シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

コルカタ4日目に、思うこと。

今日は、とても天気が良かった。気温は30℃くらい。これは、結構暑いのだ。一日中歩いていると、太陽は…さして近いわけでもないがなんかこう、炙られてる感じよね。

昨日はとても良い宿に泊まった。またドミトリーであったが、AC付きだし水回りが綺麗で僕としては助かった。相変わらずファンは物凄くうるさいが、そんなことはどうでも良かった。そんなわけで、今日もここに連泊することにした。

 

四年前の夏に、こんなことを書いていた。

 どうしても他の国に来ると自国若しくは長く自分が滞在していた国と国をくらべてしまうものですがここで最初に思ったのは何もかもが汚いということです。ぼくは特別潔癖性ではないし強迫性障害でもないですが、それでもすごい汚いと感じ、どこでもドアで夜だけ日本で寝たいくらいです。 Think different - #1 from US

thinkdifferent.hatenadiary.com

 

この感覚を、僕は忘れかけている。インドっていうのは不思議な国だ。僕が常々思ってることなんだけど、日本ほど室内と屋外を分けて考えている国って、ないんじゃないかな。部屋の中と、外。建物の中と、外。レストランの中と、外。

「日本の建物に外との隔たりがあるって?古民家なんかそんなことないじゃん」

確かに。現代建築においてね。

僕の中では、部屋に入るときはきっちりと綺麗な状態でとか、ベットの上には体を洗ってからだとか、ソファーに土足で上がらないとか、なんかそんなことを昔から大事にしてきたのね。 だから、ベットルームが汚いのが無理だったし、四年前のは、そんなところに一生住めないよ!っていう意味の発言だろうね。

 

インドではさ、外と中の区切りがない。もちろん土足だし窓も開いてて、外の匂いがする。湿気がすごいし、ベトベトする。シャワー浴びても浴びても、ベトベトする。だから、諦めた。クリーンな状態の体を持って、寝ることを僕は諦めた。

諦めてみると、道に寝転んでいる人間が見えてきた。彼らは、ダンボールを引いているだけマシな方で、糞尿や泥の中、ハエがいくらとまろうといつまでも、昼間になっても、寝てる。寝る前にシャワーは浴びないだろうし、朝起きて、そのまま道端の水が出るところがあるんだけどそこで頭をゴシゴシやってる。

それはものすごく、素晴らしいことだ。

ま、体を綺麗に保つということは同時に身を繕うということでもあり、それは素晴らしいことだが、人間臭く、もっといえば動物くさく朝も夜も路上で過ごしてる彼らは素晴らしかった。

普段僕らが恥だ、と言って切り離している、つまり見えないように隠している部分をここでは見せられるのだ。

彼らは人間を信用しているし見限っているようにも見える。自らの肉体、自らの感覚を信じてるし、見限ってるように、見えるんだよなぁ。

このなんて言うんだろう、自分という肉体への見限りとでも言うかな。これが僕にはどの世界で住むものよりも潔く、恥でないように見えてくるんだよなぁ。

自分の肉体の見限りって言うのはさ、難しいね。まず、自分の肉体が意識の入れ物だって考えが僕には、なかったから。自分っていうのはさ、頭の先から爪先までのものであって、別に脳みそだけが僕じゃない訳。

 

コルカタ3日目に、思うこと。

”食事法について例えば人の食うという欲望に対する”恥”の思想が、西欧式テーブル・マナーという、喧しくてやりづらい形式を産んだとするなら、、その最も反対にある極がインド的食事法だ。デンと床に座って、同じ土間に置いた真黒な食物を、素手で貪り食う。それはちょうど、クマが食っているような感じを与える。西洋人と違って、この東洋人は食うという欲望の中で、人間のありったけを暴露するのだ。”

藤原新也 印度放浪

 

 

コルカタについて数日が経ち、僕の旅行は順調だった。今日は、3日目。渡印は二度目であったから、タクシーだの詐欺師だのやりようはわかっているし、去年と変わらず若いのだから、時間たっぷりの中、思うように過ごした。

重い荷物を背負いながら、炎天下に一日中歩き回ったりバスに乗ったり(混んでる時の西船の武蔵野線の比なんかじゃないよ)していると、いくら若い僕でも疲れてくる。疲れてくると、結構下がり目なプランを立てがちだ。結局のところ、それは大体つまらないものだし疲れてしまっては、いけないと思った。

そう思い、今日は朝起きてから午前中ずっと本を読んでいた。ルームメイトが胃でも壊したか、と聞いてきた。ドミトリーだったしエアコンはない。窓には網戸がなかった。だから、夜から朝にかけて蚊がものすごくって、これには参った。しかし2日目には蚊も風のあるところではうまく飛べないのだと知り、体に風が当たる体勢で横になっていた。丁度よく天井のファンの風が当たった。このファンは7段階で設定できるんだけど、これはMAXの7に設定されていた。だから飛行機みたいな音がして物凄くうるさい。しかし慣れた。

何の本。藤原新也の印度放浪。

藤原新也っていうと、メメントモリ。だけどこの人の文章って物凄く良いのね。

読んでいると、インド人の食事法について書いてるページがあった。上の文章。インドっていうのは食事法然り、排泄法然りその他諸々の事において西欧で言うところの恥というものが実践されているように思う。たとえば、食べ物がこう、グワァーっと運ばれてきて、それを一人だけ手で貪るようにガーッとかきこむ。これは、西洋ではありえないだろう。恥、だと言うだろう。

 

仕事をするという事について、僕はよく考えてる。就職を(3年後に)控え、それで頭がいっぱいな時がある。インド人を見てると、仕事をしてる。道を歩いてて見るのはブルーカラーの、それも超低賃金かと思われる属性の人たちだが、彼らは手を肌より更に真っ黒にして何か車の部品を組み立てているし、リキシャの運転手やバスの集金係や路上の物売りや運び屋や。皆汗だくで、それはもう汗だっくだくだ。

