シンク・ディファレント

東京→京都 法学部生 毎日の環境学。

印度にて#1

今年の夏休みも、僕はインドに来ていて南インド、つまりブバネーシュワルやビシャーカパトナムからさらに南に、ヴィジャヤワダという街があって、一泊した後こうしてハイデラバードに向かう列車の中にいる。これまでで最長の日程で組んだインドの旅はすでに1週目で修羅場を迎えていた。昨年コルカタでドミトリーが一緒になって仲良くなった友人に会いにアッサムに飛ぶところから今回の旅行は始まったわけだが、その家では家族皆完全な菜食主義者であったから(珍しい事でもないが)滞在中3,4日毎食ご馳走になったわけだが全てベジタリアン料理であった。こんなに沢山の家庭のベジタリアン料理を食べたのは初めてでバリエーションの豊かさと、しかしそれら全てに共通するスパイス感に飽きが来ないように楽しんでいた。やはり彼らが長いことにわたり食べているだけあって、スパイスというのは味わって食べてみると非常に複雑な味わいがあって面白い。発酵食品に似たような広がりがあるものまである様子。中国の昆明に住む友人宅に行った時もそうであったが、ある程度裕福な彼らは日本の裕福な層の食生活と比べて非常に健康志向で、すなわち質素な食事を日常的にしているようなイメージがある。

しかしインド人の味覚の謎は深いね。例えば彼らは結構な品数の料理にケチャップを入れているかディップするかするし、何を食っても(僕は案外辛い食べ物も食べられる方だがそれでも)相当に辛い。毎食カレー風味のソースとパンかご飯が基本である。その味付けで毎日よく飽きがこないなあと感心するものの、単に馬鹿舌なのではないかとさえ思う時がある。しかし殊日本食に関しても醤油ベースの味付けが大半であることを鑑みると案外、僕が慣れていないだけで現地人にしてみれば疑問すら抱かないようなことなのかもしれないね。 

とにかく僕には毎日カレーという食生活が耐えられずに、しんどく思う事が多いから今回は味噌汁やインスタントラーメンを持参したが、既に大半食べてしまい残りを見ると憂鬱になる。絶対に足りない。幸い現代インドでは外資系のチェーンファストフード店などがかなりあるからインド料理が食べたくない時はそういったところへ行けば良いから助かる。どれもインド風の味付けだが。

アッサムの首都ゴウハティ市に彼の家はあったが、彼らは予想していたよりも遥かに裕福な暮らしをしていて、町で一番か二番に高いマンションの高層階からは街全体が見渡せた。そこから見るとゴウハティは山に囲まれていて、高い建築物がとても少なくまるで京都のようだと思った。聞くと彼の父親は運送会社の社長だそうだがそのマンションには24時間入り口に警備員が沢山いるし、床は大理石のようだし何よりもその家には召使がいた。僕は住み込みで使える使用人がインドには居ると知ってはいたが、流石だと驚いていた。彼は今僕と同い年だが、2歳の頃からその召使いとは一緒にいるそうだ。家族のようだが、家族ではない関係が新鮮で興味があったがその事についてはあまり話さなかった。 

 やはり父親はかなりしっかりとした人物で、この父にしてこの子ありといった印象だった。穏やかな喋り方と身なりもキマっていたが観光地に一緒に行った時に「写真を撮ってくれ」と言われたので撮っていると、ムービーで撮りながらカメラに向かって歩いて来るという謎の拘りがあるそうで一気に不安になった。でも親子で楽しそうだったのでよかった。

3日目には日本から一緒に来ていた友人が高熱と風邪のような症状で寝込んでしまい、僕らは2人で観光をする事になったが、美術館で前衛的な絵を見ていた時にいきなり僕は頭がとても痛くなってしまい、家に帰って熱を測ると40度近く有ったので結局僕もその日はずっと寝ていた。それは彼にとっても夏休み最後の日で、色々な観光名所をプランニングしてくれていた。だから彼はかなり(露骨に)残念そうにしていたので悪いなあと思ったが、夕方になっても症状は悪化するばかりでどうしようもなかったので、夜になって起き上がれるようになってからベランダで彼のお兄さんと3人でギターを弾きながら歌った。僕からはさよならCOLOR翼をくださいを歌って、これが大ウケした。一緒に歌ってくれた。僕はこの夏前からヒンディー語を勉強していて、漸く読み書きが出来る程になったのだがやはり彼らの日本語の発音を聞いているととても上手い。日本語とヒンディー語はかなり発音が似ているように思う。日本語に反り舌とか同音の有気無気とかの差は無いけど。

そのあと彼らもヒンディー語の歌を歌ってくれた。とてもスムーズで美しいメロディーで”Life is changing every moment, sometimes there is sunshine”というサビの良い曲だった。

その後日本人の友人は限界だといって日本へ帰国したので僕はそれから一人で旅を続ける事になった。それはそれで仕方がない事だし、別れをいって薬だけ分けてもらった。しかし日本語が喋れる仲間が居なくなったのは精神衛生上よくは無いと思う。日本語を使ってないとなんだか気が滅入る時がある。こちらで話すのは英語だし、この辺りはオリヤー語かタミル語なので、勉強してない僕は全く訳が分からない。その中でも「英語を見つけた時にちょっと落ち着く」みたいなことってあったけど、ヒンディー語を見つけた時にちょっと落ち着く感が最近ある。読めるから。地図で地名が読めるのは大きいと感じる。

地図といえば、インドはIT大国であると言われる。現にインターネット回線は結構な僻地でも通じるし街中では国旗よりもAirtel4Gという広告をよく見る程だ。それ故にインドで旅行をする為にはインターネット回線がほぼ必須だと思う。僕はアナログな旅をしたいと思っている方だが、技術進歩によってある程度利用すべきものは時代を経て変わってきている筈だ。ネットを契約しない旅の方がむしろ高くつくと僕はみている。 

 昔であれば勿論インターネットなど無くひとたび駅に着けばリキシャのおじさんたちに囲まれ、値段交渉をし、ホテルの近くまで行っても正確な場所がわからずに道の人に聞き回る、なんてことをしたのかも知れないがそれは現代では日本人むけのアトラクションに成り下がり、必然の選択肢では無いように思う。つまりインターネット回線により地図が把握できて、タクシーは定額でUberなどで呼び、クレジット決済をした方が安いし早いし正確で疲れないからである。Uberに限らずともバスの路線など非常にわかりにくい事が多いがマップでそれらも確認した上で行動した方がミスが少ない。そうした意味でネットによってインド旅行のハードルはどんどん低くなっているのかも知れないね。

 

