも彼女は…違うことが僕にはよくわかった。というよりも、わかってしまった。つまり彼女はレモンなどでは無くて音のしないマラカスの先っぽの様な感じで、僕の理想の要素は彼女にはひとつもなかった。拘りというこだわりが何ひとつなく、趣味も生活も顔も声も形も変わり映えしなくって、印象がない。

正直昔から僕はこういった人種を軽蔑していた。それが、たとえ無力な自分を守るための防衛行為の反動として培われた視点であったとしても。少なくとも一緒にいる意味を感じたことは無かっただろう。きっとこの子は死ぬまで当たり障りない意見を述べ、適当な人と適当に暮らしていくのだ。そんなことを思うと僕は本当に辛くなった。彼女の悪口をつらつらと書いているうちに僕は皮がどんどん剥がれて、肉が落ちて、骨がぼろぼろになっていき、自分が壊れていく様に感じるのだ。でも、明らかに僕は壊れ始めていた。僕はそんな彼女とこれからも付き合っていくのだ。でも、それは僕一人が世界から非難されるべきことじゃ無い様に思う。それは女の子がいない生活がどんなに苦しいか、なんと不幸なことか、知っているから付き合っていくのだ。(2021.4)

 

半年が経つ。

 

でも、僕らはなかなか上手くいった。二人で誕生日を祝い、旅行に行って、時々一緒にキッチンでご飯を作りながらお酒を飲んだ。付き合ってこの半年のうちに、所謂"親しく"なったのだ。いくつかのしこりを抱えながら。

その付き合いは、僕にしては、些かアベックに過ぎた。カラオケ、イルミネーションを見に行き、紅葉で賑わう寺に並ぶ。イケアでウィンドウショッピング。イオンモール。外食。観光旅行。

僕は自分にこんな普通なデートが出来ることを知らなかった。こんなデートしてどうするんだろう、何の意味もないよ、と思っていた。資本主義・交換経済の産物。

(2021.10)(未完)

バイバイ京都!(2023.03.31未完)

気がつけば、あっという間に時は過ぎて、2023年の春になった。だって、桜が舞ってるんだもん、春なんだよね…。それが僕にとっては、チョッと信じられないくらいのことになっている。2023年、あまり実感のない響きだとしか言うことができない。いつの間に、僕はこうして実感のない年越しを繰り返すようになったのだろう。あるいはこれまでに納得して迎えた年があっただろうかとも思うが。

1週間前、京都を離れて実家に帰った。少しだけ周りを整理してそれから家族と食事をして卒業証書を見せた。あっという間に1週間が過ぎそして今日、愛知にやってきた。「どこなんだろう、ここは」というのが先ずもっての感想だった。縁もゆかりもない(そんなことには慣れている筈だが)愛知県という場所にやってきて、用意された新しい部屋に昼間からいるとなんだか、ここには旅行で来ているだけで2、3日もすれば京都の家に帰ることがもう決まっているような気さえしてきた。

僕はものすごい疲れを感じた。新しい場所に住み、新しい人と会って、新しい仕事を始めるということが意外と気力を使うことに初めて気がついた。そしてなんとなくある無気力感。忙殺されなくては、この無気力感は際限なく膨らみ、僕を蝕むことはなんとなく予想がついた。こうして少し感傷的な無気力感が襲ってくると、僕はよく昔のことを思い出す。思い出したくなるのかな。何かしらトリガーがあって、それは香りとか音楽の場合が多い。ハクモクレンとかたんぽぽとか金木犀とか。なんか昔聴いてた曲とか。今晩はくるりのワールドエンドスーパーノヴァにやられてしまった。まーありきたりだよね。でも京都を離れて、この6年間が蘇ってくる。不思議。

 

京都で最後に幸せな2年間を過ごしたと思う。なんとなく、6年いたうち、最初の4年間よりも最後の2年間の方が幸せだった気がする。それは恐らく、僕にしっかりと彼女が出来たこととか、その彼女との生活がやっぱり彩り豊かで素晴らしかったからだと思う。

彼女は京都で仕事があり、僕はこちらで仕事に就くことになりお互い落ち着くまでは離れることを決断した。この決断が、まずい気がしないわけでもなかった。僕は大事なことを忘れてやしまわないか。1年経って彼女の大切さを思い出せるかどうか。その時になって、すなわち一歩引いてみることができるようになってして初めて、客観的に正常な判断が下せるようになる可能性もあるが、今の僕の抱える不安に正面から向き合うことは(未完)

2023年10月20日(秋)

正直に言って、何の予定もなく有給休暇を迎えた。

7時半頃に目を覚ますと、廊下からラジオの音が段々と大きくなってくるのがよくわかった。アラームをつけない朝は久しぶりだった。週5日の労働と2日の休暇、僕が学生の頃に向き合うことを避け続けてきたこの世界の決まり事を僕は社会に出てすんなりと受け入れた。7ー5=2でしかないから。

工場での労働はとても疲れる。広い工場内を端から端まで、坂の上から下まで汗をかきながら、重い荷物を持ちながら8時間動き続ける。世の中にはいろいろな仕事があって、僕もアルバイターとして幾つか経験したが、それらのどの仕事よりも体力的、精神的にも疲労する。

ただ一番に酷なのは僕自身の「薄給で汗をかく、頭を使わない仕事をやっている自分を嫌に思うプライド」がどこかで揺らいでいることに気づき始めていることかもしれない。まさに僕の見ている風景はモダンタイムスの歯車のようで、個人としての労働者の尊厳というか個性というかに注目すると、目も当てられないような同僚ばかりである。あるいは僕の観察者的な視点による勝手な評価だろうか。彼らには彼らなりの物の考えようっていうのがあるのかもしれない。新入社員が偶々自分たちの職場に研修で来て、同情されるのは御免だというのは真っ当かもしれない。

 

寮の朝食は出勤時間に合わせて締め切られる。滑り込みで7時55分ごろになってようやく僕は朝食を食べ、部屋に戻った。戻る途中で普段通り出勤する同期と会った。1日頑張れよと声をかけ、相手は苦笑いで有給をしっかりと楽しむように僕に忠告してくれた。

部屋に戻る途中、階段の窓から玄関にライトブルーのミニがとまっているのが見えた。よく見かける車だったが、僕は誰がその車に乗っていて、何故いつもそこに停めているのかよく知らなかった。調子が悪いのか、それとも自慢の車を見せびらかしているのだろうか。それでもミニはいい車だと思った。余裕のあるアイコニカルなデザインとイギリスを感じさせるフォルム。風に吹かれて路上を転がるゴミですらおしゃれな街。無理せずミニに乗るような大人になっているはずだったと僕はその車を見るたびに思った。

部屋に戻り、僕は途方に暮れた。工場の休憩時間に煙草を吸っている時のように。いや、それ以上に頭の中は空っぽだった。そして本当に残念なことに、この部屋の空気もマズく、澱んでいた。僕は耐えきれずに窓を開けた。カーテンを開いて、それが太陽に照らされ暖かくなっていることに初めて気づいた。鉄骨の部屋の窓脇で、僕はカーテンを暖かく感じることができた。しっかりと夏が終わり、冬が近づいてきているようだった。

昼飯は外で食べる必要があった。気に入っている岐阜駅の中華に行くことにした。ここからは少し時間がかかるが、それでもまだ時間が余る。僕は寮の前で洗車をすることにした。窓の鱗取りから、ワックスがけまで行いたかったので腕まくりをしながら僕は下に降りた。

外は本当にいい天気だった。午後からの雨の予報は外れるんじゃないかと疑いたくなるようなカラッと晴れた空で雲ひとつなかった。でもお世辞にも洗車日和ではないと思った。僕の車は黒く、晴れた日に黒い車体を洗うとすぐ蒸発して跡が残ってしまうのだ。それに、なによりもミニが邪魔だった。近くでみるとその車はとても几帳面に洗車されていて、泥跳ねひとつなかった。あまり近づきたくない車だったが、洗車スペースが限られているので僕は渋々そのミニに水が飛ばない様、少し離して停車した。

洗車が終わり、時計を見ると2時間経っていた。窓の撥水施工が時間がかかる。夢中になっていた。何故、こんなことに拘っているのか自分でも不思議に思うくらい僕は車に興味がなかった上、黙々と作業をすることがこんなに性に合うとは意外だった。途中で管理人が2階からこちらを見下ろして、キレイになっとるねぇーと叫ぶので僕は返事をして会釈した。中々普段話の合わない管理人だったが、悪い人ではないとみんな口を揃えていう。僕もその通りだと思った。

 

岐阜に向かう途中でガソリンがなかったので国道のENEOSに寄った。女性の販売員が2人程いて、僕は車を降りる前から嫌な予感がした。大体のところ燃料添加剤かクレジットカードの入会の勧誘だろう。そのどちらも僕は必要としていなかったし、他に客がいなかったためか2人とも暇そうだった。車を降りると、いかにも格好のカモがやってきたぞと言わんばかりに1人が話しかけてきたがモバイルエネキーの勧誘で、入会すれば今日ガソリンが6円引きになるらしい。僕は、ハイハイ大丈夫ですなどと言いながら軽油の緑色の給油ガンを車の給油口に差し込み、あと一歩でトリガーをひくところで何故だか入会しようという気になった。給油口の前に立ち、サイドから映る洗車したての車はあまりにもキレイで満足感があった。こんな勧誘の一つや二つぐらい、受けてやってもいいと思った。だって世界中には叶えられない願いが星の数ほどあるのだ。その中の一つや二つ、俺が引き受けてやったっていいじゃないか。