路上にはちょっとした菓子や飲み物、タバコにガムとかを売ってる露店が出る。Park Streetというメトロ駅を出てすぐ。そこには年齢は僕と同じか少し下くらいの男がものを売りさばいていた。僕も、水をくれ、と言って2L入った水を30ルピーで買った。クーラーボックスから取り出して、蓋のところを水で洗い流し、こちらに渡す。ものすごい笑顔で。するとまた他のやつも水をくれだのライムジュースをくれだの、あの菓子をだのタバコを一本だけだの言い始める。それにその男はハイハイと次々に商品を渡してゆくのだ。右手で商品を渡し、左手で料金を受け取る。いちいちThankyouなんて言わない。いう暇がない。彼ら客はここで必ず買う必要もないし、男も彼に必ず売る必要もないのだ。しかしここで何と無く買っておく。10歩進めば他の店があり、また10歩いくと…全く同じ品揃えといっても良い店が並ぶ。

僕は、それを見た瞬間に”これが、商売だ!!”って思った。これこそが、商売、物を売るという事だ!

 

 

インドの街中ではよく見る光景。卑しさと卑しさのぶつかり合い。店員側は少しでも高いものや利益が出やすいものを勧めるし、客は少しでも、と値引きをする。日本でこんなことやると、ちょっと卑しいと思われるだろう。旅をしていても、この日本で育つ中で培われてきた”卑しさ”に対する感情が僕の背中から、どうしても離れてくれないのだ。インドでそれがまかり通っているからって、ここの人が卑しいと思っていないわけではないかもしれない。しかし卑しいということが絶対的に悪と捕らえられてはいないようだと僕は気づき始めている。

付随してこのような商売のやり方を見ていると、やはり性善説を僕は信じてしまうのだ。インドでは皆一見、ちょっとでもぼったくろうとかちょっとでも質が悪いやすいものを高く売ろうとかしているように思える。しかし実際のところ、(性善説が施行されるための仕組みは作られているとは思うが)基本的には性善的であるように思う。多くの人間が自分にとって正しいと思うことをしている様子だ。

そういえば、今だと日本でもCashとか客を信頼してやってますみたいなアプリが出てたりしてて、ああいうビジネスモデルってこれから、かなりいけると思う。

リメンバー・マイ・オウン・オピニオン

京阪に乗ってると、祇園四条で修学旅行生みたいな中学生のグループが乗ってきてね、優先席に男子が座ったのね。修学旅行の班行動って男女のグループでしょう、女の子がひそひそやってて、なにかなって思ってたら男の子にそこ優先席だよって注意したのね。

帰ってネットニュースを見ると顔色変えておじさんおばさんが忙しくしてるわけね、ああ、忙しいなって思うよ、社会って。

 

男女同権って、この頃叫ばれてるよね。主に左巻きのそういう界隈の人たちによって。

殆どの男女問題って超難しいと思うんだけど、特に社会的な男女間の権利の差とか差別っていうのものはまた、一段と難しいよね。

日本の男女間格差が語られるところでは欧米諸国の法整備では…であるとか、日本の性教育が外国に比べ進んでいないっていう話がよく挙がるわけ。法的な観点から国内法整備状態を国際的な水準と比較することは理解は、できるよ。

ただ、その比較を現在の個別の国内のケースに当てはめて解釈することはおかしい所があるなぁって思う。まだ外国人と日本人の慣習、常識の違いがあるでしょ。絶対に軋轢が出てくるよ。

アメリカだと、プロムってあるでしょ。サンフランシスコからカルトレインに乗ってさ、昔連れて行ってもらったことがある。アレには大体学校のジョックどころがくるイメージだったけど、そんなこともないんだよね。意外と。肌真っ白なギークみたいな奴が、来てた。

あれ、基本的には男は女を誘って行くんだよね。昔のクラブみたいなもの。要するに、女の子のペアがいないと、(実態は入れたけど、基本は)男は入れない訳。

LGBTの人は大変だと思うよ。私、女なのに、女の子誘わないと行けないなんて・・・。

 

ところでプロムって、女性差別だと思う?

つまり、男性に誘われなかった女性は家や社会で、誘われなかったというレッテルを貼られて恥をかくからって。

これは、アメリカの習慣だ。そこには社会的な階層構造があり、それは男女に関係なく存在する。そこには差別が、存在するだろう。男性差別女性差別も。しかしこれは、男性と同数の席を同じ階層に用意したところで、無くなるものじゃない。絶対に差別者と被差別者は出てくる、と思うんだよね。で、それで良いと思う。バランス。

 

日本では、マスコミが五月蝿いね。昼間ダラダラしてるのは専業主婦層が多いから、そうなるのかな、なんて思うのだけどヒステリックに女権拡大を叫んでいるのはテレビが筆頭な気がするよ。流行りのネットで騒がれていますよ、みたいにしてさ。

ネットではキラータイトルをつけてクリックからの広告PV稼ぎというビジネスモデルのネットメディアが多いことから僕らの目にする情報媒体では多くの誇大タイトルが氾濫している。誇大というのは、良いことを強調することもあるし、悪いことを大げさに書くこともある。また後一つ、僕が問題だと思うのは、言葉の抜き取りである。

記事で比較的ながくに渡って語られている話題があった際に、その途中の一文だけを切り取ってタイトルにしてしまうもの。筆者の意図する伝えたい事のニュアンスとが180度変わってしまうこともあると思う。

それらによって再変された”筆者の主張”というのは大体インパクトのある文体に仕上げられる。それが一人歩きし、社会はそれを無視はできない。

面白いのは、私たちのインターネットネイティブ世代は敏感にそれらの再変されたタイトルを見分けることができることが多いということだと思う。だから、ああこれ、誇張しすぎだろう。ってのもたまに見つける訳ね。怖いのは、おっさんおばさんがこの文章を飲み込んだときなんじゃないかなぁって近頃は思う。まじで。草食系男子とか、いい例。

先月、今月と杉田水脈、吊るし上げられてるけどさ(笑い)根本的に間違ったことは、言ってないよ。”子供を作ることにおいて”同性愛者に生産性がないことは、明らかだろう。ま、比例当選したことを鑑みたり公務員としての発言としてインパクトはあったろうが。

レディバードって呼んで!