兎にも角にも先ずもって僕が言いたいのは、人間であることを忘れた人間は怖いということである。日本は超潔癖社会で全体主義の元、規律が重要で享楽追及に長けている印象がないこともない。しかし子供が実験のために与えられた知育玩具を白い部屋で並べているように、クリーンルームで積み木遊びするのが例え楽しかったとしてもそれが一体人間として正しいことかどうか、分からないね。エアコンのちょうどよくかかった高層ビルで高い洋服とブランドバッグで出勤し雨や風が吹いただけで気にする化粧と髪型とほんの少しの体臭や汚れも見落とさない目線の中に仕事終わりに近くのレストランで鶏料理を食べている鶏の屠殺から顔を背ける女と男のデートがあったとてそれが日本社会で人間的(文化的)であり僕らが目指す生活なのであればそれに対する信念が揺らがないでもない。僕はインドに行けばこっちの人と同じことをしてるだけで高熱の風邪をひき、同じ水を飲んだら下痢になって目の前で生き物殺して食ってる訳で、乞食や物乞いや、真っ黒の肌でガリガリ生ゴミを漁ってるお婆さんや、一日中裸足で道路工事でセメントを溶かしては流す仕事をしているおじいさんや、一日中ドアを開けては閉めるだけが仕事の少年や、牛と犬と鼠とゴミだらけで汚い床に寝てる少年のような体格の爺さんと同じ人間であるということは、きっと忘れちゃ、ダメだね。 

 現代日本に住んでいると恰も僕らはまるで人間ではないもっと完璧な存在であるように錯覚する事がある(その代わりに精神に起因する人間の不完璧さは大好きだけど)。動物的な側面を削いでいって、その先に何が残ったのかと考えるとまさに今の日本の有様であるように思う。人間であることを忘れた傲慢さが更に傲慢な態度を生み出している。僕が思うに、主に若年層でやはり「自分たちは今日を享受しているだけだからなぁ」という傍観的傲慢な観念がある気がする。確かに日本は水道が飲めて送電技術は最高で下水もしっかりしてて治安は良くて生活は概ね安定していて概ね法治されていて世界的に見れば素晴らしくない国であるという人はいないだろうが、やはり高度に整備された社会に所以する社会無関心、さらにそれから派生するナショナリズムの喪失という傲慢は、如何なものかと思う。

あくまで考え方に関するものだが、日本では主に人が死ぬと墓に埋葬される。しかしインド(ヒンドゥー教)の人は死ぬと火葬の後、灰は川へ流される。この二つの違いも上述した思想に影響しているのではないだろうか。やはり自然から生まれたのだから自然へ返るという考え方。僕はこれまで死んだら自然に返るとか還りたいとか、そう思った事すら無かったから。でも、川に流されるのも悪くはないかも。とも思う。 

それでも若さというものの素晴らしさ

例えばね、僕は近頃男女関係についてよく考える。それに関してすごい狭い世界で物事が進んでいる様に思うよ。男は色欲に半ば耄碌して殆どこの世のものとは思えないほどの醜いことを繰り返すし、女は、はっきり言ってそれ以上だね。

この前、僕らも殆ど耄碌していて、相席ラウンジみたいなのって、流行ってるでしょ。ああいうところは京都にもあって、何しろその日は何が何でも女の子と何かしたいって日だったから、そこに行くことにした。内装はキャバクラみたいにキラキラしてて、オープンなテーブルがたくさん並んでる。きっと素敵なドレスを装った香水の女がいれば、それなりにいい場所なんだろうけど女の子が来ないから10分くらい、とんでもなく不味いモヒートを飲んで相席を待った。挙句来た女は27か28の木屋町で働いてそうな二人組で、席に着くなり「おにーさん、何飲むの?」っていって片方は「シャンパン行こっか」

なんというか、こっちはもっと女の子らしい、会話を期待していたんだけどああそうか、と合点もいく。この上なく女の子らしい。シャンパン…。

兎に角相席を待っている間の小っ恥ずかしさみたいなものがどうにも苦手だね。紛れも無く女の子と話しに来てるって丸分かりなんだから興味なさそうにしてるのも何か違うし、視姦する程見てるとそれはそれで気持ち悪いでしょ。前ではおじさんのグループが盛り上がってるし、僕は味のない酒と煙草しかないからね。友人と積もる話もする気にならない空気でね。

クラブに踊りに行って一人でカウンターで飲んでるのともまた違うし、行き場のない虚無感。三条上から木屋町通りを下っていくと何組もの女の子たちとすれ違った。皆どこかに行く途中か、帰る途中に見える。

若さというものは素晴らしいね。

平成31年4月30日

間も無くすると平成が終わって、新元号の令和になるね。令和とはいい響きだ。平成が終わるとなるとね、少し寂しい感じがするね。何しろ僕は平成生まれだったし、全ての人生がこれまで平成に起きたことで、そんな自分にとって長く過ごしてきた時代が一つ終わると言われると懐かしんでみたり、してしまいそう。僕が過ごした平成は約20年間。平成10年梅雨から平成31年春。ひとしきり振り返ってみたあと、印象的なのは大体運動会のプログラムの表紙に書いてあった「平成24年」とかの表記や卒業文集や作文の最後に書く日付のところの平成何年って書いたことくらいで、いよいろ終わろうとしてる今だから強く意識しているものの、普段あまり意識するようなものでは無かったかもしれない。しかし静かに側にあったもの感がしてくる、不思議ね。今回改元に際して和暦を廃止せよだの意見があったけれども僕は和暦、上手く使っていくべきだと思う。これもまた一つの時代の節目を見出す助けになるはずだから。平成に死んだ人はそのまま僕からしたら平成を生き続けてるし、令和に生まれた子供は、平成時代なんて想像もつかないだろう。僕らが昭和時代の想像がつかないように。

時代というものは断続的に続いているものであるのにも関わらず、その時代、時代のイメージというものははっきりと分かれていて、想像に易いように思う。昭和なら例えば戦争と高度経済成長でしょ、僕の平成に対するイメージは何だろう、それも一言にまとめようとすると、纏まってしまうのだろうか。

NUMBERGIRL再結成に言寄せて

ナンバーガールが、再結成してライブをするという知らせを、聞いて僕はめっちゃ驚いた。先輩からラインが来ててね、朝起きて携帯見たら「ナンバーガール復活おめでとうございます」

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例のライン

バッって起き上がってねマジかって浮き足立ってしまうよね。

昔ねクリスマスの日に朝がやってきて、起きて足元の方を確認する。プレゼントがないかって。毎年足元に、プレゼントが置かれていたんだね。しかしその年は足元にプレゼントがなかった。僕は焦って急いで二段ベットを降りていって部屋の中を探すんだけどどこにも無い。普段はこんなに早く起きないだろうけど一年に一度、その日に限っては頭が冴え切っててね、寝ることもなしに一階に降りて行ってリビングを見ると、そこに自転車がある訳。うわーってなってこれが、プレゼントなのか!って後から頭がついてくるカンジ。子供用の緑のブリジストン。後々それに乗ってどこに行っただとかね、はっきり言って覚えてないが、その朝に見たピカピカのブリジストンは物凄く鮮明に覚えてるね。家の中、しかもリビングにはカーペットが敷いてあってその上に、自転車が置いてあるという不思議な感じと一緒に。