結局僕はそのお姉さんに言われるがままにカードを登録し、モバイルエネキーをゲットした。彼女は登録が終わると、即座に「はい、アザっしたー」といってどこかに行ってしまった。値引きは結局3円分しか適用されず、軽油はリッター133円だった。その数字を見て、だいぶ安くなったとしみじみ思った。

 

岐阜で中華を食べて、それから金華山ドライブウェイを何の気なしに走った。岩戸森林公園を抜け、水道山展望台まで辿り着くと、途中で僕を抜かして行ったホンダのN-ONEと春日井ナンバーのプリウスが止まっていた。僕がつくと同時にプリウスからかなり年のいったカップルか夫婦が出てきてお互いに話をしながら楽しそうに展望台へ登って行った。50代後半60代か、熟年夫婦にしては雰囲気が若いなと思った。ちょうど展望台までの道は丁寧に花が植えられていて、その道を歩く2人と寂れた雰囲気の展望台の中にポツリとある花の賑やかさが、何故だか哀愁を感じさせた。

展望台に登ると、景色は素晴らしかった。と、いうよりも岐阜という街がとても良い場所だと僕は思った。ここから岐阜駅の方を見ると、平野が続いていて、駅前のビル群の奥の方に霞んだ伊吹山が見えた。この景色を見ていると、なんだか漠っとしたやる気が湧いてきてくる。僕は昨日調べていた奥飛騨の宿のWebサイトを開いて、まだ予約できるか調べてみた。サイトによると、一応当日の予約をすることができ、すかさず僕は予約を入れた。16時にチェックイン可能とのことだった。

岐阜公園方面に出てしばらく走り、関から高速に乗った。郡上を超えたあたりから、予報通り雨が降り出した。気づくと空はどこをを切り取っても曇天模様で、天気とはよく変わる物だと僕はこの歳になってちょっと感心したが、自分がかなり移動していることを思い出し、笑ってしまった。北上するにつれて雨が激しくなり、前を走る車のタイヤが飛沫を巻き上げているのが遠くからもよくわかった。僕のフロントガラスは今朝洗車時に撥水加工をしたおかげで、ワイパーをせずとも、水玉が上に流れて行った。窓ガラスに打ち付ける雨は、一瞬で大きな粒に成長し、その水滴は右に左に触れながら流れていく。ハンドルを握りながらぼくはひとり、その映像をじっと見つめていた。

見覚えのある高山市街を抜け、ひたすら続く158号を東に走らせた。乗鞍の山麓にさしかかり、平湯までくると、流石に見事な景色だった。街ではまだ青々としている木々が、こちらでは段々と色づいてきて、黄色になっているものや、赤みがかった部分も窓越しによくわかった。ここでは、季節は完全に秋だった。平湯で471号に左折した時、ぼくは息をのんだ。本当に綺麗な道だと思った。昔読んだ、絵の具の合わせ方の本に出てきたパレット上の色の数々を思い出した。緑にはいくつもの緑があって、茶色にはまたいろいろな茶色があるという単純なことが、なにかとても大事なことの様に今は思えた。

僕が京都に来て4年が経つ。一度近くで引っ越したが、それも目と鼻の先の距離だからほぼ、移動せずここにいたことになる。僕の下宿は大徳寺の裏で、高台なので夏は涼しい風が吹いたし、冬は暖房をつけても暫くはずっと息が白いままの寒い部屋だったが、それなりに温かみのある作りで、立地に別に不満もなかったし、家賃も多少大家に工面してもらって安かった。それに家の前には夜な夜な営業している活気ある居酒屋(今はコロナで早く閉まるけれど)があって何時でもすぐ飲みに行くところがあった。少し北に行くとこの辺りでは一番洒落たオーセンティックなバーがあって、近くには銭湯があった。銭湯とオーセンティックバーのはしご。北区で飲む醍醐味。大宮商店街にはよく面倒見てもらったバイク屋や食堂。バイトもこの通りでしたことがあったはずだった。この通りはとにかくよかった。たいして代わり映えのしない商店街(おっと失礼)だが、歩いていると心地が良いのだ。ちょうど良い喫茶店にちょうど良い食堂、中華があって煙草屋や電気屋、リサイクルショップ…まあ僕が一番行ったのは(今は無き)100円ローソンとビデオインアメリカくらいだろうが。

来月、ここを去ることが決まって、僕は決まって自分が過ごしたこの町を一周ぐるりと回ってみた。その土地から離れる時、僕は最後にその土地を見て回るのだ。家庭が転勤族だったので幼い頃から何度も引っ越しを経験したが、その度僕は自分の過ごした街を回っては思い出を思い出したりしてみた。その時々の思い出の精算。精算というかセーブするっていうか、アルバムにまとめちゃう、みたいな感じで保存することが僕は重要だと思う。大人になって、その場所場所へ訪れてみても、生まれるのはそれはもう今の僕のその場所に対する印象や、古い思い出を思い返して今の僕が思った感想であって、あれ、こんなことじゃ無いんだよなぁって思うけど昔のことって、曖昧なんだよね、仕方ない…。

記憶するため、色々見て街を回る。すると、ぼくはあろうことか、ちょっと悲しくなってしまった。僕はどちらかというと、何故この街に僕はいるんだろうと不思議に思うくらい、言わば宙に浮いた様な気持ちで過ごしていたのに、何時の間にかこの街並みに愛着が湧いてしまっていたようで、これではおかしな感じだと思った。でも、この通りやこの店、そうそうここで初めて市バスに乗ったんだ。この通りはよく歩いた。マジで暑過ぎて倒れそうになる日もこの坂、雨の日も雪の日も登ったんだった。この公衆電話で僕は初めて30分も話した。それから徹夜明けで朦朧として信号無視した横断歩道(orz)。バイト帰りに朝、眠くなりながら自転車を漕いで登ってくると北大路通沿いのパン屋が周りが暗いうちからパンを焼いていて、彼らの1日はこれから始まるのだ、そう考えると僕は何をしているんだろうとよく思ったものだった。特にその店には特別可愛い女の子がいて、余計嫌気がさしたものだが。色々なことがそれなりにあったんだろうが、強く思い出されるのが深夜の紫野温泉の帰りの缶ビールで僕はちょっとだけ、がっかりしたw なんかもっとあるやろー、妄想満月みたいなさ。

 

talking to vegetables

さて、季節は気付かないうちに過ぎてくもので、今年もこういつの間にか、11月が終わろうとしてやっと気づくのだ。蝉の声がしなくなって、木々が赤くなっていって、街行く人々が厚い外套を着込む様になってきて。あれ、もう今年も終わりじゃないの!

僕は夏終わりから京北に農地を借りて、野菜や果物を育てている。市内から車で30分くらいの山奥。そこで沢山の種を蒔いた。着色されてカラフルになった種はほとんど全てが丸く同じ形をしているが、種蒔きをして1週間と経たぬうちにそれぞれの野菜を想像させる若い芽を出す。僕は都会ってこともなかったが、畑に囲まれた様な田舎の出じゃないから、こうやって植物の誕生を近くで見守るのは初めてのことだった。だからこうしてきちんと芽が出ることや、雨が降った翌日は生き生きとすること、日差しが強い日には太陽が眩しすぎるよー、台風の翌日には、昨日は風が強くて大変だったよォと、植物は話すことを知らずに(こんなこと本当に知らなかったんだなぁ)生きてきた。僕は半日も彼らとずっと話すことがあるが、その中で彼らは季節にとても敏感でいることに気づく。農学部でもない学生が畑で独り言を言い続けているのは殆どイカれているように思うが、実際小学生かそのくらいの子と、はんぺんやちくわがそのまま海で泳いでいるっていう話を熱心にすることが出来るくらいにイカれてきている気がする。しかし、かねてから季節に敏感にいたいと僕は思っていたので、そんな野菜たちの、自然の中で生きていくことの正しさっていうかな、まともさというか、そういったものに小さな憧れみたいなものを見出したりするのだ。どうも、季節に敏感にありたいと思いながら文化の中で或いは都会的な趣味を通して季節感を感じ取ろうとすることは、あまりしっくりこない時がある。何かもっと自然的な体験でなければならない様に思うのだ。もっとも野菜たちに足が生えていて歩けるのであれば寒かったり風が強かったりすれば畑から小屋の中に避難してしまうだろうが、或いはこたつに入ってテレビを見ながら冬を越す可能性すらあるが、雨風に耐えた野菜は逞しく見えるものである。