出町座で、レディバードを観てきた。もうね、号泣。なんて素敵なんだろうって。

京都には台風が来てる。先週は40度近かったはずなのに今日は29度にならないくらい。風がとても気持ちが良いし、秋のあの感じ、がなんかちょっと見えてしまってゾッとする。ぼくの夏、まだ始まってないよ。

台風っていうのはさ、なんだかすごく変わった気分になる。台風クラブみたいに下着で雨の中、校庭で踊りたい。的な。いつまでも続く一週間単位の終わりなき日常に、パッと台風が現れる。全てのことがそのきっかけ一つで大きく変わることがある。台風の襲来による非日常感によって。それ理由に気づかず、多少の気の触れを素直に喜び、感じはしゃぎ回ることの素晴らしさ。こういうものがやっぱりね、あると思うんだよね。

 

去年の五月頃から書いていた脚本が出来上がった。物凄い長引かせた。わりにはこの一年で学び感じたことはそこまで必要だったかどうかわからない程度に感じる。もちろん、キャバ嬢の服の値段とか、バーのオーナーの昔話だとか、綺麗な風景に関する話、法学についての多少の知識に多少の縁、多少の人生に関する悟りとか多少の多少の…どうでもいいね。うーん、どうでも、いい。

一年前っていうとね、ちょうど今日、思い出すなぁ。舞鶴の方で花火大会があった。好きな女の子と行ってね、なかなか良かった。平成最後の年から一年前の話。大阪の方の花火大会の方がアクセス良かったんだけど彼女が実家に帰省する時期と重なってるって言ってわざわざ東舞鶴まで行った。遠い。去年の今日はもっと暑かった。

だから、苦し紛れに脚本の最初に「20歳の夏、例えばね、俺は、人生というフィルムがあったとしてそれが一度に色づいてしまうほどの素晴らしさ。そんなものを探してる。葉と葉の間に見える眩しさとこの、空気とが重なって、透き通って見える。あの夏の、夢の中から、抜け出して朝が来て。」と書いた。ナレーション。

 

そうそう、レディバードの話。

青春映画。青春には前期と後期があったとして、悩みっていつも同じなんだと思う。台風クラブにしろ、レディバードにしろ、月九の青年層の主人公ではない物語にしろ。

主人公のレディバードは物凄くね、魅力的なのね。シアーシャ・ローナン。ハンナの。赤い髪が綺麗で、目が青い。普段と違って晴れの日に着るドレスもすごく似合ってるの。何よりも、顔つきが凄いんだよね。少年性というか、物凄く前向きな表情をしてる。アメリカ人とか西洋の方の人の習慣だろうけど、人の話を聞くときの姿勢というか、物凄くいいよね。

目が輝いてるんだね。何も見逃さないぞっていう、力強くって、自信のある目。

痛い少女とか黒歴史を描いているというのは、ちょっと不適切だろう。この映画を見てその言葉が出てくるというそういった感性はちょっとセンスがない。これこそが人生というものだし、ちっともおかしくない。青春の輝き。

家族と友達、恋人と進路とかの話。これのそれぞれの関わりの描き方が本当に上手い。

レディバードというのは本名ではなくって、自分で考えたもの。両親から与えられた名前を使いたくないという訳。確かに両親は問題を抱えていて、父親は仕事を解雇されて鬱になってるし母親はそのお陰で夜勤が忙しいし、自我が強いから家庭がピリピリしてる。せっかくいい雰囲気で彼氏と別れた後家に帰ると、母親がグチグチ怒ってキレて喧嘩になる。その軋轢を感じるときの寂しさって尋常じゃないんだよね。でも母子という関係には子供はいつまでも親に認められたいという欲があって「なんで認めてくれないの!」ってなってしまう。最初にできた彼氏、彼とは上手くいくんだけどある日トイレで彼と男がキスしてるのを見かけるのね。でゲイだった彼を徹底的に避けるようになる。このときの女の子の徹底的な避け方って、マジでヤバイよね。その後も彼女はイニシエーションラブを続けるんだけど、色んなことを体験しつつ自分愛が高まってゆくという話。本名を使うようになるし、故郷を田舎は嫌だと言っていても愛していたり。彼女は結局NYの大学に進学することになる。空港まで家族で送りに行くんだけど母親は車から降りないのね。で、一旦帰り道なんだけどやっぱり見送りたいって気持ちが湧き上がって来て空港に戻って駆けつけるんだけど、なんと会えないっていう。

映画っていうのはさフィクションである以上作り話な訳で、物語の選択肢は確実に考えられて作られてる。何故、会えなかった。ちょっと考えた。うーん、なんでやろ。

20センチュリーウーマンのグレタ・ガーウィグの事だ。そういうこと…なんだろう。

素晴らしいシーンも沢山ある。最初の彼氏は演劇部で見かけるんだけど、その後近所のスーパーで会うんだよね。万引きした雑誌を服の中に入れた状態で、彼に話しかけるの。これは、凄く良かった。あの感じ、なんだよなぁ。

淀川長治口調意識で書きました(笑)

無気力感の無さの表現は美しいし正しい。自分の内にある無気力感を少し見つめてみよう。

初夏の日、京都県猫町から想フ

物凄い雨が降った。京都市内では警報が出て避難所が設営された。学校も休校になって四条には多少その煽りを受けた層が流れ出てた感じ。

ぼくは初夏が来ると、アクエリアスのあの匂い、思い出すんだよなぁ。あの花につくような匂い。水泳をやっていてプールサイドに粉末状のアクエリアスで作ったものがおいてあって、練習の合間合間ですぐ飲んで飲み切らないうちに泳ぎ始めるんだよね。だからプールの塩素の匂いも一緒に入ってきて、鼻から呼吸するときに抜ける。嫌いだったけど懐かしい匂い。