とは言え、言っても僕はその当時小2か3程度で、プレゼントはサンタが持ってきてる50%、親が用意してる50%くらいに思ってたから、前日に家の中を探し回って親がプレゼント用意していないかとか車庫の裏とか確認していたんだけれど見つからなかった。それで起きたらなんと家の中に自転車があるわけ。玄関は鍵かかってるしさ、マジでどうやって入れたんやろ。

 

ま、僕はナンバガ再結成の一報を聞いた瞬間、そんな気分になったね。マジで?公式発表探しに行こう!みたいな。そしたらさ向井さんがまた味ある文章を出しててね。超舞い上がった。三栖氏が手がけたのだろうか。

 

高校の時に僕はナンバーガールがめっちゃ好きだった。マジで超好きだった。毎日毎時間毎秒聞いてた。今でも偶に聞くけれど、正直に言って当時ほど、歌詞にも、音一つ一つにも共感出来ていないかなと思う。そこに、悲しさもあるね。

歌詞にしろ音にしろ何一つ響かないという訳では無いけれど、あぁこのギターの音って素晴らしいなとか、向井さんのシャウトのカッコよさとか歌詞の文学的さだとかイマイチ、わからないことが最近多くなった。

しかしそれはこのバンドに限ったことでは無いかもしれないね、ブッチャーズもイースタンユースピロウズピクシーズウィーザーレディオヘッドも。ギターロックの音一つ一つに中々集中して聞くことが少なくなってる。コード進行一つ一つに感動を覚えないしインスタントミュージックとして消費する音楽としてギターロックを聞いてしまってる、かもしれない。そういうことを考えると高校時代、当時が懐かしくもなるし、しかし経てきたものである訳だから気にもならないとも思う。

ところで、音や文学的歌詞に夢中になるのは楽しくってね、そんなふうに又なりたいと感傷に浸る時がある。そうさせてくれるのは今の僕にとってもやはりナンバガなのではないかと、思って再結成に寄せています。

 

高校の時にコピーした動画


「透明少女」my last take

なんと喜ばしい感触を持ったものなのだろう。なんと生命力にあふれたものだろう。

北海道特有の、この寒〜い寒い風の感じと、マフラーの巻き方にめっちゃ田舎の駅で降りてく学生達。大体駅名の看板の下には”本場の味を サッポロビール”って書いてあって、街中セイコーマートばかり。(セイコーマートのATMだけど、旅行客にとっては使いにくすぎるよね) 北海道は海産物だけじゃなしに農作物も盛んだから全国のスーパーに行っても道産の野菜って結構並んでるけど、此処ではかなり”道産”という言葉を目にするね。”道民”も。

地方に行くと、地元の物だとか対地元民の市場が広くて旅行すると面白いけど、北海道は本州の各県に比べてもかなりローカル特権意識があるように感じます。で、これってすごい良い事なんだろうな。って思いました。ブルーハーブのCoast2 Coast2という曲にこんなリリックがあるんですが、この意味するところ、よく解っていなかった。

 

針先、ペン、P先の導き、何よりも先、信じる気になって初めて千歳で降りろ そして乗り遅れることなくそこから更に北に向かえ 一週間ほどじゃ一割もわからない、北だけが持つ奥行きの理由は 地下一階はほぼ全て間違いない、素面でも言えるぜ、時代は 近いと本拠地、平岸シエラマエストラからノストラダムス並みに裏の裏を読む ノースコースト・ラ・コーザノストラ すぐに認めることになる 俺をBOSSとな 

(COAST2COAST2 - Tha Blue Herb)

 

ブルーハーブは東京一極集中に対してだとか、出身地札幌とかについてよく謳ってる印象があるんだけれど、これに関してもきっとそれは入っていて、僕は苫小牧から東室蘭に向かう途中の室蘭本線の中。窓からはよく海が見えるんだね、海岸線にほぼ沿ってずっと函館の方まで行くんだけど。で、それは日本海側を通る路線とかと同じ(に一見すると見える)ような海なんだけどよく見ていると違うことに気づいた。で、思い出した。これは、北海道の海だ! 目を凝らせば、対岸には本州が見えてくる海だった。此処は、北で、千歳を超えてそこからさらに北に向かえば大都会があるものの、本州の東京や、大阪が、名古屋が、見えてきた。この、なんというか土地独特の感覚は地元に根付いてる人間であれば恐らく覚えたことがあるんじゃないかとさえ思う程に確信的なものだったと思う。

やはり、海がそこにはあって本土とは切り離されていて、という本土カルチャーへの疎外感。 もし、全然なかったら、スルーして。

札幌は外国人が多くてね、かなり外国語が聞こえる。市電も外人だらけ。しかし良い雰囲気なのね。北海道って自然が凄いからそうなんじゃないのかなって思うね。自然が凄いってかなりアバウトな言い方だけど。例えば京都は観光都市だと思うけど観光資源は人工物ばかりだよね。北海道に来る観光客は、人工物を見に来る人より自然的な物や場所を見にきてる人の方が多い気がする。人工物を見る以上、理解するためにはそれに関する文化知識はある程度必要だろうが、京都に来る外人は、日本の文化なんか難しくて絶対に解らない(それこそ一週間ほどじゃ一割もわからないはず)。まあもちろんそれじゃ観光都市にならないだろうから簡略化したり外人ウケしやすいカタチに落とし込んで文化を紹介してる。だから彼らは解ったような気になって帰っていくだろうけど。たまに日本人でも「偽物の文化ばかり紹介しやがって!」なんて聞くけどでも、僕は悪いのは紹介する日本人でも外国人でさえも無いと思う。文化の理解というものがそもそも彼らの旅行の目的じゃ無いだろうからだ。彼らの旅行の目的はあくまで”分かり易くて面白い日本っぽい文化”だから。彼らにとって”ありがとう”を言う時に両手を合わせるのはタイ人でも日本人でもどっちでも良いし、神社の神様の名前なんかどうでも良い。只管にお辞儀がしたいだけなのだ。逆に本当のことの理解を促せば促すだけきっと彼らは冷めていくだろう。仕方ない。そんな外国人観光客が僕たちと唯一感覚を共に出来るのが自然の力によるものだろう。超積った雪の山とか市場に並ぶ魚の色が原色の真緑だった時とか。 本物の文化を伝えることって本当はものすごく難しいことなんじゃ無いかってこの頃思うね。フランスだってワインぼんぼん輸出してるけど、あれは別にフランス文化のことなんか、日本で飲んでる人たちはほぼ理解してないだろう。格好だけ。それぞれに理解がないのは、それぞれに奥行きが乏しくなるよね、当然だけど。ワイン、スクリューキャップ回してマグカップに入れて胃に流し込むだけ。