 畑から国道に出てまっすぐの道をひたすら北に十キロ行くと乗馬場があって、そこに行っては馬糞を土嚢袋に詰めて持ち帰ってくる。馬は草食でアルファルファとか藁を主に食べているから、馬糞は嫌な匂いはそれほどしない。それを3ヶ月、4ヶ月と置いておくと次第に分解されていって、半年近く経つとすっかり土の匂いがする様になる。土の匂い、なんていい匂いなんだろう。ふわっと匂う土の匂いはその上で寝たくなるくらいにいい香りがする。僕は堆肥となった馬糞を掘って(それは僕の背丈の3倍くらいの山になって積まれているのだ)匂ってはよくそう思う。それから近くにある精米所で籾殻を貰って袋に詰めて車に積むと僕の車はまるでカリオストロの城フィアット500の様な詰め込み具合になって、気持ち加速が鈍くなる。加速が穏やかになることは、僕は嫌いではない。ローからセカンドへギアチェンジしながらゆっくりとこれからなにをするか、何処へ行くかよく考えることが出来る。その足で苗店を覗いてみたり、直売所で植えるための面白い野菜を探したりしながら畑へと戻ってくる。物凄い数の土嚢袋を畑に巻く作業、これがまた堪える。畑に袋を運ぶだけで腰がまず痛くなって、くわで畑に漉き込んでいると次第に足からふくらはぎにかけて疲れがどっとくる。それでも土を起こすという行為が僕は好きだ。何はともあれ。

 日没近くなって西の地平線に近い空が赤くなってくるまで、僕は畑に居続けた。どんどんと辺りが暗くなって、街灯がぽつぽつとついていって、市内のことを思った。あと一列、畝をあげて帰ろうと思ったけれど、帰って一体どうするのだろう、というか僕はここで何をしているんだろうという気持ちになってしまって、がむしゃらにそれから残りの畝を全て上げ終えてから車に戻った。国道へ出ると僕は前の車のテールランプをただ眺めながらアクセルを踏んで、無気力になってしまった。そんな風にしていると、いつの間にか市内とは逆の方向へと来ていて僕は、そうだと思ってR477をひたすら東へ向かった。uri gagarnのForをかけて久々に買ったパーラメントを吸ってみた。なかなか、いい味だと思った、というよりもそんなに悪くなかった。でも昔みたいな味はしなかった。その時僕はとてつもない孤独を感じた。大学を中退した先輩がこれについてよく話した。孤独、ポツポツと遠くに民家の小さな明かりが灯っているのが小雨で濡れたフロントガラスに反射して映った。僕の吐いた煙がそれに当たって跳ね返って渦を巻いた。何も交わる事のないずっと続く国道。こんなに薄暗い気持ちで酷い孤独を感じるのは久しぶりの事だった。2、3本で百井峠に差し掛かかって、ぼーっとしている間に百井別れを僕は完全にスルーした。そのお陰で湖西道路でも通って帰ろうと朧げに描いていた僕のルートは消え去り、気がつくと鞍馬で、あたりは暗くなっていたがたくさんの観光客で溢れていた。僕はなんだかよくわからないけれど、うんざりしてしまってMKに寄って20球打ちっぱなしをして、それから帰った。2、3球いい当たりがあったくらいで他はロクなバッティングではなかった。どうしようもなかった。何をしているんだろう。これも、また野菜君達に話してみることにしよう。ねえ、僕ってどうしたらいいのかなwって。

THANK YOU MY GIRL

文章を書くことで助かっていると誰かが僕に言ったが、それはそうかもしれない。友人と話していても、或いはアルバイトや勉強をしていても、とにかく何をしていても鬱屈とした気持ちの中で泳ぎつづけている。息継ぎのない潜水遠泳。いつまでもこのままでは、やがて腐ってはしまうが、僕は動かずにいる。軽やかに、頬をパチンと叩いて“よし、やるぞ”と奮い立たせることも、かといって怠けることも出来ない。いつまでも続く水泳の時間。プールサイドでコーチが叫んでいる。もう一周、もう一周!終わることのない一週間単位の生活。

夜になって久しぶりに上木屋町の軽いバーに行った。バーテンは変わっていた。世代交代。若い、僕と同じくらいの年の好青年だった。前に居た彼はどうしたのかと訊くと、ここで働いてると品川のバーの名刺を渡された。品川。そこがどんな様子の街だったかさっぱり思い出せなかった。一体どこの世界の話をしているんだろう、巨大な遊園地で一人迷ってしまったような気持ちになった。乗りたいアトラクションも、帰ってすることもないのだから迷う必要などないのに。ベンチに腰掛けて園内を駆ける子供や、夜になれば遠くの空で打ち上げられる花火を一日中眺めていれば良いのだ。でも、確かに僕は時間に追われていた。一人座ってぼーっと一日中過ごすことなんてよもや気が急いて出来ないだろう。時の流れ、なんと当たり前でなんと不思議なことなんだろう、と思った。大体何故気が急くというのだ。僕は、大学に入学してからこの店に来ては、よくそんなことを考えた。そうしている間に僕の周りには沢山の人の抜け殻の様なものが広がっていって、僕はそれを一つ一つ丁寧に収集した(少なくとも、したつもりだった)。僕の収集した標本箱の中の抜け殻は時が止まっていた。そこでは誰もがまともで、若かった。でも僕が20才になって高野悦子が通り過ぎて行った。今度は樺美智子が通り過ぎて行った。時は流れ続ける。定刻通りに品川駅を列車が発着する様に。数年おきにこの店のバーテンダーが次々と変わっていく様に。生活の流れ。緻密に計算されたダイヤ。その中を僕はずっと水中で遠泳をしている。“これに遅れてはならない”と呼吸をする度にプールサイドで誰かが言っているのが聞こえる。フェンス越しに女の子が居た。制服の女の子。それは中学の時のクラスの子だった。そしてその声は彼女のものだった。彼女は今どこで何をしているんだろう、抜け殻の彼女。大学に行ってるかもしれないし、働いてるかもしれない、或いは結婚をしていても不思議じゃない。”遅れてはならない“?何に遅れて、何に遅れてしまうというのだろう。僕の頭の中では宮沢賢治の告別が流れていた。気がする。

けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
おまえの素質と力をもっているものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだろう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけずられたり
自分でそれをなくすのだ

 宮沢賢治 告別

5、6杯飲んだところで一気に気分が悪くなった。電話が来れば取るし、電話が来なければひたすら待つ。定時に退社してスーパーで食材を買って簡単なものを作る。あとは食べて、寝るだけ。東京のワーキングプアの特集がテレビで流れた。それはまるで僕の生活そのものだった。くたびれた生活。それを見ながら、気がつけばバーテンにくだをまいていた。これでは本当にテレビの通りだった。彼は酒を丁寧に作ってはいたけれど、センスも悪くなかった。世代交代だってそれほど悪い話ではないのかも知れない。コロナウイルスと、それからザゼンの話を少しした。いつになったら次のアルバムを出すんだろう。もしかしたらスランプなのかもしれない。スランプ。彼は音楽の世界で20年近く売れ続けているのだ。物事には波がある。山あり谷あり。向井が遠くで“躁状態”と叫んだ。鬱状態躁状態鬱状態

僕はそれから鬱で北海道に帰った友人のことを想った。もうダメだといい、今年の春突然に大学を休学して彼は京都から居なくなった。そう決めてから彼は僕の話を殆ど聞かなくなった。ことあるたびに自分を蔑んでそれからこの状況はキャピタリズムのせいだと言った。鬱って一体どんなものなんだろう、僕だってもう既にダメだと言いたかった。僕だってかなりしんどいが、毎日やってるじゃないか。これで泣いていいんですよと誰か大統領が言えばすぐに桶が僕の涙でいっぱいになってしまうだろう。泣いて、酒を飲んで何も考えずに眠れたらどんなにいいんだろう。だけどしっかりと二日酔いは忘れずにやってくる。アセトアルデヒドのせいで頭の中がグラングランして、一層の無気力感が襲ってくる。だけどこの際これはある種のクスリと思おう。感覚を麻痺させる薬。大体二日酔いなくしてこんな情けない文章を書ける奴がいるんだろうか。

普段こんなことは思わないから、一言かけてあげたい。そう、俺、お前はよくやってるよ。それを伝える為に、僕は文章を書いている。そして確かにこれで幾分助かるのだ。

 

失うとは、あったということ

 読書会をした。みんなは本を読むのが上手いなァ。僕は今年22歳で(僕がもう22歳?信じられる?)、当然に本の一冊や二冊読むことは容易いことなのかもしれない。だけど、僕は本を読むことが得意じゃ無い。数を読んでマシになるような、漢字を覚えて、あるいは語彙を増やして何とかなるようなものじゃなくって、なにか根本的に言葉に対する才能が欠けている気が最近になってするんだよね。本を読むことについて、はたまた文章にかけて僕はよく、小学校の中学年だった頃、同じクラスだったにきび顔の茶髪の男の子を思い出す。彼は運動とか、音楽だとか、そういった類のことには長けていてとても人気があった。チャーミングでクラスの人気者。一度彼の自由研究の作品が僕の作った工作の隣に展示されたことがあるが、見比べれば見比べるほど、彼の自然体で作られた作品は僕の作ったものより優れていた。それは巨大な作品や、誰もがぱっと見て心惹かれるような作品じゃなかったけれど、自然体で、作りが良い。センスが良く、やり過ぎてなく見る者が心地よいと感じる完成度だった。そういった作り込みは、なかなか真似できるものじゃない。