中学生、当時クラスには物凄く可愛い子がおったんよね。ふわふわしてるし字は綺麗だし色が白くて髪が黒くて近づくと石鹸の香りがして。で、ぼくらフォーリンラブする訳。クラスメートの中で浮き足立って話なんかするとその子の名前が被って、気まずくなったり。うーん、やっぱりそれくらいのもの。恋愛って、良いものだよなぁって思う。いつの日かその子がね、水泳部を見にきたことがあった。見にきたっていうか、放課後、バシャバシャ自由形で泳いでると呼吸したときにフェンス越しに彼女が居てね、えっ、何してんの?みたいな。なんか当時やっぱりかっこいいヤツって友達にも居て、そいつがその時カッコよく水筒を飲むんだよね笑。だからその時それ思い出して、咄嗟にぼくも水筒を飲んだんだよね。横顔で。そしたらアクエリなんてガブガブ飲むとお腹にくるからさ、すげーお腹が冷たかった。目は、終始あって無いね笑。

彼女、何見てたんやろ、ってね今でもたまーに夜、考えたりするんですね。今何してるのかなぁ。大学に行ってるかもしれないし、働いてるかもしれないし結婚してるかもしれない。

中高の、若しかしたら大学生になって初めの頃も、恋なんていうのはレモンスカッシュのように甘酸っぱいもので、爽やかで、簡単でそして純粋なものだと思っていた。透徹で筋は通ってるし、理解できないってことは無くって綺麗な、ものだって。

しかし、大学生になるとレモンスカッシュなんてものは幻想で、どちらかというとレモンサワーに近い。恋愛なんてみんな自分を誤魔化しながら酔うものだ、なんて考えが浮かんでくる。

レモンのような爽やかな香りよりも、アルコールと汗とかきな臭くてサブカル臭いものが合うような気がしてくる。でも何を信じていたのかをすら忘れたとき、やっぱり外側メンタルって強くなるかもだけど一度侵入された時の免疫が無くなりそう。

相手のスペックがどうだとか、寝たかどうかだとか、打算だとか妥協だとか、10代の頃にはわからなかったのだ。寝ることの意味は。スペックって、何。打算妥協、ってどこまでいうの。

 言葉は難しいがそういったところの純粋さを忘れた色欲は本当に怖くて怖くて、一晩中悩んでいます。女の子に対する考え方が変わっていく自分に、怖くなります。

でも、あの頃飲んだアクエリアスの美味さが忘れられない。どんなに美味しいカクテルを飲んでも、あのときのアクエリアスの喉を突き抜ける爽やかさは、なんだったんだろう、と思うんだよね。

 

関根さんのこのくらいのテンションで、語りたい。

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もう一つのぼく、あったらどうする?

宇宙は、どこまで行っても続いている。終わりはあるだろうが、その終わりまでは続いているし、そこの間までの物質は同じ様なものだろう。

もし、例えばここではないどこか他の太陽系があったとして、そこには地球と同じ様な惑星がある。そこでは物凄い確率で地球と同じ様に物事が進んだ。既に星の生成から50億年近くが経過していて、それらは地球と同じ様であったとした時、地上ではきっと同じ見た目で僕ら、人間がいる事だろう。生命の進化を信じていればやはり長い年月の中で辿り着く先は同じ世界の中であれば一緒であるはずである。

そこにいる人間も代を重ねていって、僕と同じ代になった。僕の父親と全く同じ見た目の人間がそこにはいて、母親と同じ見た目の人間がいた。僕にそっくりな子もいる。

ところで彼らは見た目は同じであれ、心は僕と同じくなるのかな。全く同じ環境下で。

学問を深めることの意義とは

心の牢獄に囚われている。

これは精神が心の抑圧で思惟を妨げているといった意味ではなく、看守は時間そのものだとする見方である。

ショーシャンクの空に作中のレッドの台詞にはこういったものがある。

「最初の夜が一番つらい。素っ裸であるかされる。肌は消毒薬で痛む。独房に入り鉄格子が閉められた時ー 現実だと気づく。 今までの人生を失い、際限のない時との葛藤が始まる。新入りは正気を失い、誰かが泣き始める。誰が最初に泣き始めるか。これは面白い賭けだ。」

 

無期懲役囚というのは仮釈を除き規則的には天命を全うするまで檻の中で余生を過ごす。そこでは終わりなき時が流れ始め、自分の意志行動により塀の中へいったん入ってしまえば誰にでもあり得る。もっともアンディのように自分の意思行動とは関係なく入り込んでしまうこともあるが。

心の牢獄の一つの側面はこれによく似ている。余生を時が過ぎることと隣り合わせに捉え、言ってみれば如何に時間を消費するかと考えるの囚人であるのに対し、心の牢獄に囚われ行動を余生を時間を過ごすために起こす人間は重なって見える。

 

一見して時の消費の為に生きることは辛いことのように思うがそうではない人間と比べて悩みの種が異なっていることだけは明らかである。前者は前提条件として人生における目的が時の消費となってしまっている為にその中でどれだけ苦痛を感じることなく生きるかを考える。その目的下には苦痛に過ごさないことに意義はないし、少しでも苦痛があればそれはマイナスである。目的が余生の消化にない場合、苦痛が生じることは時に意義となりえるし、苦痛こそが、死と対面することが、学問を深め真理を知り苦痛を感じることが意味のある事の場合もある。

物事、正しいこととそうではないことがあって、それらの見極めは非常に難しい。

奇蹟の輝き

実はベジタリアンだった時期があります。

高校生の時、健康志向的な意味合いで始まったその試みは肉の誘惑に負けて直ぐに終わってしまったのですが、生き物を食べる生活を少しの間また休みたいと思っています。

 