こんなに目に見えやすい食文化でさえ、他国についてはほぼ理解がないのだから、多人種(国籍)理解だとか、そりゃあ難しいわけだよなって思う。

 

行きはJALのマイルを消化して飛行機で行ったんだけど帰りは18切符で帰ってきた。札幌から函館へ。函館から秋田へ、そして福島から東京へ。ゆっくりと、時間をかけて。帰りの電車の中ではかなり時間があるからね、暇になるだろうと思って本を持ってきた。村上春樹騎士団長殺しの下。ちょうど浦和あたりで読み終わった。特に印象に残ったのは、主人公が井戸の中から何日かぶりに救出されるときに仰向けになって雨に当たる時の文章。僕はこれに痺れてしまって、何度か本を閉じたり開いたりして読み直してしまった。

 

小さな硬い雨粒が頰と額を打つ感触があった。私はその不揃いな感触をじっくりと楽しんだ。これまで気づかなかったけれど、雨というのはなんと喜ばしい感触を持ったものなのだろう。なんと生命力にあふれたものだろう。たとえそれが冬の初めの冷ややかな雨であってもだ。

騎士団長殺し 第二部 (村上春樹)

僕はこれを読んでふと、南下する中でのこれまでの雪のそれぞれを思った。言われてみると、雨に同様雪というのはなんと喜ばしい感触を持ったものなのだろうと思った。でも、雨って、言ったのはすごい。雨って、ものすごく喜ばしい感触だよね、確かに。

これに掛けては特筆されてないけれども、この小説に関しては割に面白い文章を内田樹が書いていたので紹介しますね。 

境界線と死者たちと狐のこと

 

 

 

どんなにきみがすきだかあててごらん

読書の秋やね、先週末北千住でスタジオに入る前、夜10時前頃かな本屋で時間を潰してた。するとね、児童書のコーナーが結構たくさん取られてるところで、そこだけ人が少なかったのね。だからそのへんをうろうろしてた。大体ああいう時間帯、探すべき本が無い時なんて小説や雑誌を見るのは怠いから、丁度良かった。

棚に並んでるのは、見たことのある本ばかりだった。僕の家庭は幼い頃、母親が非常に熱心に教育をしていた方であったから本に関してはよく読んでいた。隣町の大きい図書館に一週間に一度は通い、カートに乗せるだけの本を借りては、車に乗せては降ろしていた記憶がある。

そらまめくんのベット、じぶんだけのいろ、セロ弾きのゴージュ(これは当時の僕にとって非常に難しかった)、おおきくなりすぎたくま、ふたりはともだち、こぐまのくまくん、もりのなか、はらぺこあおむし、おおきなかぶ、三びきやぎのがらがらどん、そしてどろんこハリー。

それぞれの本を読んでいると、これらの本の素晴らしいことに気づいた。児童文学の素晴らしさ。

ま、歳を食ってスレた思想や哲学、これは結構なことだけれど、そういったものを持つ最近の俺がぽかーんって浮いてくるような説得力があるような気がするね。

小学生の時に僕は犬を飼いたいと思った。その時の気持ちって覚えているのだけれど、どろんこハリーのイメージが完全にあるのね。果物それぞれを見ても、はらぺこあおむしの絵を今でも、思い出すことがあるよ。あんな単純な本と絵だろう、そんなに何が良いんだろう。って思うけどね、素朴で純粋な気持ちの綺麗さや完璧さ。

 

どんなにきみがすきだかあててごらんっていう絵本があるね。デカウサギとチビウサギってのが出てくるんだが、彼らはとてもストレートに気持ちを伝え合うんだね。チビウサギは”僕の方がきみのことが好きだ”って言ったらデカウサギが張り合ってくる。ぼくも、こんな本を自分の子供に読み聞かせしてあげたいな。

児童書についてこれこれこうだからこの文が素晴らしいだとかって、託けてる感じがして気がひけるんだけど、最後にデカウサギの言う”ぼくは、きみのこと、おつきさままでいって、かえってくるぐらい、すきだよ”っていうのは果てしてどれくらいなのだろうと、思いを馳せますね。

エリカちゃんの話。

She Her Her Hers

バンド名。確か中学でやったね、人称代名詞の活用。She Her Her Hers。

特に僕は男だからね、”彼は”だとか、”彼が”とか”彼の”とか、あんまり興味がないね。代わりに彼女のことは、気になるよ〜。いいバンド名。

彼らのセカンドアルバムのStereochrome、超良い。彼、声がナカコーみたい。ま、声に限らずスーパーカーっぽいと思う。直線的なベースラインとハモリ具合に洋コード進行。東京のバンド。(去年の2月末に京都に来ていたみたい。しかも僕の家の裏に)


She Her Her Hers - stereochrome (Full Album HQ)

 

Tha blue herb

ま、今更言うことないけどね。この頃また聴きだした。若い時のBossの声のかっこよさって言ったら、無いね。何言っているかわからなくても、かっこいい響きや〜ってなるんじゃないかな。ブルーハーブはHIP-HOPをやってるよってよう聞くわね、あれは札幌に根付いてとか足を使ってチラシを貼りにくるとか色々あるんだろうけど、聞けば聞くほどそう言ったことこそ大事に思えてくる。

とにかく、リリックが素晴らしい。鋭い。痛い。日本刀。

話変わるけど職場で、最近なんで、ここまで来てお酒飲むのって思ってしまったのね。と言うのは、僕自身のこともなんだけれどようわけわからん感じでふらーっと酒場に行ってしまうのね。でもそこでする話とかあったことって殆ど覚えていないし、その場から出てみると、何も残ってない!みたいな。客は皆同じこと言ってるように聞こえるよ。それに打つ相槌も同じ事繰り返してるだけで。虚ろな場にたまーに見える時があるね。

それで丁度先週くらいかな、ちょっとフランクなところ行こうと思って上木屋町ちょっと入ったところに飲みに行った。内装がすごいのね(僕に紹介してくれた先輩は音楽室みたいって言ってた)、そこで、ピコピコ系のちょっとサイケな感じのさ、気持ちいい音楽が流れてるの。結構大きな音で。普段あんまり飲まないんだけど、ジャックそのまま飲みながら一本ずつ吸っていくと体がふわぁーって落ちていってね、すごい良いバーだった。