 しかし、国語の時間だけ彼は冴えていなかった。僕のクラスでは、教科書の音読をする時、順番に前の人から句読点で区切って読んでいくことになっていた。大体の人はうまくすらすらと読んで行く。たまに、漢字でつっかえる奴やあがり症は勿論いたが、彼は違った。一切言葉が出てこないのだ。前の人が読み終わっても、彼は何も言わない、いや、言えなかったのだ。後になって、どこを読んでいるのか、どこを次に読むのかがわからないと彼は僕に言った。言葉に対する才能の欠如。あるいはそれに病名をつけることもあるかもしれない。多分当時の僕はそれをおかしいと思っただろう。”彼はちょっと、オカシイね“

 でも、今になってよくわかる。そんなことは誰にでも起こり得るものなのだ。今度は僕に。そして僕は思う。自分の才能についての少なくともいくつかのことは、ある日、ふとした瞬間にー彼のように音読をさせられない限り、自分だけが気づく。僕なら字だって読めるし、ちょっとしたユーモアも言える。だけど、根本的に本を読んでいても噛み合わないのだ。言葉一つ一つに添削をしているようで、一行ごとにパズルが完成するか確認し続けているうちに、まともな気がしなくなってくる。はて、僕はこれまで何冊の本をまともに読んだのだろう。全く自信がない。にきび顔の彼は僕よりもたくさんの本をまともに読んだのだろうか。人気者の小学生の男の子。昔の彼のことを思い、また昔の自分のことを考えた。

 僕は時々、昔の僕が羨ましくなる。昔の僕が16歳、17歳であることが(何を言っているんだろう?)。きっと彼の目にはいろんな物事が何もかも新鮮に映るのだろう。匂いがきちんと匂い、週末を楽しみ、しっかり本が読める。そうやって毎日が過ぎていく。チクタクチクタク…そして、そうやって触れてきたたくさんのものをうまく消化していかないと、消化不良となって、癌になってしまう。その癌はしっかりと進行性で、どんどん自分を蝕んで影を落とす。できないことが増えていくこと、話をうまく思い描くことができなくなること、女の子は夢のように美しくないこと、音感や絵を描くセンスに言葉に対する才能。才能と言ったって、特別なものじゃない。いろいろな形があるのだ。それは地味なものかもしれないし、あるいは地味な方がより価値のあることなのかもしれないが。とにかくまるである事柄についての才能は一種の恵みのようなもので、青々と生い茂る草むらの中で陽の光に十分に当たることのできる葉と、日陰で枯れていく葉があるように、不思議なカラクリで与えられるようだ。

 不可逆的に枯れていくものは確かにあるが、そんな中にあっても喪失を感じることはとても難しいと感じる。いつも喪失感はどこかつかみどころが無く、“アァ、無くなってしまったな”と思うものだ。結局のところ、何を失ったのか、何を失っていないのかわからずにいる。でもそれは多くの場合、喪失感とは単に既に保持していたものを失って、心に穴が空いた状態で自分の失くしたものそのものを憂うというよりも、実際はそのものを担保してきた他のものの喪失を感じているからだろう。

 僕は煙草を辞めてから訪れる精神的な心の痛みは喪失感のようだと思った。しかし”煙草を失った“と先ずは感じるのだが、そんなことは大したことではなかった。第一に煙草は死んでなど無く、家から数分のコンビニにたくさんあるのだから。一番の問題は”煙草を吸うこと“を担保してきた僕の考え方がポキッと折れたことなのだ。それでいて、煙草を愛する人々が彼ら独自の理論で動いていることは理解ができるし、一方で煙草を止める決心をした自分の決断を正しいと感じている。一体僕は何を失ったと感じているのだろう。それは、社会学をやっている人間は、ブリコラ的な客体的自己を生きる主観的自己に喪失の感覚が生じるのだと言うかもしれない。法哲学家は自己決定の脆さについてひとしきり考えた後に愚行権について、あるいは安楽死がどうだとか、言うかもしれない。あるいは僕の父親だったら、若いうちはそういうのが、いいんじゃないか。と疲れた顔で言うことだろう。彼らの言うことは、全てーほとんど全て正しいと思う。だけどそんなことはもう僕はどうでもよかった。それ程に過去に焦がれるのだ。

 デイヴィッド・ベネターを半ば盲目的に崇拝している先輩がいた。彼は去年卒業したが(一年遅れだった。僕の統計では、ややこしい学者を崇める学生は大体4年以上大学にいることとなる)、彼の口癖をよく覚えている。“半出生主義は理論として破綻している。だけど、僕はこれに救われている“

当時彼の口からその言葉を聞いた時、僕はこれは、ダメだ。と思った。彼の卒業の為の論文は内容は筋が通っていなくて、半出生主義をいっぺんに論じたのちに最後の節でその前のほとんど全てを否定して、でもそれで良いのだと書かれていた。まるで出来損ないの芸術学部生かなにかの論文のようだった。“フィフス・エレメントミラ・ジョヴォヴィッチは演劇理論に反しているが、それがまた良い…かくかくしかじか”

 でも今の僕には、その時の彼の言葉がよく理解できた。時には、非論理的なことだって信じて良いのだ。物事の方が理不尽に起こり、日の陰りばかりは葉っぱにだってどうしようもないのだから、きっと少しくらいそれに抗っても良いのだ。それで自分が救われるのであれば。

 

夏の終わりの夢の日記

 今年もまた、暑い暑い夏が終わりかけていて、終わりがけスクーターで感じる風の匂いも、葉の隙間を刺すようにあったコンクリートへの反射も、今日はなかった。

セミが鳴かなくなったのはいつ頃だったんだろう。気がつけばセミの音がしなくなっていて、少しかなしくなった。どこに行ったんだよー…。

 それからまだ暑いうちに行った伊根のことを思った。丹後半島の先にある灯台へ登ると下の岩にぶつかって砕ける波や飛沫に光って照らす夏の太陽。そこにいた猿達。

 僕は連勤が開けて昨日、家に帰るとぐっすり眠った。多分、8時間のうち1秒も眠りは浅くならなかったと思う。そんなによく眠るのはかなり久しぶりだった。深い眠りについたからなのか、あるいはそんな風に季節が移ろい始めていたことが関係して夢を見た。

 僕はその夢の中でも、眠っていた。というよりも眠っている僕を上から、まるで幽体離脱してくるっと自分の方を見下ろすような視点で眺めていた。僕は僕が僕のベットの上で眠っているところをずっと眺めてから、早送りボタンを押した。長い時間が過ぎて、その間早送りされたテープのように僕は何度も寝返りを打った。その間にカーテンの隙間からは、街を行き交う車のテールライトの赤や黄色い光やそれらによってできる影が壁に映し出された(丁度僕のマンションの前の通りは大通りだから夜中でもある程度の交通量がある。暴走族のバイク群に、北山へ帰るサラリーマンやデート中の学生達が乗る車がその通りを走るのだ)。相当長い間、何時間も何時間もまるで繰り返しの映像を読み込むコンピュータのように僕はそれを見ていたが、不思議なことにいくら時がたっても世が明ける気配はなかった。窓際の入り込む色とりどりの光は、まるで窓の外の世界はサイバーパンクの世界のように空を飛ぶHOVAが行き交っているようにすりガラスに映った。夏が終わって、冷え切った毎日曇天模様の雨ばかり降るネオンの街。カーテンを開けて外の世界を確かめてみてもよかった。何だってできるのだ。ここは夢の中なのだから。しかし僕はその時カーテンを開けることすら考えの中になかった。カーテン越しの光と影の入り込むこの部屋の景色に慣れ過ぎていたのだろう。カーテンは閉まっているもの。彼氏と歩く可愛い子を街で見かけても声をかけることがないように、水族館の芸のできなくなったイルカがその後どうなるのか誰も知らないように。当たり前のこと。

 突然に人の笑い声が聞こえてきた。2、3人、学生くらいの若い男達の声。その声は次第に大きくなっていって寝ている僕(見下ろされている僕の方)はうるさそうに顔をしかめた。こういうタイプの声は耳に障るのだ。彼等は通りで何かお酒を飲んで盛り上がっているようだった。季節の変わり目の飲み会。冷えた夜中に昼間のシャツ一枚で店を移動する男女を数組思い浮かべた。“おーい、お前もう帰るのか”声ははっきりとしないが大体そんなことを彼等は言ってから声は段々ともわもわしていって遠くに消えていった。辺りはまた、光と影だけになった。さっきと違うのは、僕は、起きていた。そして、僕は自分が起きていることに気づいた。見覚えのある視点。ベットの上に起きあがり上を見たが誰も、僕を見下ろしてなどいなかった。仮に目があったとして、それは誰なのだろう。もし僕が天井から僕を見下ろす僕を目撃すればきっと、僕は彼と会話し次第に頭がおかしくなってしまうだろう。鏡に自問自答するのでなく、それは僕を操るプレイヤーのような視点を持った僕なのだ。