考えてみると、僕らが肉や魚などの命を食べるということはとても気を遣う作業だ。

現代日本社会に於いて、生産段階の生物たちのことは把握しにくくなっており、もちろん自ら動物を殺めて食ってるわけじゃ無いからより生き物を、命をいただいているという意識は薄い。この国では幼い頃に子供達の読む本の中では魚のすり身が海を泳いでいて、牛や豚が試着室に入ると骨つき肉が出てくる。

実は牛は電気ショックで意識を薄れさせ、ドラム缶のような機械の中に落とされぱかっとハメられる。身動きができなくなったところで首元にカッターが入り、足を釣られ逆さにライン方式に解体ゾーンに進む間に出血多量で死ぬ。

 

ところで、牛の殺し方やフォアグラの為のガチョウなどの動物の殺傷や扱い云々であるとか、肉食を否定している訳ではない。確かに人間の商業的屠殺の風景は悪印象であろうが動物として間違ったことを人間がしている訳では無いだろう。

僕には最近命について考えることが多かった。身近な人の死や余命宣告をされた友達、挙げ句の果てには自殺願望のある友人や反出生主義を唱える人まで。

 

”君”がここに存在していること。これはとても、素晴らしいことだ。

宇宙には星が沢山あって45億年前に塵の持つ引力で互いが引き合い石となり惑星を作った。地球には最初生物は居なかった。何故ならばあまりにもそこは暑すぎたのだ。その後惑星の衝突によって水が地球上に運ばれた。幾度の誕生と幾度の絶滅を繰り返し生命は植物から動物になり水中から陸上へ出てきた。酸素を、吸うために。

150万年前、人類の歴史が始まりそこから50000回もの死と生を繰り返し、”君”が生まれた。50000人の先祖の元に。ヒトで50000人。同一の先祖から発展してきた訳なので数え切れないほどの生と死を孕んだ結果が、”君”なんだろう。

単純に回数が重なってきた訳では無い。それはそれは物凄い確率の中、無数の命の基の偶然と偶然が重なってきたのだろう。

 

生きているって、何だ?人間においては現行国内法律では脳死。だがしかし、生命全体においては脳の活動を感知できない生物の方が多いはずだろう。心臓が停止したら?でも心臓がない動物もいる… ミミズ。

体を構成している細胞が死んだら?しかしこういう例がある。

人が死んでも細胞は生きて居たり。

 

以上のことは全て僕が生物学的な生死の境界を知りたい訳では別にない。

生きていることの不確実さ、そして生命があるということを純粋な物質の有無を指すものではなく、それそのものの過程や史を指すものだとすれば僕らはそのものに価値を内在的に持っているはずだろうということである。生命がある限り。そこに於いては。

 

戻り、生命を殺傷するということは動物的に自然ではあると思うけれど前述した考えのもと元々価値あるものから価値を喪失させることは気を遣う作業だ、という訳。今のぼくは。

 

価値とは無限である。蜘蛛や蟻や醜い昆虫と同じ様に醜い人間が居て、ウィリー・ネルソンの曲のように青くて眩しい空があって、誕生日に乾杯したジャック・ダニエルの味のようにきつく、泣いても泣いても無理な葛藤事があり、季節が変わり素敵な花が咲き、いい匂いがする。

大嫌いなタバコの煙に助けられることがあり、躁鬱を抱えたどう仕様もなくての差し伸べかたがわからない人がいて、電車に乗ると人と人は軋轢まくり、ホームに降りるとどやっとした匂いになり抑圧された都市があり、何度ガッツポーズをして跳ねても喜びが溢れ出てくるような幸せなことがあり、素敵な女性が居て、恋をする。愛が解らず悩み、全ての自分のだらし無さに嫌になり、金木犀の匂いがすると僕は、昔、好きだった子をなぜか思い出します。

多分心のもちようの話

2015年2月高校1年の時に下書きになっていた文章を上げておきます。よく意味わからないけど。

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僕らがするべき決断とは、これから2年後にタイムワープできるとした時、その2年間を僕は感覚的には一瞬で過ごすためなにもなにも感じないのだろう。

その2年間はつまりは自分による苦しい決断や面倒臭いことはすっ飛ばして自分がロボットの頭によって動かされているというようなイメージなんだけれどそんなロボット脳に任せておけないような決断を僕は、今日の僕はするべきなのだろう。そうだとわかりつつも、それができないからこの空虚感漂うビル群に囲まれている私たちがいるのですが。
 
でもそう願わないのにそれな状態にいるということはどこか、自分の努力が、もしくは考えの持ち方が力足らず、若しくは違うということなのだろう。
 
 

周囲からの影響が我に及ぼすものとは?

これ、タイミング的に僕の受験結果が芳しくなかった腹いせの記事みたいに見えるかもしれませんが、ちょっとこの考え方が僕の中にあるので書いておきます。

将来見てみて、この考え方が変わっていれば、それは面白いなと思います。そうであればそれはそれでいいなと思います。

 

僕は結構昔から環境決定論者でした。このブログでも何回か書いてきた様に。

環境決定論って、人生の失敗や成功というものは環境に支配されるという考え方のこと。(環境っていうのは不可抗力的であって物理的にどげんもこげんもならない様なことで)

この話があったのですが今日の話は「この三年間、僕、すごく周りに影響されたと思うんです。」ってやつ。

周りの人に、です。

 

僕は高校受験に失敗して偏差値でこそそれほど変わらないものの、所謂自称進学校なるレベルの一段低い学校に進学しました。そこは明らかに僕が目指していた学校とは生徒層が違っていたし(それは入学試験問題を見ても)僕は入った瞬間からバカにしていたのです。