どうでも良いけど、花見小路に煙草屋があってね、深夜までやってる。そこでよく買うんだけどそこにいる女の子がとっても可愛くってね、沢尻エリカみたいな。そのさ、エリカちゃんは結構人気でね。その店には何人か居るみたいなんだけれど此の前、その日はその子がいた。まだキャスター残ってたけど行ってしまった。目がとっても綺麗なのね、キラキラしてる訳。咄嗟にマルボロ・ライト・ロングって言ってた。なんでか知らんけど。お釣りもらってね、「お姉さん、目が綺麗ですね」って僕が言ったら一瞬動きが止まってね、1秒くらい。「ありがとうございます」て言った。「よう、言われませんか?」「え、初めて言われました…」バタッ(窓を閉める音)

それで、心が折れてしまった。

まあとにかく、そこで買った煙草は何故だか、よう進むね。

どう言う流れか忘れたけど、一箱、残りが少なくなった辺りでビートルズが流れて、N.W.Aが流れた。

ブルーハーブ好きですねって言ったらマスターが横の壁を指差す訳。そこにはさBossのサインがあってね、うおーってなった。リクエストすると、快くかけてくれた。音楽室で聴くOnce upon a laif in sapporo、最高だった。


ONCE UPON A LAIF IN SAPPORO - THA BLUE HERB【99' Live】

 

 

美しいグラスについて

「この店の中でも、全部に意味があるんや?完璧なものばかり揃えていても、駄目。中には引き立て役があるし、それぞれの役割っちゅうもんがあるわ。例えば、これなんかは」とマスターは言ってグラスを手に取った。ロックグラス。
「これはいちばんのお気に入り。HOYA。いちばんデザインがいい。完璧。これと(と言って同じ模様のチェイサー用のグラスを手にとる)ウイスキーロックなんか、出されたら、失神するわ」


僕にはね、ハッキリ言ってそのグラスの素晴らしさが、今ひとつ分からなかった。確かによくカットが入っていて、質感も良くHOYAの技術とデザインセンスの良さはわかるけれど、如何してこれが、完璧なのか。
この話を聞く前から、僕はグラスについては、好きだった。特にバカラリーデルのグラスカットや装飾毛のない薄いグラスが好みだった。
このロックグラスはというと、下三分の一程に小さな菱形のカットが入っている。その上に一本線が引いてあり、楕円形に削ぎ取られるようにカットされた面が全体についている。
そこには、思惟するに彼自身の憧れと思い出が刻まれてる筈だ。今40、50代ぐらいのバーテンダーであれば、このグラスには気づくと思うとも彼は言った。当時、この保谷のグラスはそれほどまでに人気なものだったという。彼が、二十年前だか、その当時に見た、グラスのカットに反射する光の角度。これはいつまでも忘れられずに自分の中に大切に入り込んでしまうものであることも、僕は知っている。
「完璧なもんばっか揃えてる店ってあるやろ。思い当たりあるだろう。俺は、そういうのは、気づいてしまうんや」とも言った。
これには僕も思い当たる節があった。京都で言うと名前を出さずともわかってしまうような書き方になるが、銀座から来たある支店のバーなんかは、グラスが、全てバカラかカガミの高級クラスだ。これらは、とても素晴らしいよ。だけれどもそれらのグラスが並んでいるのを前にして、思いを馳せる余地が存在しない。こんなにも寂しいことが、あるだろうか。と、僕は気づいたのである。そこに生まれる会話とは、ああバカラのローハンやらエトナやら。歳をとらないと、僕には解らないな。


それから、僕はそのカットされたグラスをよく見てみた。すると、これがとても美しかったことに気が付いた。これは、ものすごく綺麗なんだね。引き込まれていきそうな格を備えている。ところで、グラスには、魔法があるように思うよ。とても美人な女性がいようが、グラスがイマイチでは釣り合わないね。これは、全くそうであって、そこには、美人を形成するに最終的にパーツとして必要になってくる筈の上品さであり妖艶さが有るからだと思う。
という、僭越ながら仕事中に思ったグラスの話でした。

コルカタ4日目に、思うこと。

今日は、とても天気が良かった。気温は30℃くらい。これは、結構暑いのだ。一日中歩いていると、太陽は…さして近いわけでもないがなんかこう、炙られてる感じよね。

昨日はとても良い宿に泊まった。またドミトリーであったが、AC付きだし水回りが綺麗で僕としては助かった。相変わらずファンは物凄くうるさいが、そんなことはどうでも良かった。そんなわけで、今日もここに連泊することにした。

 

四年前の夏に、こんなことを書いていた。

 どうしても他の国に来ると自国若しくは長く自分が滞在していた国と国をくらべてしまうものですがここで最初に思ったのは何もかもが汚いということです。ぼくは特別潔癖性ではないし強迫性障害でもないですが、それでもすごい汚いと感じ、どこでもドアで夜だけ日本で寝たいくらいです。 Think different - #1 from US

thinkdifferent.hatenadiary.com

 

この感覚を、僕は忘れかけている。インドっていうのは不思議な国だ。僕が常々思ってることなんだけど、日本ほど室内と屋外を分けて考えている国って、ないんじゃないかな。部屋の中と、外。建物の中と、外。レストランの中と、外。

「日本の建物に外との隔たりがあるって?古民家なんかそんなことないじゃん」

確かに。現代建築においてね。

僕の中では、部屋に入るときはきっちりと綺麗な状態でとか、ベットの上には体を洗ってからだとか、ソファーに土足で上がらないとか、なんかそんなことを昔から大事にしてきたのね。 だから、ベットルームが汚いのが無理だったし、四年前のは、そんなところに一生住めないよ!っていう意味の発言だろうね。

 

インドではさ、外と中の区切りがない。もちろん土足だし窓も開いてて、外の匂いがする。湿気がすごいし、ベトベトする。シャワー浴びても浴びても、ベトベトする。だから、諦めた。クリーンな状態の体を持って、寝ることを僕は諦めた。

諦めてみると、道に寝転んでいる人間が見えてきた。彼らは、ダンボールを引いているだけマシな方で、糞尿や泥の中、ハエがいくらとまろうといつまでも、昼間になっても、寝てる。寝る前にシャワーは浴びないだろうし、朝起きて、そのまま道端の水が出るところがあるんだけどそこで頭をゴシゴシやってる。

それはものすごく、素晴らしいことだ。

ま、体を綺麗に保つということは同時に身を繕うということでもあり、それは素晴らしいことだが、人間臭く、もっといえば動物くさく朝も夜も路上で過ごしてる彼らは素晴らしかった。

普段僕らが恥だ、と言って切り離している、つまり見えないように隠している部分をここでは見せられるのだ。

彼らは人間を信用しているし見限っているようにも見える。自らの肉体、自らの感覚を信じてるし、見限ってるように、見えるんだよなぁ。

このなんて言うんだろう、自分という肉体への見限りとでも言うかな。これが僕にはどの世界で住むものよりも潔く、恥でないように見えてくるんだよなぁ。

自分の肉体の見限りって言うのはさ、難しいね。まず、自分の肉体が意識の入れ物だって考えが僕には、なかったから。自分っていうのはさ、頭の先から爪先までのものであって、別に脳みそだけが僕じゃない訳。