 僕は徐ろに着替えて、靴下を履いて顔を洗ってから髪を濡らしてドライヤーをかけた。階段を降りて駐車場へ行った。そこには赤いカムリが一台駐車されていた。僕はカムリに乗り込みエンジンをかけた。そして通りに出ようとしながら首を捻った。”これは、なんなんだろう“(”これは、なんなんだろう“と夢の中で呟いた)。僕は一体、車など持っていないのだ。不思議なことがあるものだ。どうしたってこんなものに乗っているんだろう。クリスマスに子供が自転車をプレゼントされるのとは違うのだ。誰も僕にくれちゃいない。しかしそれは確かに僕の車だった。歩道で止まっている僕の方に、マンションの向かいにある居酒屋の客達が一度振り向いた。賑わうカウンター越しにオーナーの女と目があった。そうか、若い男達はここで飲んでいたんだと僕は思った。何度か行ったことがあったが確かに悪い店ではなかった。オープンテラスのようになっていて、外へ出て夏は夏の、冬は冬の空気を感じることのできる小洒落た作りだったし、オーナーは幾ら飲んでも車で帰った(それほどしっかりした人だった。あるいはしっかりしていなかった)。外で飲む客を見て、今の季節は外が涼しくて気持ちがいいだろうな、と僕は思った。しかし僕はそこでお酒を飲むわけにはいかなかった。第一に何処かへ(それは何処か僕はよく覚えていない)行くために運転をしなければならなかったし、酒を飲めば、運転することはできないのだ。しっかりしているか否かに関わらず、法律で。

 僕はそのまま烏丸に向かって走ろうとした。すぐの信号が青になって、アクセルを踏み込むと次の瞬間不思議なことが起こった。車が前に進むと同時に車がどんどんと小さくなっていくのだ。少しずつ、止まることなく車は小さくなっていった。中がぎゅうぎゅうになってきて、次第に頭と肩がキツくなってきた。このままでは、まるでミニカーのようになってしまうのでは無いかと僕は怖くなって路肩に寄せて車を降りてみた。するとカムリは人生ゲームの駒のようにコンパクトになっていて、僕は手でそれが摘めるほどの大きさになっていることに気づいた。なんてこった、これじゃあまるでLSDかスーパーリミナルの世界だと僕は思ったが、僕がカムリを手のひらに収めた所で、夢は終わってしまった。夢から覚めると、もう朝の9時で、カーテンの隙間から日差しが漏れていた。ふー、やっばー。トレイラーパークボーイズのED曲が流れるよね。こういう時は。

 

僕と煙草

実は、煙草について僕は文章を書くのが初めてである(今はそれについて話すことさえほぼ無い)。何故ならば、それは当然に吸うものとして喫んで初めて意味を持つ行為だと、わかっていたし何よりも僕らは初等教育の時から喫煙防止の為の教育を受けていた。その為に、健康被害については十分に理解をしていたはずだし、そうした喫煙者が煙草に関して持っている話題など喫煙による疾患を気にしているかだとか、銘柄に関するもの、吸っている間の時間の流れが違うなどといった程度のことで、語り尽くされた、その会話に何の意味があるのかわからなかったからだ。

それなのに何故、今になって(僕はしばらく禁煙をしている)煙草のことなど考えるようになってしまったのだろう。その念慮はふと、現れた。この僅かに覚えのある5月の匂いや、これからやってくる初夏のことを思って。

 

思い返してみると幼い頃から、僕はこの時期の初夏の匂いが好きだった。吸い込めば、僕の原風景には無いどこか遠い山間の田舎の風景がふと現れ(不思議なことにそこではいつまでも僕は少年なのだ)、一日中昆虫を取ったり川で遊んだりするのだ。毎年、必ずその時期はやってきて僕にその風景を想像させる。この僕が女の子達と無邪気に戯れることの出来た小学生の時も。引っ越してきてはじめての夏を迎えた中学生の時も。好きな子ができた時期も決まって、この季節だった(何故だか)。

高校になってはじめて煙草をもらった時、恐らく皆がそうである様に、僕は酷く思い悩んでいた時期だった。そしてそれは必然に、この季節だったのだ。女の子のことだとか自分のことだとか、漠然な心配事が沢山あって、この憂鬱な梅雨の塩梅と相まって感傷的な女学生のようになって煙草を一吸いした。すると、煙を透いて目の前の雑踏や、学生や、女や男が、ビル群が、現実がまじまじとみえてきて更に困った。

一息吸えばユートピアな世界を見れるんじゃあなかったのか!

たしかにそれらはこれから僕が大人になるために見なければならないものだったし、見るべきものだっただろう。でも、煙は匂って仕方がなかったし、急に見えてしまったことでいささか戸惑った。そのせいもあってそれからしばらく、煙草は引き出しに入ったままだった。

 

その夏、半分くらいが過ぎた頃、僕らはバンドを組んで練習のためにスタジオを借りた。ギターを3本持って、道玄坂の安いスタジオに気合を入れて5時間も入った。帰りに反省会をするというのが僕のバンドマンのイメージだったから、メンバーの1人が大人に見えることもあって彼を押して居酒屋に突撃した。ジントニックを頼んで。殆どスペースシャワーでやっていたバンドマンのイメージそのままに調子に乗って(普段僕は慎重深くめったに時間を忘れることなどなかったが)終電が無くなるまで盛り上がった。店を出ると、そこは渋谷で、僕は内心かなり慌てた。終電を逃したことはこれまで一度もなかったし、一体、始発までどうすれば良いのだろう。直ぐにでも風呂に入って布団で寝たかったが、歩いて帰れる距離では無かった。結局、「安く泊まれるところがある」とか特攻隊長が言って、僕は相当引いたが、ラブホテルに泊まった。男3人で。

彼は殆ど全てのするべきこと(受付や説明も)をしたせいで、すぐ寝たが、酔いが覚めて僕はとても寝れなかった。シャワーが空いて交代で入った。シャワーの下に真っ赤なシャンプーとリンスの容器があって、僕は丁寧に普段はしないリンスまでつけて髪を洗った。このシャンプーの匂いはなんていうか、女の子の匂いがして、僕は一瞬くらっとした。「このシャンプー、絶対買おう」とその時商品名を覚えたが、忘れてしまった。

シャワーから出ると一人はベットを占拠していてもう一人は床で吐きながら蹲っていた。彼の嘔吐物と女の子のシャンプーの匂いがふっと合わさって、僕は立ち尽くして絶望した。「ああ、僕は何をやってるんだろう」と」泣きたくなった。その頃、バイトもしていなかったから親の金で、遊んだ挙句男とラブホに泊まって悲惨な臭いに包まれているのだ。その時だった。ふと夏のあの原風景がぼんやりと浮かんできたのだ。でも、その時の僕の状態はそんな綺麗な風景とは遠くかけ離れすぎていた。夢など見てる場合じゃないのだ。アーァと思って寝転がりながら久々にタバコを吸った。すると自分が上から俯瞰出来たせいで、余計に惨めな気持ちになって、何度か吸い込んで、僕はすぐ火を消した。

 

僕はそれから、夏の匂いの原風景が現れると必ず煙草を吸った。するとその景色はさっと無くなって、目の前の現実が戻ってくる。僕が向き合わなくてはならない様々なことや、どうしようもない寂しさが吸えば、吸うほどに僕には感じられた。他人には解らない僕だけの気持ち。そんなことを噛み締めながら煙を吸い込んでいると、ぼーっとしてきて、気づいたら大人になっていた。僕は大学に入学して京都に引っ越した。着いて直ぐに祇園のバーで働き始めた。面接に行ってすぐ、僕はバーで働かなければいけないし、働くべきだと直感した。煙草を吸いながら面接をした店長は終わりに、一杯作ってくれた。チャイナブルーというカクテルで、それは僕の中ではどちらかというと、どこにでもあるありふれた、作られ過ぎた安いカクテルだった。スピリッツベースの小説通りのカッコいいカクテルとは、違ったが、これがカクテルか!ととても感動したのである。

僕は接客は苦手だったが思いの外、酒が好きで結局そこに4回生になるまで勤めた。そこでは、ほんとうに沢山の人に出会った。それぞれ、嵐の様にやってきては去っていく人も、此方が注意深く接しなければ崩れてしまいそうな精巧なバランス板の上に立っている様な人も。水商売というのはその名の通り、水流れの様に人の流れが激しいからそう言うんだよと何人かが僕に言ったが、実際にそうだった。あんなに近づいたのに、明くる日には遠く離れていくことがよくある。煙草を捨てた灰皿だけ残して。

彼ら彼女らは皆、そこにいる殆ど全ての人間が煙草を吸っていた。あるいは煙草を吸っていない人も居たかもしれない。しかし、よく覚えていないのだ。彼らの残り香には必ず煙草の煙の影があって、僕はそれを楽しんだ。それを記憶しているのだろう。その空間では不思議と、煙草は僕にとって普段と逆の作用をもった。現実に戻すことなどないばかりか、ステージ上に居る彼らの言葉の説得力を増した。さながら大統領の言葉の様に。ある時は、贅沢なファーが首の周りに付いている(この服をなんと呼ぶのだろう)、兎を何匹殺したら作れるか解らないような洋服を着た女の子がやってきて、僕は上着を預るときに落としそうになった。今までに触ったことのないほどの弾力と滑らかさだったからだ。彼女はそれからも、よく店に来た。金持ちな大学生だった(よく働いていたんだろう)。誰かと来ることもあったし、一人で来ることもあった。靴もいつも違ったがその上着はいつも同じだった。そして決まってグラスホッパーを頼んだ。彼女は甘い煙草を吸っていて、僕はそう思わなかったが、それと良く合うのだと言った。会計はいつも万札で小銭は要らない客だった。