実際入学してからしばらくは学年(450人弱)で本当にトップ、1、2位であったわけです。しかしそれは高校入学前の知識を食いつぶしてる様なもので、そのあとは(これマジで)下から1、2位とかっていう成績をとる様になっていきました。三者面談では先生に(これまたクソ先公なのですが)「大学は行くの?」とか真面目に言われてました。

言い訳ではないですけどそれはもちろん家庭学習を一年間で(つまり高校1年の春から2年の夏あたりまで)1時間程度しかやっていなかったので【一年間で1時間です】当然の成績だから焦ってませんでしたが。(その頃このブログとかでも悠長に哲学対話とか言って偉そうに語ってたと思います。)

それ、何でそこまで落ちに落ちたかっていうと俺が思うに周りの生徒の影響があったからなのです。確かにこれ、「人のせいにしてまたこれ典型的な残念っ子のパターンか」となるでしょうが、私が冷静に客観的に考え、かなり、その影響があると思ってわざわざ書いているわけです。

周りの人間が要するに典型的な「理想は高いけどバカ」だったのです。それはきっと高校受験で成功もしくは準成功してきた人が多かったからだと思うけど。(彼らの半数にとってこの高校は第一志望であった)

つまり「僕は私は東大に行きたい」つって当時の僕が驚く様なクソみたいな成績をとってるわけです。あとは授業中、クソみたいな発言するわけ。最初は、「お前らじゃ無理無理」と僕も思ってるわけですが、そういう人たちが多すぎ、そしてそれがずっと続くものだから「この成績でも東大目指せるんだ」的な謎の自信が出てくるわけ。それは全くもって勘違いなんだけど。(ここにもツッコミたい人いるだろうけど今日はそこスルーで)学校がそんななら塾で情報もらえばいいじゃんって言っても予備校は(僕はK合ね)あんまり他の生徒と交流ないんですよね。

 

そういった環境の中にいるとどうしても染められていく。少なからずそれはあった。断言。自分の物事を図る際のレベルの基準がどんどん下がっていくのです。「ああ、この程度で難関国立受かるんだ」とか「このくらいでApple入社できるんだ」とか「このくらいで頭いいんだ」とか。そもそも間違ってる彼らからその情報を得るわけだから間違ってくんですよね。それが僕の判断基準として形成されて行って気づいた時には時すでに遅し。

 

これ、残念な人に思われる方も居るかもしれませんが、そして私は実は必ずしも残念であったとは思っていませんが、この三年間で学校の友人から得た、良い影響というのは皆無です。それくらいに思っています。

 

心配性の中学生君の大好きな検索ワードモリモリなのでたどり着くかもしれませんが、そんな君にもそして僕自身にも向けて、学校外とのパイプは持っておくべきだということは大事だと思います。つまり、より広い視野を判断材料を持っておくことは大事だと思います。小並感とか言わないでね。

真!善!美!

真善美という言葉があるらしい。カント哲学の関係の言葉だね

 

人間が物事を認識する際、そこでは「真」と「善」と「美」の少なくとも3つの判断を同時に持つということです。

例えば僕が綺麗な花をみるとする、するとそこではこれは「正しい」(造花でない)、「道徳的に正しい」(葉っぱを他の花にかぶって枯らしていない笑)「美的に快い」(綺麗だ!!)って思うらしいのです。

 

例えが悪かった気が幾分しますが、僕が思うに世の中にはこの3つの価値観をもはや兼ね備えて物事を判断していない人っているんですよね。

 

例えば高学歴のくせに、なんなんだ?!って思ってしまうような政治家とか。

 

彼らは「真」「真」「真」な訳です。

 

もちろん3つ以上判断要素ってあるでしょうがここで「善」が抜けてしまうと、よくないわけですね。

 

きっと彼らは(そして僕も現在進行形ですが実感として)、受験勉強を乗り越えて生きてきたわけです。

 

思うに、大学の一般受験等では「 」カッコの中をちょっと横に置いておいて勉強をしなきゃいけなかったりします。例えば、”私のやってるこれって本当に意味があるのだろうか”なんて思ってしまっては(予備校講師的に言えば)危険な訳であってその暇なく勉強をせんといかんわけです。受験勉強自体がそういった「 」カッコの中を空欄にして自分を目標に向かって最適化しなくてはいけないのですから偏差値エリートがそういったことを将来孕むのは不思議ではないのです。

 

話は変わって、この視点はなかなか面白いものがあります。

僕は結構「〇〇」っていうしっかりした理想があります。この時はこうありたい(あるべきだ!)、みたいな。正しいイメージっていうかな。そう存在するべきだ見たいな。

例えば、女子高生は黒髪で、電車を待ってる時は単語帳を読みながらイヤホンでミーハー好みなロックでも聞いている”べき”だ!!みたいなね。

例えば、ロックスターっていうのは売れない時代からライブハウスで照明とかPAとかとコネ作って頑張った末にやっと自主企画ができて、地元から成り上がってく…”べき”だ、みたいなね。

 

そういったものは、僕にとって「真(真実か偽かで真)」であって、「善(道徳的に正)」であって、「美(快い)」わけです。

 

 

ところで僕はこの頃自身の行動を(これまた全く違った尺度ですが)生産的か否かと自問自答することが増えました。

Facebookで友達の近況にコメントすることが生産的だろうか、Instagramでいいね!押すことが生産的だろうか、Twitterで自分の哲学を述べることが生産的であろうかどうか、とかね。

考えて見ると非生産的なんだけれども、やっている張本人はあたかも自分のやっていることが生産的なことだと思ってやってるわけだ。

僕のTwitterのアカウントなんて5万ツイートくらい過去のツイートがあるわけです。

でそんなのアーカイブ見たりしない。つまりその中に、5万ツイートの中にいわば二度と拾わない言葉を一生懸命考えてツイートするわけです。

 

 