 

コルカタ3日目に、思うこと。

”食事法について例えば人の食うという欲望に対する”恥”の思想が、西欧式テーブル・マナーという、喧しくてやりづらい形式を産んだとするなら、、その最も反対にある極がインド的食事法だ。デンと床に座って、同じ土間に置いた真黒な食物を、素手で貪り食う。それはちょうど、クマが食っているような感じを与える。西洋人と違って、この東洋人は食うという欲望の中で、人間のありったけを暴露するのだ。”

藤原新也 印度放浪

 

 

コルカタについて数日が経ち、僕の旅行は順調だった。今日は、3日目。渡印は二度目であったから、タクシーだの詐欺師だのやりようはわかっているし、去年と変わらず若いのだから、時間たっぷりの中、思うように過ごした。

重い荷物を背負いながら、炎天下に一日中歩き回ったりバスに乗ったり(混んでる時の西船の武蔵野線の比なんかじゃないよ)していると、いくら若い僕でも疲れてくる。疲れてくると、結構下がり目なプランを立てがちだ。結局のところ、それは大体つまらないものだし疲れてしまっては、いけないと思った。

そう思い、今日は朝起きてから午前中ずっと本を読んでいた。ルームメイトが胃でも壊したか、と聞いてきた。ドミトリーだったしエアコンはない。窓には網戸がなかった。だから、夜から朝にかけて蚊がものすごくって、これには参った。しかし2日目には蚊も風のあるところではうまく飛べないのだと知り、体に風が当たる体勢で横になっていた。丁度よく天井のファンの風が当たった。このファンは7段階で設定できるんだけど、これはMAXの7に設定されていた。だから飛行機みたいな音がして物凄くうるさい。しかし慣れた。

何の本。藤原新也の印度放浪。

藤原新也っていうと、メメントモリ。だけどこの人の文章って物凄く良いのね。

読んでいると、インド人の食事法について書いてるページがあった。上の文章。インドっていうのは食事法然り、排泄法然りその他諸々の事において西欧で言うところの恥というものが実践されているように思う。たとえば、食べ物がこう、グワァーっと運ばれてきて、それを一人だけ手で貪るようにガーッとかきこむ。これは、西洋ではありえないだろう。恥、だと言うだろう。

 

仕事をするという事について、僕はよく考えてる。就職を(3年後に)控え、それで頭がいっぱいな時がある。インド人を見てると、仕事をしてる。道を歩いてて見るのはブルーカラーの、それも超低賃金かと思われる属性の人たちだが、彼らは手を肌より更に真っ黒にして何か車の部品を組み立てているし、リキシャの運転手やバスの集金係や路上の物売りや運び屋や。皆汗だくで、それはもう汗だっくだくだ。

路上にはちょっとした菓子や飲み物、タバコにガムとかを売ってる露店が出る。Park Streetというメトロ駅を出てすぐ。そこには年齢は僕と同じか少し下くらいの男がものを売りさばいていた。僕も、水をくれ、と言って2L入った水を30ルピーで買った。クーラーボックスから取り出して、蓋のところを水で洗い流し、こちらに渡す。ものすごい笑顔で。するとまた他のやつも水をくれだのライムジュースをくれだの、あの菓子をだのタバコを一本だけだの言い始める。それにその男はハイハイと次々に商品を渡してゆくのだ。右手で商品を渡し、左手で料金を受け取る。いちいちThankyouなんて言わない。いう暇がない。彼ら客はここで必ず買う必要もないし、男も彼に必ず売る必要もないのだ。しかしここで何と無く買っておく。10歩進めば他の店があり、また10歩いくと…全く同じ品揃えといっても良い店が並ぶ。

僕は、それを見た瞬間に”これが、商売だ!!”って思った。これこそが、商売、物を売るという事だ!

 

 

インドの街中ではよく見る光景。卑しさと卑しさのぶつかり合い。店員側は少しでも高いものや利益が出やすいものを勧めるし、客は少しでも、と値引きをする。日本でこんなことやると、ちょっと卑しいと思われるだろう。旅をしていても、この日本で育つ中で培われてきた”卑しさ”に対する感情が僕の背中から、どうしても離れてくれないのだ。インドでそれがまかり通っているからって、ここの人が卑しいと思っていないわけではないかもしれない。しかし卑しいということが絶対的に悪と捕らえられてはいないようだと僕は気づき始めている。

付随してこのような商売のやり方を見ていると、やはり性善説を僕は信じてしまうのだ。インドでは皆一見、ちょっとでもぼったくろうとかちょっとでも質が悪いやすいものを高く売ろうとかしているように思える。しかし実際のところ、(性善説が施行されるための仕組みは作られているとは思うが)基本的には性善的であるように思う。多くの人間が自分にとって正しいと思うことをしている様子だ。

そういえば、今だと日本でもCashとか客を信頼してやってますみたいなアプリが出てたりしてて、ああいうビジネスモデルってこれから、かなりいけると思う。

リメンバー・マイ・オウン・オピニオン

京阪に乗ってると、祇園四条で修学旅行生みたいな中学生のグループが乗ってきてね、優先席に男子が座ったのね。修学旅行の班行動って男女のグループでしょう、女の子がひそひそやってて、なにかなって思ってたら男の子にそこ優先席だよって注意したのね。

帰ってネットニュースを見ると顔色変えておじさんおばさんが忙しくしてるわけね、ああ、忙しいなって思うよ、社会って。

 

男女同権って、この頃叫ばれてるよね。主に左巻きのそういう界隈の人たちによって。

殆どの男女問題って超難しいと思うんだけど、特に社会的な男女間の権利の差とか差別っていうのものはまた、一段と難しいよね。

日本の男女間格差が語られるところでは欧米諸国の法整備では…であるとか、日本の性教育が外国に比べ進んでいないっていう話がよく挙がるわけ。法的な観点から国内法整備状態を国際的な水準と比較することは理解は、できるよ。

ただ、その比較を現在の個別の国内のケースに当てはめて解釈することはおかしい所があるなぁって思う。まだ外国人と日本人の慣習、常識の違いがあるでしょ。絶対に軋轢が出てくるよ。

アメリカだと、プロムってあるでしょ。サンフランシスコからカルトレインに乗ってさ、昔連れて行ってもらったことがある。アレには大体学校のジョックどころがくるイメージだったけど、そんなこともないんだよね。意外と。肌真っ白なギークみたいな奴が、来てた。

あれ、基本的には男は女を誘って行くんだよね。昔のクラブみたいなもの。要するに、女の子のペアがいないと、(実態は入れたけど、基本は)男は入れない訳。

LGBTの人は大変だと思うよ。私、女なのに、女の子誘わないと行けないなんて・・・。

 

ところでプロムって、女性差別だと思う?