仕事に慣れ、要領を得てくると次第に時間に余裕が出てくるものだ。僕はカウンターの裏で吸う煙草の本数が次第に増えていくことに気づいていた。その店は特別忙しくは無かったので、日を跨ぐといつも客足がまばらになった。朝方に近づくにつれて店もどんどんと空いていくようになっていって、そうなってくるとよく、僕は窓から、道路を見下ろした。僕と同級生くらいの、アフターのキャストがいつも何人もになって道に広がっていつまでも話していた。内容は聞こえない。でもその声はとても響いて音色として聞こえた。ドレス姿はとても綺麗で、彼女たちはそこにいるべきでは無いように思えた。

京都に来て初めての初夏がやってきて、僕はその年好きになった女の子と花火を観に行った。市内ではやってなかったから、日本海側までわざわざ見に行った。その夏も、とても暑い夏で夕方になっても僕は汗だくで、近くの屋台でビールを買って花火を見た。彼女はジーマを買ってた(チャラい…)。そのあと告白しようとしたのだが、何故かどうしても一言言えずに、沈黙してから、気づいたら100mくらい先にあるコンビニを指差してちょっと煙草を吸ってくると言っていた。ひどい。その時の煙草の煙の匂いが手に染み付いてなかなか落ちない。今でも匂いがある気がするほどだ。電車に乗って帰っている時も、帰り道駅から歩いている時も言えなくて、とうとう家の前で一言伝えた。彼女の家から帰る道、また一本吸った。最高の感情で。

 

去年の8月にインドに再び行って、2週間もしないうちにひどく身体を壊した。安宿を転々として安静のために大体寝ていたが、ある日、日が落ちてから久しぶりに外へ食事をしに行くと、乞食達に囲まれた。よくあることなので相手にしなかったが、僕がレストランに入ってもまだ、しゃがんでコッチを見ている。外は大きい道路で車が走るたびに、砂埃が舞うようなところだった。おまけに排気ガスが酷く、車のライトで照らされると、あたりは煙だらけで、それが彼らの呼吸に吸い込まれていくところがスローモーションで見えた。そんなところにいるべきじゃないよと、僕は思った。宿に帰ってからも、そのシーンが忘れられずに病み上がりの僕は、煙草に火をつけた。一吸いしてから、口から吐き出すと煙が目の前を登っていって、僕はしまった、と思った。何をやってるんだ俺は。こんなもの吸っていたって煙と灰になっているだけだ…。なにをしてるんだろう…。

 

それから一年ちかく禁煙しても、解らないことがある。端的に言えばそれは、この喪失感だ。

僕の日常の一部として、いや僕の一部としてあった煙草が消えたことによって、自分を象るピースのカケラが一つ欠けたままになっているような気がしてならないのだ。しかし、それも煙草の精神依存…と宥めていた。

今月、4月から翡翠が禁煙になったということを知らされた。翡翠は僕のお気に入りの喫茶店の一つでよく行っていた。雨の日も朝にも夜にも、授業の途中にもよく行った。だが僕はそこでどんな話を、何をしていたのかよく覚えていなかった。写真をよくとっていたのを思い出し、1年存在を忘れていたフィルムカメラの埃をはらって、一枚残っていたので部屋からの風景を適当に撮ってから現像した。中には翡翠での写真があって、僕は煙草を吸っていた。そこには、今は状況がすっかり変わってしまった友人が写っていたり、僕の好きだった本や珈琲があった。それを見て僕は僕が失っていた時間の重さをとても感じた。その失った時間はもう二度と戻ってこないのだ。では、どうしたら良いのだろう。しっかりと考えなくては「ジュポッ」(火をつける音)

*吸いませんがw

印度にて#1

今年の夏休みも、僕はインドに来ていて南インド、つまりブバネーシュワルやビシャーカパトナムからさらに南に、ヴィジャヤワダという街があって、一泊した後こうしてハイデラバードに向かう列車の中にいる。これまでで最長の日程で組んだインドの旅はすでに1週目で修羅場を迎えていた。昨年コルカタでドミトリーが一緒になって仲良くなった友人に会いにアッサムに飛ぶところから今回の旅行は始まったわけだが、その家では家族皆完全な菜食主義者であったから(珍しい事でもないが)滞在中3,4日毎食ご馳走になったわけだが全てベジタリアン料理であった。こんなに沢山の家庭のベジタリアン料理を食べたのは初めてでバリエーションの豊かさと、しかしそれら全てに共通するスパイス感に飽きが来ないように楽しんでいた。やはり彼らが長いことにわたり食べているだけあって、スパイスというのは味わって食べてみると非常に複雑な味わいがあって面白い。発酵食品に似たような広がりがあるものまである様子。中国の昆明に住む友人宅に行った時もそうであったが、ある程度裕福な彼らは日本の裕福な層の食生活と比べて非常に健康志向で、すなわち質素な食事を日常的にしているようなイメージがある。

しかしインド人の味覚の謎は深いね。例えば彼らは結構な品数の料理にケチャップを入れているかディップするかするし、何を食っても(僕は案外辛い食べ物も食べられる方だがそれでも)相当に辛い。毎食カレー風味のソースとパンかご飯が基本である。その味付けで毎日よく飽きがこないなあと感心するものの、単に馬鹿舌なのではないかとさえ思う時がある。しかし殊日本食に関しても醤油ベースの味付けが大半であることを鑑みると案外、僕が慣れていないだけで現地人にしてみれば疑問すら抱かないようなことなのかもしれないね。 

とにかく僕には毎日カレーという食生活が耐えられずに、しんどく思う事が多いから今回は味噌汁やインスタントラーメンを持参したが、既に大半食べてしまい残りを見ると憂鬱になる。絶対に足りない。幸い現代インドでは外資系のチェーンファストフード店などがかなりあるからインド料理が食べたくない時はそういったところへ行けば良いから助かる。どれもインド風の味付けだが。

アッサムの首都ゴウハティ市に彼の家はあったが、彼らは予想していたよりも遥かに裕福な暮らしをしていて、町で一番か二番に高いマンションの高層階からは街全体が見渡せた。そこから見るとゴウハティは山に囲まれていて、高い建築物がとても少なくまるで京都のようだと思った。聞くと彼の父親は運送会社の社長だそうだがそのマンションには24時間入り口に警備員が沢山いるし、床は大理石のようだし何よりもその家には召使がいた。僕は住み込みで使える使用人がインドには居ると知ってはいたが、流石だと驚いていた。彼は今僕と同い年だが、2歳の頃からその召使いとは一緒にいるそうだ。家族のようだが、家族ではない関係が新鮮で興味があったがその事についてはあまり話さなかった。 

 やはり父親はかなりしっかりとした人物で、この父にしてこの子ありといった印象だった。穏やかな喋り方と身なりもキマっていたが観光地に一緒に行った時に「写真を撮ってくれ」と言われたので撮っていると、ムービーで撮りながらカメラに向かって歩いて来るという謎の拘りがあるそうで一気に不安になった。でも親子で楽しそうだったのでよかった。

3日目には日本から一緒に来ていた友人が高熱と風邪のような症状で寝込んでしまい、僕らは2人で観光をする事になったが、美術館で前衛的な絵を見ていた時にいきなり僕は頭がとても痛くなってしまい、家に帰って熱を測ると40度近く有ったので結局僕もその日はずっと寝ていた。それは彼にとっても夏休み最後の日で、色々な観光名所をプランニングしてくれていた。だから彼はかなり(露骨に)残念そうにしていたので悪いなあと思ったが、夕方になっても症状は悪化するばかりでどうしようもなかったので、夜になって起き上がれるようになってからベランダで彼のお兄さんと3人でギターを弾きながら歌った。僕からはさよならCOLOR翼をくださいを歌って、これが大ウケした。一緒に歌ってくれた。僕はこの夏前からヒンディー語を勉強していて、漸く読み書きが出来る程になったのだがやはり彼らの日本語の発音を聞いているととても上手い。日本語とヒンディー語はかなり発音が似ているように思う。日本語に反り舌とか同音の有気無気とかの差は無いけど。

そのあと彼らもヒンディー語の歌を歌ってくれた。とてもスムーズで美しいメロディーで”Life is changing every moment, sometimes there is sunshine”というサビの良い曲だった。

その後日本人の友人は限界だといって日本へ帰国したので僕はそれから一人で旅を続ける事になった。それはそれで仕方がない事だし、別れをいって薬だけ分けてもらった。しかし日本語が喋れる仲間が居なくなったのは精神衛生上よくは無いと思う。日本語を使ってないとなんだか気が滅入る時がある。こちらで話すのは英語だし、この辺りはオリヤー語かタミル語なので、勉強してない僕は全く訳が分からない。その中でも「英語を見つけた時にちょっと落ち着く」みたいなことってあったけど、ヒンディー語を見つけた時にちょっと落ち着く感が最近ある。読めるから。地図で地名が読めるのは大きいと感じる。

地図といえば、インドはIT大国であると言われる。現にインターネット回線は結構な僻地でも通じるし街中では国旗よりもAirtel4Gという広告をよく見る程だ。それ故にインドで旅行をする為にはインターネット回線がほぼ必須だと思う。僕はアナログな旅をしたいと思っている方だが、技術進歩によってある程度利用すべきものは時代を経て変わってきている筈だ。ネットを契約しない旅の方がむしろ高くつくと僕はみている。 