言った挙句、僕はノートパソコンを閉じてデスクの明かりをつけます。政治経済のテキストを開くわけです。

ところで好きな子ができた話。

ところで好きな子ができた。

出来たと言っても6月くらいから興味があったんだけれど。同じクラスでとっても可愛い子だ。頭がいいし、話が通じる。もっとも上がっちゃって僕の方が話についていけてない感じがあるけど。夏あたりに友達と行った花火大会の帰りに酔った勢いで君と見れたら素敵だった云々の話ししてから完全に悟られた気がした笑。

伊藤整の小説に、都会に出てきた時に女の子に会う、その子に見出すのは、昔の地元のあの子と同じだ!っていうところなんだよ。みたいに書いてあったけど、

 

僕の中でそういった基本の女性像、ってあまりなかったんじゃないかなとさえ思う。正しい、女みたいなイメージが。そんなところから言って、彼女はとても正しくって僕のイメージにパチってはまった、訳。これを理想のタイプって言うんだなとか思った。将来自分がこれみて、タイプ変わってたら面白いから書いておこう笑

彼女は髪がとっても綺麗だ。クラスで一番綺麗な黒色で品がある髪型をしてる。風に吹かれて髪がふわりとする時の仕草なんかが物凄く僕を緊張させる。彼女の髪は深い黒でその場の空気を緊張させる。僕はいつも緊張している。

そして手が物凄く綺麗だ。彫刻みたいに細くって白魚のような手をしてる。透き通っていて、彼女の透明感ある雰囲気とこれ以上にないってくらい調和してる。器用そうで折り紙だとか文字を書くのだって上手いんだろうと思う。授業中に頬杖ついてノートを見ている格好なんかはなんて言うんだろう、素敵だった。なにか彼女にとってとっても大事なことを考えていて、、何を考えているんだろう。妖艶を漂わせてそこにいる。

表情が素敵だ。話しかけるといつも笑顔だ!なんで!?と思う、僕はそんな顔ができない。声も素敵だ。休み時間になると動物園の如く他の女子たちは品のない声で騒ぎ立てるが彼女の声はその中で坐禅の時に鳴らす木柾のようにすうっーと僕の耳の中にはいってくる気がする。

話のセンスもいい。綺麗な話ばかりする。彼女の生きてる世界って僕の生きてる世界と違うんじゃないかと思うくらい綺麗な話だ。話す度になんて素敵な話をするんだろうと思う。話し方もとっても可愛くて驚く、こんなに可愛い子がこの世にいるんだと。

趣味も僕とよく合う。洋画が好きだ。春樹を読んでる(実は知り合ったきっかけである訳だが)。

彼女と話していると幸せな気分だ。楽しくってしょうがない。ベタ惚れである…。

壮大な自然を前に、生まれてきてよかったなんて改めて思うことがたまにあるが、僕は彼女を前にそんなことを思うことがある。

この頃変化したと思うこと。

この頃変わったなぁと思うことがあります。それは、深く物事を捉えて考えることができるようになったということ、ではありません。それは2.3年前から大して変わってないみたい。

では何かというと、それはその考えたことであったり意見を、わかりやすい言葉で表現できるようになった(する気になった)ってことです。以前、このブログではまさにそうでありましたが、なにを言ってるのかわからない、みたいなところがあった訳です。非常に鋭くものについて分析したつもりなのに、それを対外的に表現するという段階に力を入れませんでした。なぜ、そう変わったのか考えてみると、一言ではきっと、社会人に近づいたって事なのかな。大人と話す機会が増えたし、自分の発言に責任を持つように(持ちたく)なってきました。それから僕は大学で政治経済を学びたいと思ってます、そしてnewspicksとかもよく見るようになったのですがその分野の人って意見をどれだけわかりやすく説明できるか、みたいなのが結構重要な気がしてました。それもあるかも。

僕は常々、相手の言ってることに失望せず、つまりファーストインパクトでバカだと決めつけずに、1時間話を聞いてから判断しようと、そして、僕のこともそうしてくれと、言っていた訳ですが現実そのようなことをする人って少ないし、やってる場合じゃないことが"多い"んですよね、だから、自分は素晴らしい考えを持っている!なんて錯覚するんじゃなくって、それを表現してなんぼやろってことです。

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何故か今日の昼ごはん。

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を読んで

内田樹氏の『ネット上の発言の劣化について』を初めて読んだのは高校での現国の授業の時間だった。そのあと家で内田氏のブログを拝見してふむふむといったところだった。

しかしこれを読んでからというもの、僕は無意識のうちにネット上の謎出典の文献や知恵袋とかから私見を形成するのを避けていた気がする。

例えば僕はスマートフォンを捨ててビジネスマン向けとされているBlackberryに乗り換えた。そして文藝春秋、世界、Will、読売、産経・・・多くの紙媒体の情報誌を好んで購読するようになった。現代を生きる我々の日常に於いて自分に入ってくる情報を選ぶということは実践しずらいことだけれどもこうやって一種、デジタルデトックスにちかい状態に身を置いてみるとはっきりと情報に対しての己の姿勢が変わる。

と、ここまで僕の文章を読んでされに彼のブログを読んだ人なら気づいたかと思うが、僕は彼の書いた文章の内容に感化されたのではなく、タイトルに一発KOされたのである。

つまり、ネット上の発言というものについて劣化しているのではないかと僕は気づいたのである。劣化している。といっても何を基準に劣化しているのだと決めつけるのだという話になるだろうが、彼が例に挙げているよう、正論やそうでないといった正誤的な問題でなく、紙媒体の歴史のある冊子にくらべ質的に劣化をしているということである。

僕が顕著に思うところに、日本語の使い方がある。

僕自身は、文章を書く際にも好きな言い回しでそれはもう言葉がおかしいだのなんだのということを関係なしに文字を書いているが、それはやはり自己の日記程度の内容物だからこそのものであって、大衆が読むことになるであろう文章に、ネットスラングを多用したり、語法が間違っていたり、わざと間違えていたりするのはいかがなものかと思い、さらにそれは綺麗な文語表記のなされている紙媒体の冊子に比べ、質的に劣っているといえると考える。だからどうということではなく、指摘をしているだけである。