つまり、男性に誘われなかった女性は家や社会で、誘われなかったというレッテルを貼られて恥をかくからって。

これは、アメリカの習慣だ。そこには社会的な階層構造があり、それは男女に関係なく存在する。そこには差別が、存在するだろう。男性差別女性差別も。しかしこれは、男性と同数の席を同じ階層に用意したところで、無くなるものじゃない。絶対に差別者と被差別者は出てくる、と思うんだよね。で、それで良いと思う。バランス。

 

日本では、マスコミが五月蝿いね。昼間ダラダラしてるのは専業主婦層が多いから、そうなるのかな、なんて思うのだけどヒステリックに女権拡大を叫んでいるのはテレビが筆頭な気がするよ。流行りのネットで騒がれていますよ、みたいにしてさ。

ネットではキラータイトルをつけてクリックからの広告PV稼ぎというビジネスモデルのネットメディアが多いことから僕らの目にする情報媒体では多くの誇大タイトルが氾濫している。誇大というのは、良いことを強調することもあるし、悪いことを大げさに書くこともある。また後一つ、僕が問題だと思うのは、言葉の抜き取りである。

記事で比較的ながくに渡って語られている話題があった際に、その途中の一文だけを切り取ってタイトルにしてしまうもの。筆者の意図する伝えたい事のニュアンスとが180度変わってしまうこともあると思う。

それらによって再変された”筆者の主張”というのは大体インパクトのある文体に仕上げられる。それが一人歩きし、社会はそれを無視はできない。

面白いのは、私たちのインターネットネイティブ世代は敏感にそれらの再変されたタイトルを見分けることができることが多いということだと思う。だから、ああこれ、誇張しすぎだろう。ってのもたまに見つける訳ね。怖いのは、おっさんおばさんがこの文章を飲み込んだときなんじゃないかなぁって近頃は思う。まじで。草食系男子とか、いい例。

先月、今月と杉田水脈、吊るし上げられてるけどさ(笑い)根本的に間違ったことは、言ってないよ。”子供を作ることにおいて”同性愛者に生産性がないことは、明らかだろう。ま、比例当選したことを鑑みたり公務員としての発言としてインパクトはあったろうが。

レディバードって呼んで!

出町座で、レディバードを観てきた。もうね、号泣。なんて素敵なんだろうって。

京都には台風が来てる。先週は40度近かったはずなのに今日は29度にならないくらい。風がとても気持ちが良いし、秋のあの感じ、がなんかちょっと見えてしまってゾッとする。ぼくの夏、まだ始まってないよ。

台風っていうのはさ、なんだかすごく変わった気分になる。台風クラブみたいに下着で雨の中、校庭で踊りたい。的な。いつまでも続く一週間単位の終わりなき日常に、パッと台風が現れる。全てのことがそのきっかけ一つで大きく変わることがある。台風の襲来による非日常感によって。それ理由に気づかず、多少の気の触れを素直に喜び、感じはしゃぎ回ることの素晴らしさ。こういうものがやっぱりね、あると思うんだよね。

 

去年の五月頃から書いていた脚本が出来上がった。物凄い長引かせた。わりにはこの一年で学び感じたことはそこまで必要だったかどうかわからない程度に感じる。もちろん、キャバ嬢の服の値段とか、バーのオーナーの昔話だとか、綺麗な風景に関する話、法学についての多少の知識に多少の縁、多少の人生に関する悟りとか多少の多少の…どうでもいいね。うーん、どうでも、いい。

一年前っていうとね、ちょうど今日、思い出すなぁ。舞鶴の方で花火大会があった。好きな女の子と行ってね、なかなか良かった。平成最後の年から一年前の話。大阪の方の花火大会の方がアクセス良かったんだけど彼女が実家に帰省する時期と重なってるって言ってわざわざ東舞鶴まで行った。遠い。去年の今日はもっと暑かった。

だから、苦し紛れに脚本の最初に「20歳の夏、例えばね、俺は、人生というフィルムがあったとしてそれが一度に色づいてしまうほどの素晴らしさ。そんなものを探してる。葉と葉の間に見える眩しさとこの、空気とが重なって、透き通って見える。あの夏の、夢の中から、抜け出して朝が来て。」と書いた。ナレーション。

 

そうそう、レディバードの話。

青春映画。青春には前期と後期があったとして、悩みっていつも同じなんだと思う。台風クラブにしろ、レディバードにしろ、月九の青年層の主人公ではない物語にしろ。

主人公のレディバードは物凄くね、魅力的なのね。シアーシャ・ローナン。ハンナの。赤い髪が綺麗で、目が青い。普段と違って晴れの日に着るドレスもすごく似合ってるの。何よりも、顔つきが凄いんだよね。少年性というか、物凄く前向きな表情をしてる。アメリカ人とか西洋の方の人の習慣だろうけど、人の話を聞くときの姿勢というか、物凄くいいよね。

目が輝いてるんだね。何も見逃さないぞっていう、力強くって、自信のある目。

痛い少女とか黒歴史を描いているというのは、ちょっと不適切だろう。この映画を見てその言葉が出てくるというそういった感性はちょっとセンスがない。これこそが人生というものだし、ちっともおかしくない。青春の輝き。

家族と友達、恋人と進路とかの話。これのそれぞれの関わりの描き方が本当に上手い。

レディバードというのは本名ではなくって、自分で考えたもの。両親から与えられた名前を使いたくないという訳。確かに両親は問題を抱えていて、父親は仕事を解雇されて鬱になってるし母親はそのお陰で夜勤が忙しいし、自我が強いから家庭がピリピリしてる。せっかくいい雰囲気で彼氏と別れた後家に帰ると、母親がグチグチ怒ってキレて喧嘩になる。その軋轢を感じるときの寂しさって尋常じゃないんだよね。でも母子という関係には子供はいつまでも親に認められたいという欲があって「なんで認めてくれないの!」ってなってしまう。最初にできた彼氏、彼とは上手くいくんだけどある日トイレで彼と男がキスしてるのを見かけるのね。でゲイだった彼を徹底的に避けるようになる。このときの女の子の徹底的な避け方って、マジでヤバイよね。その後も彼女はイニシエーションラブを続けるんだけど、色んなことを体験しつつ自分愛が高まってゆくという話。本名を使うようになるし、故郷を田舎は嫌だと言っていても愛していたり。彼女は結局NYの大学に進学することになる。空港まで家族で送りに行くんだけど母親は車から降りないのね。で、一旦帰り道なんだけどやっぱり見送りたいって気持ちが湧き上がって来て空港に戻って駆けつけるんだけど、なんと会えないっていう。