 昔であれば勿論インターネットなど無くひとたび駅に着けばリキシャのおじさんたちに囲まれ、値段交渉をし、ホテルの近くまで行っても正確な場所がわからずに道の人に聞き回る、なんてことをしたのかも知れないがそれは現代では日本人むけのアトラクションに成り下がり、必然の選択肢では無いように思う。つまりインターネット回線により地図が把握できて、タクシーは定額でUberなどで呼び、クレジット決済をした方が安いし早いし正確で疲れないからである。Uberに限らずともバスの路線など非常にわかりにくい事が多いがマップでそれらも確認した上で行動した方がミスが少ない。そうした意味でネットによってインド旅行のハードルはどんどん低くなっているのかも知れないね。

 

兎にも角にも先ずもって僕が言いたいのは、人間であることを忘れた人間は怖いということである。日本は超潔癖社会で全体主義の元、規律が重要で享楽追及に長けている印象がないこともない。しかし子供が実験のために与えられた知育玩具を白い部屋で並べているように、クリーンルームで積み木遊びするのが例え楽しかったとしてもそれが一体人間として正しいことかどうか、分からないね。エアコンのちょうどよくかかった高層ビルで高い洋服とブランドバッグで出勤し雨や風が吹いただけで気にする化粧と髪型とほんの少しの体臭や汚れも見落とさない目線の中に仕事終わりに近くのレストランで鶏料理を食べている鶏の屠殺から顔を背ける女と男のデートがあったとてそれが日本社会で人間的(文化的)であり僕らが目指す生活なのであればそれに対する信念が揺らがないでもない。僕はインドに行けばこっちの人と同じことをしてるだけで高熱の風邪をひき、同じ水を飲んだら下痢になって目の前で生き物殺して食ってる訳で、乞食や物乞いや、真っ黒の肌でガリガリ生ゴミを漁ってるお婆さんや、一日中裸足で道路工事でセメントを溶かしては流す仕事をしているおじいさんや、一日中ドアを開けては閉めるだけが仕事の少年や、牛と犬と鼠とゴミだらけで汚い床に寝てる少年のような体格の爺さんと同じ人間であるということは、きっと忘れちゃ、ダメだね。 

 現代日本に住んでいると恰も僕らはまるで人間ではないもっと完璧な存在であるように錯覚する事がある(その代わりに精神に起因する人間の不完璧さは大好きだけど)。動物的な側面を削いでいって、その先に何が残ったのかと考えるとまさに今の日本の有様であるように思う。人間であることを忘れた傲慢さが更に傲慢な態度を生み出している。僕が思うに、主に若年層でやはり「自分たちは今日を享受しているだけだからなぁ」という傍観的傲慢な観念がある気がする。確かに日本は水道が飲めて送電技術は最高で下水もしっかりしてて治安は良くて生活は概ね安定していて概ね法治されていて世界的に見れば素晴らしくない国であるという人はいないだろうが、やはり高度に整備された社会に所以する社会無関心、さらにそれから派生するナショナリズムの喪失という傲慢は、如何なものかと思う。

あくまで考え方に関するものだが、日本では主に人が死ぬと墓に埋葬される。しかしインド(ヒンドゥー教)の人は死ぬと火葬の後、灰は川へ流される。この二つの違いも上述した思想に影響しているのではないだろうか。やはり自然から生まれたのだから自然へ返るという考え方。僕はこれまで死んだら自然に返るとか還りたいとか、そう思った事すら無かったから。でも、川に流されるのも悪くはないかも。とも思う。 

それでも若さというものの素晴らしさ

例えばね、僕は近頃男女関係についてよく考える。それに関してすごい狭い世界で物事が進んでいる様に思うよ。男は色欲に半ば耄碌して殆どこの世のものとは思えないほどの醜いことを繰り返すし、女は、はっきり言ってそれ以上だね。

この前、僕らも殆ど耄碌していて、相席ラウンジみたいなのって、流行ってるでしょ。ああいうところは京都にもあって、何しろその日は何が何でも女の子と何かしたいって日だったから、そこに行くことにした。内装はキャバクラみたいにキラキラしてて、オープンなテーブルがたくさん並んでる。きっと素敵なドレスを装った香水の女がいれば、それなりにいい場所なんだろうけど女の子が来ないから10分くらい、とんでもなく不味いモヒートを飲んで相席を待った。挙句来た女は27か28の木屋町で働いてそうな二人組で、席に着くなり「おにーさん、何飲むの?」っていって片方は「シャンパン行こっか」

なんというか、こっちはもっと女の子らしい、会話を期待していたんだけどああそうか、と合点もいく。この上なく女の子らしい。シャンパン…。

兎に角相席を待っている間の小っ恥ずかしさみたいなものがどうにも苦手だね。紛れも無く女の子と話しに来てるって丸分かりなんだから興味なさそうにしてるのも何か違うし、視姦する程見てるとそれはそれで気持ち悪いでしょ。前ではおじさんのグループが盛り上がってるし、僕は味のない酒と煙草しかないからね。友人と積もる話もする気にならない空気でね。

クラブに踊りに行って一人でカウンターで飲んでるのともまた違うし、行き場のない虚無感。三条上から木屋町通りを下っていくと何組もの女の子たちとすれ違った。皆どこかに行く途中か、帰る途中に見える。

若さというものは素晴らしいね。

平成31年4月30日

間も無くすると平成が終わって、新元号の令和になるね。令和とはいい響きだ。平成が終わるとなるとね、少し寂しい感じがするね。何しろ僕は平成生まれだったし、全ての人生がこれまで平成に起きたことで、そんな自分にとって長く過ごしてきた時代が一つ終わると言われると懐かしんでみたり、してしまいそう。僕が過ごした平成は約20年間。平成10年梅雨から平成31年春。ひとしきり振り返ってみたあと、印象的なのは大体運動会のプログラムの表紙に書いてあった「平成24年」とかの表記や卒業文集や作文の最後に書く日付のところの平成何年って書いたことくらいで、いよいろ終わろうとしてる今だから強く意識しているものの、普段あまり意識するようなものでは無かったかもしれない。しかし静かに側にあったもの感がしてくる、不思議ね。今回改元に際して和暦を廃止せよだの意見があったけれども僕は和暦、上手く使っていくべきだと思う。これもまた一つの時代の節目を見出す助けになるはずだから。平成に死んだ人はそのまま僕からしたら平成を生き続けてるし、令和に生まれた子供は、平成時代なんて想像もつかないだろう。僕らが昭和時代の想像がつかないように。

時代というものは断続的に続いているものであるのにも関わらず、その時代、時代のイメージというものははっきりと分かれていて、想像に易いように思う。昭和なら例えば戦争と高度経済成長でしょ、僕の平成に対するイメージは何だろう、それも一言にまとめようとすると、纏まってしまうのだろうか。

NUMBERGIRL再結成に言寄せて

ナンバーガールが、再結成してライブをするという知らせを、聞いて僕はめっちゃ驚いた。先輩からラインが来ててね、朝起きて携帯見たら「ナンバーガール復活おめでとうございます」

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例のライン

バッって起き上がってねマジかって浮き足立ってしまうよね。

昔ねクリスマスの日に朝がやってきて、起きて足元の方を確認する。プレゼントがないかって。毎年足元に、プレゼントが置かれていたんだね。しかしその年は足元にプレゼントがなかった。僕は焦って急いで二段ベットを降りていって部屋の中を探すんだけどどこにも無い。普段はこんなに早く起きないだろうけど一年に一度、その日に限っては頭が冴え切っててね、寝ることもなしに一階に降りて行ってリビングを見ると、そこに自転車がある訳。うわーってなってこれが、プレゼントなのか!って後から頭がついてくるカンジ。子供用の緑のブリジストン。後々それに乗ってどこに行っただとかね、はっきり言って覚えてないが、その朝に見たピカピカのブリジストンは物凄く鮮明に覚えてるね。家の中、しかもリビングにはカーペットが敷いてあってその上に、自転車が置いてあるという不思議な感じと一緒に。

とは言え、言っても僕はその当時小2か3程度で、プレゼントはサンタが持ってきてる50%、親が用意してる50%くらいに思ってたから、前日に家の中を探し回って親がプレゼント用意していないかとか車庫の裏とか確認していたんだけれど見つからなかった。それで起きたらなんと家の中に自転車があるわけ。玄関は鍵かかってるしさ、マジでどうやって入れたんやろ。

 

ま、僕はナンバガ再結成の一報を聞いた瞬間、そんな気分になったね。マジで?公式発表探しに行こう!みたいな。そしたらさ向井さんがまた味ある文章を出しててね。超舞い上がった。三栖氏が手がけたのだろうか。

 

高校の時に僕はナンバーガールがめっちゃ好きだった。マジで超好きだった。毎日毎時間毎秒聞いてた。今でも偶に聞くけれど、正直に言って当時ほど、歌詞にも、音一つ一つにも共感出来ていないかなと思う。そこに、悲しさもあるね。

歌詞にしろ音にしろ何一つ響かないという訳では無いけれど、あぁこのギターの音って素晴らしいなとか、向井さんのシャウトのカッコよさとか歌詞の文学的さだとかイマイチ、わからないことが最近多くなった。