 

話は少し変わるが、情報化社会ということで僕たちの目にする情報の量は、結構多いものになっているらしい。

僕が印象的だった話は、中学校の時の社会の先生が「君たちが今日一日で知る情報量ははるか昔の人間が死ぬまでに知る情報量に相当するんじゃないか」という言葉であるが、まさにそのくらい多量な情報に触れているということだろう。

すると、何が起きるか。僕自身が感じているところに、一つ一つの情報を記憶し理解しておくことができていないんじゃないかということがある。テレビのつまらないコマーシャルのように右から左へ流していくような形で情報に触れているんじゃないかということだ。よく言われることだが、情報に対して受動的になってしまっている。姿勢として。それは、どう考えてもよくない。なぜなら受動的ということはその情報を発信している誰か第三者が存在しているわけであり、それらによる意図の上で知りえる情報に他ならないからだ。ニュースサイトの広告やリンクを見てみてもそういった傾向が強いと感じる。

僕が思うに、知的欲求による行動はいかなる場合も受動的姿勢ではいけないだろう。

寝たいだとか食べたいだとか遊びたいだとか欲求はあるがそれらは昔(昔は知らないので想像するに)から変わらず積極的に消化してきたものであると思うが、知的欲求にたいしては昔(想像するに)は積極的にアプローチをしていたものであろうが、近年は受動的になっている面がある。

近年と古代の差は、なんだろう。

それは思うに、やはり情報を提供する媒体があったかなかったかということがかなり大きいだろう。

例えば縄文時代、竪穴住居式の住まいの先に毎朝、朝刊が配達されるとする。

するとその新聞を住人は読んでいくが、朝から読んで昼頃になって読み終えてしまって違うことをし始めるでしょう。

それは情報を紹介する量が少ないからに所以することであって、やはり情報量が増えれば今と同じ状態になるだろう。

と、まあイメージであったが、そんなことも思う。

そういったことを思いつつ僕はデジタルデトックスに近いことを目指しつつ、今日もまたこうやって日本の侍の心を忘れないでコカ・コーラを飲みながら。

小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん

Thursday, November  12th


イギリスに来て2日が経ちました。いいWi-Fiスポットに行けていないので、ネットに投稿するのは遅くなるかもしれません。今は3日目の朝7時前です。


外国に来ると必ず何か学ぶことがあります。外国に来たから学ぶことが必ずあるというよりは正確には、普段自分がいる世界(社会)の外に自分の身を置くと感ずるものが必ずあると言った方がいいかもしれません。


普段私は旅行に行った際ツアーに参加して観光をするということはほぼほぼ無いのですが、今回は集団での旅行なので止む無く昨日、ツアーに参加してきました。

ロンドン市内をぐるっと周ったのですが、私は国会議事堂が見えたあたりから泣きそうになりました。なんだか壮大すぎて。その日は11月11日でしたから終戦記念日の様な日でした。そのため11時には市内全域で黙祷が行われていました。道行く人も、バスも11時になると止まって、一時ロンドンが完全停止した様な印象を受けました。いわゆる、戦死した先祖に黙祷を捧げていたわけですが、その中私は赤面するのを避けられませんでした。こんなにも先祖に感謝する時を作れるのだなと。女王を尊敬し、愛国心がとてもある。これははっきりと言いますと日本とまるで逆です。真逆です。冷静に考えると我が国のために亡くなった人間に敬意を払うのは当たり前とでも言えると思いますけれども日本はアジア諸国( )の言ってることを鵜呑みにしすぎでしょう。

少し、愛国心がとてもあるなんて中学生が外国について総合研究した時に書いた作文みたいな綺麗事に聞こえることを言いましたが、虚言でなく本当にそうなのです。


それから日本人は、外国に行くと、日本には美味しい食べ物があるだの綺麗な建物があるだの散々ほざくのが恒例となっていますが、世界の中心であった(ある)ロンドンに来るとなんだかそういった日本人の戯言は粘っこくって赤面します。なんだか自分たちはなにもしていないのに自分の属する国の持つアドバンテージをアピールするというのは何処となく嫌な気持ちになるものです。気がひける。


ロンドンの街並みはとても綺麗です。

日本ではロンドンの様な街並みが理想体といった様な風潮がかなりありますから私たちにとって綺麗と感じるのは当たり前ですが。

街並みを見る時にそこにいる人は同時に目に入ってきます。白人の金髪はとてもとても綺麗だし、鼻は高くて凛々しい。顔に凹凸があって彫刻の様。ヘッドホンをしてる黒人には、ピアスをしている黒人には、誰もかないません。これは別に自分にコンプレックスあるわけでは無いのですが、やはり憧れます。かなり強く。

これ、私が昨年サンフランシスコに留学した際にも思っていて、記していた記憶がありますから、なかなかすぐ無くなる感情では無い様です。そもそもこの憧れは無くなった方が良いのかどうかとかね、考えるんですけれども。

こういうことも、外国に来たからこそ思うことであって、やはり人間にはホーム、アウェイっていうのがあって、日本でも都会に行くと、人種の違う外人は見かけます。しかし不思議なことにそこまで彼らに憧れて遣る瀬無い気持ちになるってことはあまり無いのです。ホームでは良くも悪くも自分たちのホームですから優位性を感じるのかもしれません。だから憧れないのかもしれません。


今のところ一言でロンドンについて思うことは、映画の中にいるみたい!ってことです。Hyde park沿いの道路を通っている際に木と木の間に見える石造りの塔の先からチラチラ見える朝日、コーヒーを持ちながら金髪をなびかせて颯爽と赤信号を渡る人、時折街中を走っているトヨタプリウスダウンタウンのとても良い土地にある野村のビル、小さいこと、だけれども不思議なことがたくさん。