映画っていうのはさフィクションである以上作り話な訳で、物語の選択肢は確実に考えられて作られてる。何故、会えなかった。ちょっと考えた。うーん、なんでやろ。

20センチュリーウーマンのグレタ・ガーウィグの事だ。そういうこと…なんだろう。

素晴らしいシーンも沢山ある。最初の彼氏は演劇部で見かけるんだけど、その後近所のスーパーで会うんだよね。万引きした雑誌を服の中に入れた状態で、彼に話しかけるの。これは、凄く良かった。あの感じ、なんだよなぁ。

淀川長治口調意識で書きました(笑)

無気力感の無さの表現は美しいし正しい。自分の内にある無気力感を少し見つめてみよう。

初夏の日、京都県猫町から想フ

物凄い雨が降った。京都市内では警報が出て避難所が設営された。学校も休校になって四条には多少その煽りを受けた層が流れ出てた感じ。

ぼくは初夏が来ると、アクエリアスのあの匂い、思い出すんだよなぁ。あの花につくような匂い。水泳をやっていてプールサイドに粉末状のアクエリアスで作ったものがおいてあって、練習の合間合間ですぐ飲んで飲み切らないうちに泳ぎ始めるんだよね。だからプールの塩素の匂いも一緒に入ってきて、鼻から呼吸するときに抜ける。嫌いだったけど懐かしい匂い。

中学生、当時クラスには物凄く可愛い子がおったんよね。ふわふわしてるし字は綺麗だし色が白くて髪が黒くて近づくと石鹸の香りがして。で、ぼくらフォーリンラブする訳。クラスメートの中で浮き足立って話なんかするとその子の名前が被って、気まずくなったり。うーん、やっぱりそれくらいのもの。恋愛って、良いものだよなぁって思う。いつの日かその子がね、水泳部を見にきたことがあった。見にきたっていうか、放課後、バシャバシャ自由形で泳いでると呼吸したときにフェンス越しに彼女が居てね、えっ、何してんの?みたいな。なんか当時やっぱりかっこいいヤツって友達にも居て、そいつがその時カッコよく水筒を飲むんだよね笑。だからその時それ思い出して、咄嗟にぼくも水筒を飲んだんだよね。横顔で。そしたらアクエリなんてガブガブ飲むとお腹にくるからさ、すげーお腹が冷たかった。目は、終始あって無いね笑。

彼女、何見てたんやろ、ってね今でもたまーに夜、考えたりするんですね。今何してるのかなぁ。大学に行ってるかもしれないし、働いてるかもしれないし結婚してるかもしれない。

中高の、若しかしたら大学生になって初めの頃も、恋なんていうのはレモンスカッシュのように甘酸っぱいもので、爽やかで、簡単でそして純粋なものだと思っていた。透徹で筋は通ってるし、理解できないってことは無くって綺麗な、ものだって。

しかし、大学生になるとレモンスカッシュなんてものは幻想で、どちらかというとレモンサワーに近い。恋愛なんてみんな自分を誤魔化しながら酔うものだ、なんて考えが浮かんでくる。

レモンのような爽やかな香りよりも、アルコールと汗とかきな臭くてサブカル臭いものが合うような気がしてくる。でも何を信じていたのかをすら忘れたとき、やっぱり外側メンタルって強くなるかもだけど一度侵入された時の免疫が無くなりそう。

相手のスペックがどうだとか、寝たかどうかだとか、打算だとか妥協だとか、10代の頃にはわからなかったのだ。寝ることの意味は。スペックって、何。打算妥協、ってどこまでいうの。

 言葉は難しいがそういったところの純粋さを忘れた色欲は本当に怖くて怖くて、一晩中悩んでいます。女の子に対する考え方が変わっていく自分に、怖くなります。

でも、あの頃飲んだアクエリアスの美味さが忘れられない。どんなに美味しいカクテルを飲んでも、あのときのアクエリアスの喉を突き抜ける爽やかさは、なんだったんだろう、と思うんだよね。

 

関根さんのこのくらいのテンションで、語りたい。

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もう一つのぼく、あったらどうする?

宇宙は、どこまで行っても続いている。終わりはあるだろうが、その終わりまでは続いているし、そこの間までの物質は同じ様なものだろう。

もし、例えばここではないどこか他の太陽系があったとして、そこには地球と同じ様な惑星がある。そこでは物凄い確率で地球と同じ様に物事が進んだ。既に星の生成から50億年近くが経過していて、それらは地球と同じ様であったとした時、地上ではきっと同じ見た目で僕ら、人間がいる事だろう。生命の進化を信じていればやはり長い年月の中で辿り着く先は同じ世界の中であれば一緒であるはずである。

そこにいる人間も代を重ねていって、僕と同じ代になった。僕の父親と全く同じ見た目の人間がそこにはいて、母親と同じ見た目の人間がいた。僕にそっくりな子もいる。

ところで彼らは見た目は同じであれ、心は僕と同じくなるのかな。全く同じ環境下で。

学問を深めることの意義とは

心の牢獄に囚われている。

これは精神が心の抑圧で思惟を妨げているといった意味ではなく、看守は時間そのものだとする見方である。

ショーシャンクの空に作中のレッドの台詞にはこういったものがある。

「最初の夜が一番つらい。素っ裸であるかされる。肌は消毒薬で痛む。独房に入り鉄格子が閉められた時ー 現実だと気づく。 今までの人生を失い、際限のない時との葛藤が始まる。新入りは正気を失い、誰かが泣き始める。誰が最初に泣き始めるか。これは面白い賭けだ。」

 

無期懲役囚というのは仮釈を除き規則的には天命を全うするまで檻の中で余生を過ごす。そこでは終わりなき時が流れ始め、自分の意志行動により塀の中へいったん入ってしまえば誰にでもあり得る。もっともアンディのように自分の意思行動とは関係なく入り込んでしまうこともあるが。

心の牢獄の一つの側面はこれによく似ている。余生を時が過ぎることと隣り合わせに捉え、言ってみれば如何に時間を消費するかと考えるの囚人であるのに対し、心の牢獄に囚われ行動を余生を時間を過ごすために起こす人間は重なって見える。

 

一見して時の消費の為に生きることは辛いことのように思うがそうではない人間と比べて悩みの種が異なっていることだけは明らかである。前者は前提条件として人生における目的が時の消費となってしまっている為にその中でどれだけ苦痛を感じることなく生きるかを考える。その目的下には苦痛に過ごさないことに意義はないし、少しでも苦痛があればそれはマイナスである。目的が余生の消化にない場合、苦痛が生じることは時に意義となりえるし、苦痛こそが、死と対面することが、学問を深め真理を知り苦痛を感じることが意味のある事の場合もある。

物事、正しいこととそうではないことがあって、それらの見極めは非常に難しい。