しかしそれはこのバンドに限ったことでは無いかもしれないね、ブッチャーズもイースタンユースピロウズピクシーズウィーザーレディオヘッドも。ギターロックの音一つ一つに中々集中して聞くことが少なくなってる。コード進行一つ一つに感動を覚えないしインスタントミュージックとして消費する音楽としてギターロックを聞いてしまってる、かもしれない。そういうことを考えると高校時代、当時が懐かしくもなるし、しかし経てきたものである訳だから気にもならないとも思う。

ところで、音や文学的歌詞に夢中になるのは楽しくってね、そんなふうに又なりたいと感傷に浸る時がある。そうさせてくれるのは今の僕にとってもやはりナンバガなのではないかと、思って再結成に寄せています。

 

高校の時にコピーした動画


「透明少女」my last take

なんと喜ばしい感触を持ったものなのだろう。なんと生命力にあふれたものだろう。

北海道特有の、この寒〜い寒い風の感じと、マフラーの巻き方にめっちゃ田舎の駅で降りてく学生達。大体駅名の看板の下には”本場の味を サッポロビール”って書いてあって、街中セイコーマートばかり。(セイコーマートのATMだけど、旅行客にとっては使いにくすぎるよね) 北海道は海産物だけじゃなしに農作物も盛んだから全国のスーパーに行っても道産の野菜って結構並んでるけど、此処ではかなり”道産”という言葉を目にするね。”道民”も。

地方に行くと、地元の物だとか対地元民の市場が広くて旅行すると面白いけど、北海道は本州の各県に比べてもかなりローカル特権意識があるように感じます。で、これってすごい良い事なんだろうな。って思いました。ブルーハーブのCoast2 Coast2という曲にこんなリリックがあるんですが、この意味するところ、よく解っていなかった。

 

針先、ペン、P先の導き、何よりも先、信じる気になって初めて千歳で降りろ そして乗り遅れることなくそこから更に北に向かえ 一週間ほどじゃ一割もわからない、北だけが持つ奥行きの理由は 地下一階はほぼ全て間違いない、素面でも言えるぜ、時代は 近いと本拠地、平岸シエラマエストラからノストラダムス並みに裏の裏を読む ノースコースト・ラ・コーザノストラ すぐに認めることになる 俺をBOSSとな 

(COAST2COAST2 - Tha Blue Herb)

 

ブルーハーブは東京一極集中に対してだとか、出身地札幌とかについてよく謳ってる印象があるんだけれど、これに関してもきっとそれは入っていて、僕は苫小牧から東室蘭に向かう途中の室蘭本線の中。窓からはよく海が見えるんだね、海岸線にほぼ沿ってずっと函館の方まで行くんだけど。で、それは日本海側を通る路線とかと同じ(に一見すると見える)ような海なんだけどよく見ていると違うことに気づいた。で、思い出した。これは、北海道の海だ! 目を凝らせば、対岸には本州が見えてくる海だった。此処は、北で、千歳を超えてそこからさらに北に向かえば大都会があるものの、本州の東京や、大阪が、名古屋が、見えてきた。この、なんというか土地独特の感覚は地元に根付いてる人間であれば恐らく覚えたことがあるんじゃないかとさえ思う程に確信的なものだったと思う。

やはり、海がそこにはあって本土とは切り離されていて、という本土カルチャーへの疎外感。 もし、全然なかったら、スルーして。

札幌は外国人が多くてね、かなり外国語が聞こえる。市電も外人だらけ。しかし良い雰囲気なのね。北海道って自然が凄いからそうなんじゃないのかなって思うね。自然が凄いってかなりアバウトな言い方だけど。例えば京都は観光都市だと思うけど観光資源は人工物ばかりだよね。北海道に来る観光客は、人工物を見に来る人より自然的な物や場所を見にきてる人の方が多い気がする。人工物を見る以上、理解するためにはそれに関する文化知識はある程度必要だろうが、京都に来る外人は、日本の文化なんか難しくて絶対に解らない(それこそ一週間ほどじゃ一割もわからないはず)。まあもちろんそれじゃ観光都市にならないだろうから簡略化したり外人ウケしやすいカタチに落とし込んで文化を紹介してる。だから彼らは解ったような気になって帰っていくだろうけど。たまに日本人でも「偽物の文化ばかり紹介しやがって!」なんて聞くけどでも、僕は悪いのは紹介する日本人でも外国人でさえも無いと思う。文化の理解というものがそもそも彼らの旅行の目的じゃ無いだろうからだ。彼らの旅行の目的はあくまで”分かり易くて面白い日本っぽい文化”だから。彼らにとって”ありがとう”を言う時に両手を合わせるのはタイ人でも日本人でもどっちでも良いし、神社の神様の名前なんかどうでも良い。只管にお辞儀がしたいだけなのだ。逆に本当のことの理解を促せば促すだけきっと彼らは冷めていくだろう。仕方ない。そんな外国人観光客が僕たちと唯一感覚を共に出来るのが自然の力によるものだろう。超積った雪の山とか市場に並ぶ魚の色が原色の真緑だった時とか。 本物の文化を伝えることって本当はものすごく難しいことなんじゃ無いかってこの頃思うね。フランスだってワインぼんぼん輸出してるけど、あれは別にフランス文化のことなんか、日本で飲んでる人たちはほぼ理解してないだろう。格好だけ。それぞれに理解がないのは、それぞれに奥行きが乏しくなるよね、当然だけど。ワイン、スクリューキャップ回してマグカップに入れて胃に流し込むだけ。

こんなに目に見えやすい食文化でさえ、他国についてはほぼ理解がないのだから、多人種(国籍)理解だとか、そりゃあ難しいわけだよなって思う。

 

行きはJALのマイルを消化して飛行機で行ったんだけど帰りは18切符で帰ってきた。札幌から函館へ。函館から秋田へ、そして福島から東京へ。ゆっくりと、時間をかけて。帰りの電車の中ではかなり時間があるからね、暇になるだろうと思って本を持ってきた。村上春樹騎士団長殺しの下。ちょうど浦和あたりで読み終わった。特に印象に残ったのは、主人公が井戸の中から何日かぶりに救出されるときに仰向けになって雨に当たる時の文章。僕はこれに痺れてしまって、何度か本を閉じたり開いたりして読み直してしまった。

 

小さな硬い雨粒が頰と額を打つ感触があった。私はその不揃いな感触をじっくりと楽しんだ。これまで気づかなかったけれど、雨というのはなんと喜ばしい感触を持ったものなのだろう。なんと生命力にあふれたものだろう。たとえそれが冬の初めの冷ややかな雨であってもだ。

騎士団長殺し 第二部 (村上春樹)

僕はこれを読んでふと、南下する中でのこれまでの雪のそれぞれを思った。言われてみると、雨に同様雪というのはなんと喜ばしい感触を持ったものなのだろうと思った。でも、雨って、言ったのはすごい。雨って、ものすごく喜ばしい感触だよね、確かに。

これに掛けては特筆されてないけれども、この小説に関しては割に面白い文章を内田樹が書いていたので紹介しますね。 

境界線と死者たちと狐のこと

 

 

 

どんなにきみがすきだかあててごらん

読書の秋やね、先週末北千住でスタジオに入る前、夜10時前頃かな本屋で時間を潰してた。するとね、児童書のコーナーが結構たくさん取られてるところで、そこだけ人が少なかったのね。だからそのへんをうろうろしてた。大体ああいう時間帯、探すべき本が無い時なんて小説や雑誌を見るのは怠いから、丁度良かった。

棚に並んでるのは、見たことのある本ばかりだった。僕の家庭は幼い頃、母親が非常に熱心に教育をしていた方であったから本に関してはよく読んでいた。隣町の大きい図書館に一週間に一度は通い、カートに乗せるだけの本を借りては、車に乗せては降ろしていた記憶がある。

そらまめくんのベット、じぶんだけのいろ、セロ弾きのゴージュ(これは当時の僕にとって非常に難しかった)、おおきくなりすぎたくま、ふたりはともだち、こぐまのくまくん、もりのなか、はらぺこあおむし、おおきなかぶ、三びきやぎのがらがらどん、そしてどろんこハリー。

それぞれの本を読んでいると、これらの本の素晴らしいことに気づいた。児童文学の素晴らしさ。

ま、歳を食ってスレた思想や哲学、これは結構なことだけれど、そういったものを持つ最近の俺がぽかーんって浮いてくるような説得力があるような気がするね。

小学生の時に僕は犬を飼いたいと思った。その時の気持ちって覚えているのだけれど、どろんこハリーのイメージが完全にあるのね。果物それぞれを見ても、はらぺこあおむしの絵を今でも、思い出すことがあるよ。あんな単純な本と絵だろう、そんなに何が良いんだろう。って思うけどね、素朴で純粋な気持ちの綺麗さや完璧さ。

 

どんなにきみがすきだかあててごらんっていう絵本があるね。デカウサギとチビウサギってのが出てくるんだが、彼らはとてもストレートに気持ちを伝え合うんだね。チビウサギは”僕の方がきみのことが好きだ”って言ったらデカウサギが張り合ってくる。ぼくも、こんな本を自分の子供に読み聞かせしてあげたいな。

児童書についてこれこれこうだからこの文が素晴らしいだとかって、託けてる感じがして気がひけるんだけど、最後にデカウサギの言う”ぼくは、きみのこと、おつきさままでいって、かえってくるぐらい、すきだよ”っていうのは果てしてどれくらいなのだろうと、思いを馳せますね。